信仰をもって強く立ち上がる時―起きよ、光を放て!―
holygirlです
4月13日に東京・池袋で行われた「パンデミック条約」に反対するデモ行進は、全国から約2万人の人々が立ち上り参加しました。「パンデミック条約」とは、新型コロナウイルス感染症対応の教訓を踏まえて世界保健機関(WHO)が、5月の総会での採択を目指す、権限強化などに向けた条約であり、その目的を簡潔に言うなら、「強制ワクチン接種を可能にし、反対する者には刑罰を与えることもできる」というものです。日本の大手メディアは一切取り上げませんでしたが、海外では大きな話題となり、このデモによってアメリカの上院議員たちが立ち上がり、WHO脱退へと動き出しました。日本も、この状況から逃れるためには、WHOを脱退するしかありません。武見厚労大臣とWHOのテドロス事務局長はとても親しく、日本はどこの国よりもWHOの言いなり⇒世界的首謀者となってきましたが、このデモには効果があり、WHOはIHR(国際保健規則案)にあった危険条項を大量に削除し、後退し始めました。しかし、まだ戦いは続いています。そして、さらに大きな計画も動き出していました。
皆さんは、ご存じですか?今この日本が、「日本人虐殺計画」「日本国土アウシュビッツ化」に向かっていることを!かつてヒトラー政権時代のポーランド・アウシュビッツ収容所で、たくさんのユダヤ人がガス室に閉じ込められ虐殺されました。国民の声を一切聞かない、独裁政治。それが日本でも現実化してきています。
政府は密かに「新型インフルエンザ等対策政府行動計画改定案」を打ち出していました。そのパブリックコメントをゴールデンウイーク期間中に募集し、締め切りは5月7日18時まででした。これは政府が感染対策を名目に“偽・誤情報”を常時監視し、SNS等のプラットフォーム事業者に削除要請も法的に可能になるものです。監視の対象は、「ワクチン接種や治療薬・治療法に関する科学的根拠が不確かな情報など」「いわゆるフェイクニュースや真偽不明の誤った情報など」と例示されており、政府のさじ加減でいくらでも対象範囲を拡大できるようになっています。また、監視を実施するのは、厚労省や昨年9月に発足されたばかりの「内閣感染症危機管理統括庁」と想定されていますが、限定されているわけではなく、他の省庁が実施できる余地も残されています。つまり政府は感染症対策を理由に、ワクチンや治療薬の危険性を訴える声を“偽・誤情報”とみなすだけではなく、全ての分野における不都合な情報を弾圧しようと目論んでいると考えられます。そのような改定案が6月に閣議決定されようとしているのです。
どれだけの国民がこのような改定案があることを知っていたでしょうか。相変わらず、どのマスコミも一切報道していません。皆の気が抜けているゴールデンウイークを狙ってパブリックコメントを募集する政府のやらしさ、狡さ・・・それでも、政府が邪魔者扱いしているSNSやYouTubeなどのプラットフォーム事業者による情報提供によって、パブリックコメントは18万8000件を超えたのでした。締め切り日となった7日には1分間に1000人がコメントをあげたそうです。
しかし、今後4000人の治験が終わっているレプリコンワクチン(新型コロナウイルスに対する新しいタイプのmRNAワクチン。製造元:Meiji Seika ファルマ株式会社)を国民全員に接種させたい政府は、このパブリックコメントも形だけで、平気で無視し、推し進めようとしています。本来、サルで実験を繰り返し安全性を確認するはずが、サルは一匹700万円するからと、すぐに人間で治験を行う恐ろしさ・・・「日本を治験できる国にします!」と言った岸田首相の言葉!私たち国民は猿以下のモルモットか!?いい加減にしろ!と思います。現在、日本でコロナワクチン未接種者は国民の15%ですが、このレプリコンワクチンは接種者はもちろん、接種者を通して未接種者含む全ての人々に悪影響を及ぼし、死に至らしめるのだと、長年ワクチンを研究してきた方々が警鐘を鳴らしています。まさに、日本人虐殺計画の始まり、広島、長崎に続き、3発目の原爆が日本全土に落とされようとしているのです。
情報弱者たちは、「まさか国がそんなことをするはずがない」と言います。今でも、ワクチンに反対する人々を陰謀論者と決めつけ、彼らにとっては、“偽・誤情報”を政府が監視してくれる改定案は万々歳かもしれません。しかし、コロナワクチン接種を7回目まで続けているのは、今や世界的に見て日本だけです。それに伴って、ワクチン後遺症患者が増え、超過死亡数が大災害が起きた年よりも多くなっています。政府はワクチンとの因果関係をほとんど認めずに来ました。その政府が何を根拠に“偽・誤情報”だと判断するのでしょうか。医者、マスコミ、政府、経団連など、今まで国民が信じて疑わなかった立場の人たちが、国民をだまし、生物兵器と言われるコロナワクチンを接種し続けてきた事実・・・自民党副総裁の麻生太郎氏が、コロナパンデミックが起きた当初に葬儀屋の株を買い占めたと聞いていましたが、今、関東圏では火葬場が2週間待ちだそうです。それだけ多くの国民が亡くなっているという事です。
ワクチン接種をしてすぐに命を落とせば原因はワクチンだと疑えますが、コロナワクチンは生物兵器であり、製造元の一つであるファイザー社はすでに1291種類の副反応があることを発表している通り、ありとあらゆる病気で亡くなる可能性があるため、その死亡理由も、命を落とすまでの期間も人それぞれです。実に巧みに、国民は死へと誘われているという事です。世界的には、今や死産の原因の80%が母親がワクチン接種者であったという論文も出ているそうです。
そして、関東圏の葬儀屋のほとんどが中国人経営者になっていると言われています。「国がそんなことをするはずがない」と言いますが、政府の中にどれだけの純日本人がいるのでしょう・・・売国奴が大勢います!今だけ、金だけ、自分だけしか見えていない悪人が、この国を、国民を滅ぼそうとしています。しかし、実際自分たちだけがそんな世界に残ってどうなるのでしょう。まさに後先考えずに、愚かなことをしていますが、それが悪魔に心を奪われた人間のすることなのだと、聖書真理を知っている私たちには解ります。また、日本政府の上に、彼らをも操る人たちがいることを私たちはこのコロナ禍で聖霊により知らされてきました。ディープステート、悪魔崇拝者と呼ばれ、世界を支配している1%にも満たない人々です。彼らに「言いなりにならなければ、命をとる。家族にも危害を加える」と脅されれば、日本政府の役人も言いなりになるしかないでしょう。人間は究極、自分を守りたい、自分さえ良ければいいのです。
このような日本の最悪な状況に対して、再び東京で5月31日(金)正午から第2回目のデモ行進、国民運動が行われます。日比谷公園の中の日比谷野外音楽堂(3000人収容)からスタートし、すぐ目の前にある厚生労働省の庁舎、そこにいる武見厚労大臣に3000人の声を届けます。銀座に向かって行進し、ゴールの終着地点付近にはレプリコンワクチンの製造元であるMeiji Seikaの本社があります。そこでシュプレヒコールをするそうです。(これを宣伝していたYouTubeはすでにバンされています) 今回は100万人規模のデモ行進を目指しているそうで、国民一人一人の目覚めと、自発的な参加が求められています。この国を守るために!次世代に日本を残すために!と立ち上がっている人々がすでに大勢いることがこの国の希望です
そんな中、前日の5月30日(木)に、政府主導、政府公認であろうファシズム(企業社会主義)の1万人大会を行うと・・・主旨は感染症対策、政府行動計画の推進、緊急事態条項の推進であり、財界、経団連、医学界(獣医師会、病院連合含む)によって行なわれます。動員型ですが、人は集まっていないそうです。なんでこんな時期に行うのかと疑問の声も上がっているとか・・・明らかに翌日のデモ行進を邪魔しに来ているだけ。全大手メディアも推進するということで、5月31日のデモ行進ではなく、この大会を報道する目的で政府が仕掛けているのがわかります。4月13日のデモ行進も日本初の大規模デモだったにも関わらず、参加人数がデモの半数だった渋谷のLGBTQのパレードだけをメディアは報道しました。本当に姑息な手段をとってきます。
ここまで、今の日本の動き、危機を書いてきましたが、アメリカの不正選挙でバイデン氏が大統領になってから、コロナ禍に置かれた2020年から2024年に至るこの4年間は、サタンの最後の悪あがきを見届ける期間でもありました。そして、今ついに日本も来るところまで来て、日本人は生きるか死ぬかの状況に立たされています。その中で、私たちは国籍が天にあるクリスチャンとして、闇側の策略、聖霊対悪霊の霊の戦いであることを知り、とりなし祈ることができる者であるのだと、今週の集会で語られました。今まで私たちが聖霊によって知らされ、貴重な情報を与えてきて下さった人々が一つになって、大きな悪の勢力に対抗している姿を見せられ、応援すると共に、彼らがイエス・キリストをカシラに、神の守りの中で一つになっていくこと、悪霊の存在を知り、キリストの権威を得ることを祈り求める思いが強められます。
そして、テモテへの第2の手紙2章が与えられ、私たちクリスチャンはキリスト・イエスにある恵みによって、サタンに対し、また張り巡らされて来た律法に対し、強くなりなさい神に知恵をもらって賢くなりなさいひるんでいる場合ではないと語られました。
第2テモテ2章
そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。わたしの言うことを、よく考えてみなさい。主は、それを十分に理解する力をあなたに賜わるであろう。
ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである。それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受けるためである。次の言葉は確実である。「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。
あなたは、これらのことを彼らに思い出させて、なんの益もなく、聞いている人々を破滅におとしいれるだけである言葉の争いをしないように、神のみまえでおごそかに命じなさい。あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。俗悪なむだ話を避けなさい。それによって人々は、ますます不信心に落ちていき、彼らの言葉は、がんのように腐れひろがるであろう。その中にはヒメナオとピレトとがいる。彼らは真理からはずれ、復活はすでに済んでしまったと言い、そして、ある人々の信仰をくつがえしている。しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。「主は自分の者たちを知る」。また「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ」。大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。
そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。
アーメン
日本人が神を自分の内に迎え入れて“クリスチャン”となれるように、死んでいる霊に、渇いた心に、悲鳴をあげている身体にどんな言葉をかけるのか、私たちはますますイエス様に知恵を求めていかなければならないと語られました。集会では私たちに必要なことは全て牧師がイエス様に忠実に語って下さっていますが、それを自分の身にして言葉にし、行いに移せる、忠実なキリスト・イエスの良い兵卒となれているのか、一人一人が自分を吟味しました。そして、牧師を通して「悪人を目覚めさせる言葉を下さい!相手を納得させる知恵を下さい!大胆さ、強さを与えて下さい!」ともっと真剣に求めるよう語られました。
そこには賢さも必要です。学校で受験のための勉強をしていても、自分たちが乗船している日本という船が沈もうとしているのです。その中で良い学校、良い会社を目指して勉強だけ頑張って何の意味があるか。勉強をしていればいい、スポーツを頑張っていればいいという教育のもと、日本の若者は言葉を奪われ、隣人や社会に対して無関心、無感心、無観心になり、何があっても傍観者になっています。そのまま社会に出て、世の中の人の気持ち、苦しみ、悲しみに寄り添えない大人が増えています。国に関心がなければ、国の政策に怒ることもできません。今まで日本で大規模なデモが起きてこなかったのは、怒りをあらわせない死んだ魂と、無関心のあらわれです。もっと日本の歴史(学校教育では知り得ない隠されてきた歴史)や、政府が行なっている政策、行なおうとしている事、社会情勢に興味をもって知ること、世界から見たこの国の現状を知ることが必要であり、それをみことばと共に、ほかの人にも教えることのできる賢さが求められていると語られました。
私たちはこの時代を生き延びるための知恵を聖霊によって与えられている者として、日本人に、「神を知りなさい!神と共に生きることを知りなさい!聖霊によって聖書を読むことを知り、学びなさい!天と地とあなた自身を造った神を知り、自分の内に迎え入れなさい!」ともっと大胆に語り、主人であるイエス様のために働いていけるはずです。
そして、人に脅され、命を奪われるような状況に直面したり、レプリコンワクチンを強制的に打たされ、打たなければ生きて行けないような社会になった時、究極自分の命をどう考えるのか・・・死への恐怖が先立つならば、私たちの内に神への信仰はまっとうされていないのだと語られました。パウロが、【わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。】(ピリピ1:21~23)と言ったように、救われたら死への恐怖は取り除かれます。私たちもパウロと同じように、この世を去ってイエス様と共にいることを望みながらも、この地上でやるべき働きがあるのなら、肉体において生きることを選ぶ者となれているか問われました。
また、以前、牧師が何度も霊が励まされるからと観ていた『パウロの生涯』というアニメがあったのですが、そのアニメの最後は、パウロが看守に名前を呼ばれ、処刑に向かう際、「信仰を持って!信仰を!」と叫ぶシーンで終わり、毎回そこで涙が溢れたのだと話して下さいました。クリスチャンとしてイエス様を仰ぎ見て生きるのは当然ですが、牧師は「パウロの生き方にならえ!」とイエス様から思いを入れられていたそうです。なぜなら、自分自身もパウロ同様、救われる前はイエス・キリストに対して迫害者だったからです。
日本人には“信心”はあっても、“信仰”はありません。“信仰”(という言葉)は真の神であるイエス・キリストによってはじめて生まれ、与えられるものだからです。日本人の“信心”はころころ状況によって変わり、自分を助けてくれるものなら何でも手を合わせますし、自分にとって不都合なことが起きれば、すぐに「やめた!信じない!」と言えてしまうものです。しかし、“信仰”がある人間・クリスチャンは、何があっても信仰をなくしません。神に捕らえられ、神を内にお迎えして生き返った霊の強さによって信じているからです。そして、その信仰をもったクリスチャンが家庭に一人立てば、一つの国に一人立てば、神によってその家庭も、国も変える力を持っています。パウロが信仰をもって立ち上がったことで、イエス・キリストの福音が全世界に及んだ通りです。
クリスチャンでありながら、自分がもっているのは“信心”か“信仰”か・・・招かれる者は多いが選ばれる者は少ないと言われる中、真理の言葉を正しく教えず、俗悪なむだ話をして、不信心に落ちていく人、名ばかりクリスチャンが多いからこそ、日本人の救いは未だ1%です。さらに間違った教えをしたり、信徒を恐怖でつなぎとめるような支配的牧会によって、信仰をくつがえしてしまっている牧師の話も聞きます。せっかく救われても、信仰を育てる場所がないキリスト教会の現状を通しても、改めて一人の魂を救い、信心を信仰に変え、神との関係を深めさせ、神のもとに帰すことがどれだけ大事であるか、勝ち取った魂をしっかりとイエス様につなぎとめておくべき場所こそが教会であると語られました。
そして、クリスチャンであるならば、【あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。】(第2テモテ2:22~26)というみことばの土台に立ち、霊魂体にしっかりと刻まなければなりません。主の僕たる者が血肉の戦いをして争い、怒りや憎しみという感情に支配されたり、プライド・男義が邪魔をして神が見えなくなったらサタンの思う壺です。一人の魂の救いのためを思えば、誰に対しても親切になることができ、よく教え、反対する者を柔和な心で導いていくことができるでしょう。どこまでも神の御前で主役は自分であり、神が相手を使って自分を訓練し、訓練が終わったら、相手を捕えている悪霊が離れ去り、神が相手を変えてくださることを忘れてはなりません。
今週の集会には、2年前のクリスマス集会ぶりに横浜から韓国出身のカン牧師が来られました。カン牧師は、30歳の時に来日され、現在54歳だそうですが、ここから新たな段階に進むための導きを求めた時、エレミヤ書33章3節のみことば【わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。】が与えられたそうです。そこで、まずはぶどうの木の教会の在り方、牧会の仕方を学んでいきたいという思いを入れられ、着席されました。型破りなぶどうの木集会ですので、どのように受けられたかは分かりませんが、カン牧師からは、ここまでの歩みの証と共に、クリスチャンの信仰の訓練について、集会最後にメッセージを語って頂きました。
詩篇119:71
苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。
アーメン
カン牧師の聖書は、【苦しみにあったことは、幸せなことです】と書かれてあるようで、主の訓練を通った人だけが分かる幸せがあるのだと、ご自身の体験も交えながら話してくださいました。その中で、「モーセは80歳で主に用いられた器でした。もっと若い時に用いられたら、イスラエル人をエジプトから連れ出すにしてももっと容易であったでしょう。しかし、神はそうはされず40年間モーセを訓練されたのです。そこで苦しみや葛藤、人との関わりといった人生経験がなければ、何十万人ものイスラエル人(成人男性だけでも60万人。出エジプト12:37)をエジプトから導き出すことはできなかったでしょう。リーダーになる者は、人生経験を積んでいなければ、人前で語っていても、あなたはどうなんだ!?と言われますし、人を教え導くこともできません。イエス様を信じて生きることは幸せですが、苦しみも必要です。その苦しみとは、肉的なものではなく、主がご自身を信じる人に与える苦しみです。信仰生活の中で妥協したり、一度決めたことを放棄しないことです。それを乗り越えて進めと神はおっしゃり、そうすれば思いをはるかにこえた神様の御計画があるのです。いつまでも幼子のような信仰生活を送っていてはだめです。キリストの花嫁になるための苦しみがあり、ヨブのように主が何を望んでおられるか悟らなければなりません」というメッセージにアーメンでした
先週も主の訓練について語られましたが、今週の集会でも改めて主は愛する者を訓練されるのだというところに立ち、もっと喜び感謝して、その訓練を越えていく信仰の強さを持たなければならないと語られました。
申命記6:4~7
イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。
マタイ22:37~39
イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
アーメン
韓国語の聖書では、【命をかけて神を愛せよ】と書かれているそうで、聖書によって受け取り方が違うことも改めて分かり、ますます御霊によって神の御心を悟っていく必要があると語られました。
そして、今週の賛美歌を通して、母教会の始まりに与えられたイザヤ60章が示され、確認しました。
イザヤ60章
起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。
あなたの目をあげて見まわせ、彼らはみな集まってあなたに来る。あなたの子らは遠くから来、あなたの娘らは、かいなにいだかれて来る。その時あなたは見て、喜びに輝き、あなたの心はどよめき、かつ喜ぶ。海の富が移ってあなたに来、もろもろの国の宝が、あなたに来るからである。多くのらくだ、ミデアンおよびエパの若きらくだはあなたをおおい、シバの人々はみな黄金、乳香を携えてきて、主の誉を宣べ伝える。ケダルの羊の群れはみなあなたに集まって来、ネバヨテの雄羊はあなたに仕え、わが祭壇の上にのぼって受けいれられる。こうして、わたしはわが栄光の家を輝かす。
雲のように飛び、はとがその小屋に飛び帰るようにして来る者はだれか。海沿いの国々はわたしを待ち望み、タルシシの船はいや先にあなたの子らを遠くから載せて来、また彼らの金銀を共に載せて来て、あなたの神、主の名にささげ、イスラエルの聖者にささげる。主があなたを輝かされたからである。
異邦人はあなたの城壁を築き、彼らの王たちはあなたに仕える。わたしは怒りをもってあなたを打ったけれども、また恵みをもってあなたをあわれんだからである。あなたの門は常に開いて、昼も夜も閉ざすことはない。これは人々が国々の宝をあなたに携えて来、その王たちを率いて来るためである。あなたに仕えない国と民とは滅び、その国々は全く荒れすたれる。レバノンの栄えはあなたに来、いとすぎ、すずかけ、まつは皆共に来て、わが聖所をかざる。またわたしはわが足をおく所を尊くする。あなたを苦しめた者の子らは、かがんで、あなたのもとに来、あなたをさげすんだ者は、ことごとくあなたの足もとに伏し、あなたを主の都、イスラエルの聖者のシオンととなえる。
あなたは捨てられ、憎まれて、その中を過ぎる者もなかったが、わたしはあなたを、とこしえの誇、世々の喜びとする。あなたはまた、もろもろの国の乳を吸い、王たちの乳ぶさを吸い、そして主なるわたしが、あなたの救主、また、あなたのあがない主、ヤコブの全能者であることを知るにいたる。
わたしは青銅の代りに黄金を携え、くろがねの代りにしろがねを携え、木の代りに青銅を、石の代りに鉄を携えてきて、あなたのまつりごとを平和にし、あなたのつかさびとを正しくする。暴虐は、もはやあなたの地に聞かれず、荒廃と滅亡は、もはやあなたの境のうちに聞かれず、あなたはその城壁を「救」ととなえ、その門を「誉」ととなえる。
昼は、もはや太陽があなたの光とならず、夜も月が輝いてあなたを照さず、主はとこしえにあなたの光となり、あなたの神はあなたの栄えとなられる。あなたの太陽は再び没せず、あなたの月はかけることがない。主がとこしえにあなたの光となり、あなたの悲しみの日が終るからである。あなたの民はことごとく正しい者となって、とこしえに地を所有する。彼らはわたしの植えた若枝、わが手のわざ、わが栄光をあらわすものとなる。その最も小さい者は氏族となり、その最も弱い者は強い国となる。わたしは主である。その時がくるならば、すみやかにこの事をなす。
アーメン
神・イエス様は光そのものです。神を愛し、隣人を愛し、置かれた場所でしっかりと光を放っていくクリスチャンとなり、闇側にいる人間を救い、闇の勢力に対抗して勝利できるキリストの兵卒となっていけたことを感謝して祈ります
ピリピ人への手紙を通して学ぶイエス様・聖霊様との歩み
holygirlです
今日5月6日は、1985年にアメリカ・ロサンゼルスで日本、日本人に向けた預言が出されて39年目です。また、ぶどうの木牧師が聖霊のバプテスマを頂き27年目となります。
<1985年5月6日にアメリカ・カリフォルニア・ロサンゼルス・メロディーランド教会において、ビリー・ブリム女史によって日本人に出された預言>
大いなる光があの日本という国に臨みます。大いなる、大いなる、大いなる光です。聖書にこう書かれてある・・・
イエス様は朝の光のように、地に若草を芽生えさせる雨のように人に臨むと。(サムエル下23:4)イエス様の朝日の輝きはまず東洋にのぼり、その福音の光は西洋におよび、今また東に帰ってこようとしています。あなたの生まれたあの国に神が大きく働かれるのをあなたは見るでしょう。神の光をあの国に見ます。神の光がその民の上にあるのを見ます。
そうだとも!
あなたがたは光を見る。神の光がこの地球を行きめぐる。大いなる尊い光を見る。あなたがたはまだ、真に輝く光を見たことがなかった。人間の思いの垣根というかげりの一切ない真の光を。しかし今この時に、栄光から栄光へと増し加えられていく、力に溢れたその光が来るのを見る。あなたがたはさらに良く見えるようになる。このわたし、「有って有る者」とよばれるこのわたしこそが、あなたにとって光となる。その光をあなたがたは見るようになる。こうしてその福音の光、このみことばの光は、未だかつてそれを聞いたことのなかった人々の耳にとどまるようになる。それは超自然の大いなる光だ。このわたし自身なのだ。
わたしはあなたを暗きところから、あなたを取り囲む状態からあなたを引っぱりだす。もう答えがないとあなたは思った。見ないか、あなたの神という光に目を向けよ。このわたしがそれだ。この暗い時代に神の光は輝きわたる。あなたはその神の光(力)を与える器となる。しかしそのともし火は、わたしだけによってともされなければならない。この世によって曇ったり、汚れたりしてはならないのだ。わかるか。わたしの血によってきよめられた、純粋な混じりけのない器。盛んに燃え続ける灯火(あかり複数)。あなたがたが洪水なのだ!
わたしはあなたをわたしの心に引き寄せる。あなたの一部ではなく、すべてを明け渡すようにとあなたを召す。この灯火となるために、自分の全身全霊を捧げるようにと召す。完全にわが手によって治められるように。今、あなたの立っているこの場所で、それを本当に現実のものとしてあげよう。それによって光を輝かすための、わたしに従順に応じる、聖なる器。
わたしはあなたをふるう。わたしの力によって・・・あなたは生きのびる・・・この時代を。あなたは生きて死ぬことはない。・・・「なぜ!?」と叫ぶな。ただ聖別され、ひたむきに専念しなさい。あなたに、そしてあなたをとおして、わたしが輝けるようにしてほしい。明け渡せ!放せ!脱ぎ捨てよ!栄光に輝く花嫁にふさわしくないものは、すべて捨て去れ!
あなたにそれができるようにした、と言ったではないか。いっさいの重荷を捨てよと。わたしがしなさいと言うことはできるのだから・・・。捨てておきなさい、ふたたび拾い上げてはいけない。
(中略)
今もし幕を取り去りさえすれば、おおいなしに神の栄光を見る。神の教会が現れる。栄光と恵みにあふれ、はっきりとした力の現れに満ちた教会。天にあって、永遠に離れることなくわたしの前におらせるために計画した教会だ。だから定められた位置につくがよい。わたしはあなたがたに言う、(あなたがたは)争いも分裂もまったくない、栄光のための容れ物として用意されている。銀行には黄金が貯えられている。しかし、そんなものよりもはるかにはるかにまさる富・・・人間の金庫にはおさめきれない大いなる富をおさめる器・・・。この終りの時に、神の臨在・・・神の目的・・・神の言葉と力を注ぎ出す器たちよ。
昨日の集会では、この預言を受け継いで、神の臨在、目的、言葉と力を注ぎ出す器になることを改めて語られました。そして、いかに聖霊が大切か、どこまでも悪霊の策略を見抜き、見分けて戦うという学びがなければ、何のための教会であり、クリスチャンであるか、確認する集会となり、ピリピ人への手紙を通して、クリスチャンとしてイエス様と共に歩むとはどういう事なのかを語られました。
ピリピ3:13~16
兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。
アーメン
“きっとこうなる”、“前もダメだったから、今回もどうせ同じことになる”という占いの霊に囚われると、自分の意見・思いが先行して、イエス様に示されたことができなくなります。「祈っているんだけどね」とは言っても行いには移さず、状態にとらわれて一歩も踏み出せないクリスチャン、牧師が聖霊の賜物による【知恵の言葉】で「こうしたら良い」と教えて下さっても、「そう言われても無理です」と言うクリスチャンは不信仰であり、キリストの僕ではありません。いつまでも後のもの、過去を握り、物事を判断している違った考えについて、イエス様は牧師を通して徹底的に示してくださいました。
また、このみことばは主の訓練についても教えてくれています。「ノウハウを知ったからもう大丈夫」という事は、クリスチャンにはありません。「牧師は完璧だから、もう訓練はない」という事もありません。主の訓練は一生続きます。だからこそ、立っていると思う者は倒れないように気をつけなければなりません。そして、訓練のハードルはクリスチャンとしての成長に伴って上がっていきます。高跳びと同じで、1センチずつ上がっていったとしても、跳び越えようとしたらいっきに上がったように感じるものです。どれだけの歩幅で助走をし、どのタイミングで踏み込むのか、そのタイミングが合ってこそ跳び越えることができ、それが聖霊のタイミングを逃さずに門が開いている時に行いに移す事と同じであると語られました。失敗したら、聖霊のタイミングを逃したら、もう一度、霊・魂・体を整えて、ハードルが用意される事を、聖霊の門が開くことを待ち、次のタイミングで挑まなければなりません。
さらに、訓練のハードルは高くなるだけではなく、数も増えていきます。助走少なく、日々次から次へといくつものハードルを跳び越えていかなければなりません。ぶどうの木の牧師の姿を見ているとそれがよく分かります。24時間休む暇もなく、信徒が抱えている問題=目の前にあらわれるハードルを跳び越えながら、群れの羊皆を養って下さっています。私たちも訓練を嫌がるのではなく、次々に訓練が与えられることは神に愛されている証拠、私生児ではない証拠であることを喜び、牧師の姿勢に倣って成長していかなければならないと語られました。
後ろのものは忘れること、“前はこうだった、こう言われた”という占いの霊に囚われず、前のもの・未来に向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めるのがクリスチャンです。「なぜ神は私に乗り越えられない事ばかり与えてくるのか!愛の神ではないのか!」と肉の思いが爆発して、逃げ出してしまう羊もいますが、神は私たちの状態、気づいていない罪、過去、未来、全てを知っておられ、通れないところは通させません。忘れてはならないのは、全てのハードル=訓練は、主が与えているという事、そして、助け主聖霊も与えて下さっているという事、私たちは主にあって跳び越えていけるという事です。神は、いつも一人一人の達し得たところに従って、「次はこうしなさい」「この道を行きなさい」と教えて下さいます。逃げ出さずに忍耐して訓練を受け入れ、乗り越え、成し遂げるなら、必ず賞与・勝利の証・祝福が伴っていくのです。
ピリピ人への手紙を書いたパウロは、何度も迫害を受け投獄され、この世を去ってイエス様と共にいることを願い、望みながらも、神を愛し、私たちに信仰ある者としての行いとそこに伴う喜びを、命をかけて宣べ伝え続けてくれました。私たち同様、イエス様に直接お会いした事はなくても、イエス様の愛と力を知り体験しており、信仰を貫き通した先人であり、模範となる存在です。パウロのメッセージは、魂が揺さぶられ、同じクリスチャンとして「できない」「私には無理」とは言えず、霊から励まされ、力をもらうことができます。むしろ、そのように感じることができてこそ、霊魂体のパイプが開通し、連動しているクリスチャンと言えるでしょう。
霊にどれだけみことばを蓄えていても、魂(知性・感情)で考え、感じて、判断するのは自分です。神は人間をロボットにさせないために、自由意思を与えてくださったからです。しかし、魂が死んでいたらどうでしょう・・・自分の思いを言葉にできない、神の愛のメッセージを受けても何も感じない、心が動かされない、悪に対して聖なる怒りも沸き起こらない、神がしてくださった事や聖霊の導きを悟れない状態であれば、一方的に注がれている神の恵みも、聖霊の働きも全て無駄にしている事になります。
20代のA姉妹は、先週のブログに対して次のようなコメントを載せていました。
『私は元々あまり怒らない性格で、救われてからも「裁かない」は比較的すんなりと受け入れられたのですが、逆に聖なる怒りになることが難しかったです。肉を打ち叩いて裁きの思いを足の下にすることは分かるのですが、肉を打ち叩いて頑張って怒りをあらわにするのはなんか違うよな…となっていました。
そもそも怒らない、怒れないのは、周りのことに対してあまり考えていないからだと語られ、救われてからムカンシンを悔い改めました。それでもまだ何かに対して感想を問われた時、問われてから気がついて感想を考え出すことが多く、周りにも自分にも=霊の世界にも鈍感だと語られました。自分のように隣人を愛する。誰かに対して、状況に対して、肉においても霊においても自分はどう思ったのか、ちゃんと考えて、それを口にする訓練だと思いました。明け渡した器となり、イエス様の栄光を表していけたことを感謝します!』
今の日本社会、また、世界の動きを見ていたら、特に聖なる怒りは沸き起こるばかりです。息を吐くように平気で嘘をつき、“今だけ、金だけ、自分だけ”の自己愛、自己中心の人々によって、悪事が行われている世の中に対しては、怒り、声を上げていかなければ変わりません。姉妹が気づかされたように、悪事に対して怒れないのは、無関心(他者に関わらない)、無感心(何も感じない)、無観心(観て悟らない)であり、結局愛がないのだと語られました。聖書は【神は愛】であることを教えており、神の戒めは、第一に神を愛し、第二に隣人を愛する事です。毎週教会に行くこと、献金をすること、祈ること、神学的学びを深めること、奉仕することではなく、神の愛・キリストの愛が育っているかが重要なのです。しかし、魂がみことばによって変えられていなければ、救われる前と感じ方も、考え方も同じであり、平気でみことばを拒絶し、自分なりのやり方をしてしまいます。
ある姉妹は、牧師から「大事なものを失おうとしている家族に、大事なものを失わないように語ってあげてほしい!それができるのは姉である貴女だけだから!」と語られたのですが、それを「強制された!」と捉え、群れを飛び出し、後に強迫観念から解放されたと言ってきました。彼女が教材となり、私たちはイエス様から何のための聖書の学びなのかと問われました。自分さえ良ければいいのでしょうか・・・自分の家族にさえ愛を注ぎ出せない器に何ができるでしょうか・・・霊魂体のパイプが詰まりドロドロになってしまっていたら、神の御心は行えません。相手と魂で向き合うことを恐れ、自己防衛に入る人は、神の目から見たら愛がない人、冷酷、冷淡な人です。自分のために本気になってくれていると分かれば、相手は変わります。相手が本気だと伝われば、自分も本気で本音で向き合おうと思います。心から謝罪してきた人、それが解る人を、ないがしろにすることはできません。仮にそのような態度を取ってしまったとしても、良心の呵責を覚えるのが神が本来人間に与えた霊であり、魂です。
教会もそうです。牧師が神学的に、善人のきれいごとのメッセージを語っても信徒の心は揺さぶられません。良いお話止まりです。しかし、牧師が自身の過去の罪も、感じていること、考えていること全てをさらけ出して、霊から溢れる思いを語り、聖なる怒りをあらわにしたり、爆発的な喜びをあらわしていたら、信徒は自分の置かれている状況と重ね合わせて聞くことができ、互いの心が内に燃え、その場は聖霊充満となり、皆が恵まれていくのだと語られました。みことばも同じであり、霊にビンビンと感じるものがあるなら、「アーメン」と言葉にせずにはおれません。「アーメン!アーメン!」と言葉にすればするほど、霊が立ち上がり、力と喜びが湧いてくるのだと語られました。
世の中の人から見て、教会が弱者の集まり、社会に適応できない人たちが居場所を見つけ、傷をなめ合っているだけの集まりであると思われていてはなりません。「イエス様に救われたのに、なぜこんな事が起きるの!?」と思えるような不幸が降りかかることもあるでしょうが、それは、逆に救われたからこそであり、サタンの支配下で光輝く存在となったから攻撃を受けているのです。しかし、私たちクリスチャンは、敵対する者どもにろうばい(不意の出来事などにあわててうろたえること)させられていてはなりません。一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦うことが、本来のあるべき姿です。主の訓練の只中においては、苦しむこと、苦闘を続けることもあるでしょう。それによって私たちは神に対する従順を学び、傷のない神の子となっていくことができます。人の救いの達成に努力して、伝道活動に力を入れている教会は多いですが、まずは神を畏れおののいて、自分の救いの達成に努めるようパウロは教えています。パウロと同じ気持ちで、生きることはキリストであり、死ぬことは益であると考えられているクリスチャンがどれだけいるでしょうか。肉体において生きていることが、実り多い働きになっているクリスチャンがどれだけいるでしょうか。私たちはみことばを通して、自分自身を吟味しました。
ピリピ1:21~30
わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、あなたがたはわたしによってキリスト・イエスにある誇を増すことになろう。
ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神から来るのである。あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである。
ピリピ2:1~30
そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。
わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。
さて、わたしは、まもなくテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって願っている。それは、あなたがたの様子を知って、わたしも力づけられたいからである。テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない。人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。そこで、この人を、わたしの成行きがわかりしだい、すぐにでも、そちらへ送りたいと願っている。わたし自身もまもなく行けるものと、主にあって確信している。しかし、さしあたり、わたしの同労者で戦友である兄弟、また、あなたがたの使者としてわたしの窮乏を補ってくれたエパフロデトを、あなたがたのもとに送り返すことが必要だと思っている。彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているからである。その上、自分の病気のことがあなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている。彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、心配を和らげることができよう。こういうわけだから、大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊重せねばならない。彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである。
ピリピ3:1~21
最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。さきに書いたのと同じことをここで繰り返すが、それは、わたしには煩らわしいことではなく、あなたがたには安全なことになる。
あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。
兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。
アーメン
3章からは、いつまでも自分の肉の思い、意見を言い続けることは、救われる前の自分に良いものがあったと主張している事であり、パウロが【わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。】とはっきり言っているように、同じく、過去の自分はキリストのゆえに損、握ってきたものはふん土であったと言える者となれているか、改めて問われました。そして、先週語られたように、私たちクリスチャンは『神を自分の内に迎え入れた者』ですから、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだす者、キリスト・イエスによって捕らえられた者となっているはずであると語られました。それは、一言で言えば、主にあってでしか言葉が出ない、行いに移せない者になっているという事です。そうでなければ、滅び、地獄行きです。中途半端に生きるなら、害を受けることをわきまえ知り、自分の身を清く保ち、情欲に流されてはならないと語られました。
ビリー・ブリム女史の預言通り、自分自身の全てを明け渡す5月に入り、連休明けの明日からまた、皆それぞれ自分の持ち場(職場、学校)での働きが始まります。最後に、何を大切に心にとめ、行い生活していくべきか、ピリピ人への手紙4章を読み確認しました。
ピリピ4:1~23
だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。
わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。
あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。
さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである。わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。しかし、あなたがたは、よくもわたしと患難を共にしてくれた。ピリピの人たちよ。あなたがたも知っているとおり、わたしが福音を宣伝し始めたころ、マケドニヤから出かけて行った時、物のやりとりをしてわたしの働きに参加した教会は、あなたがたのほかには全く無かった。またテサロニケでも、一再ならず、物を送ってわたしの欠乏を補ってくれた。わたしは、贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである。わたしは、すべての物を受けてあり余るほどである。エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である。わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。
キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、よろしく。わたしと一緒にいる兄弟たちから、あなたがたによろしく。すべての聖徒たちから、特にカイザルの家の者たちから、よろしく。
主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。
アーメン
【主にあっていつも喜ぶ】とは、肉は喜べない状況であったとしても、全てがイエス様の御手の中であることを信じ、いつも喜ぶという事です。そこには信仰が問われます。そして、祈りと願いは、【感謝をもって】捧げるものであり、神に向かって「主よ、こうしてください!」と命令形で行うものではありません。「祈っているんだけどね・・・」の次に続く思いは、「でも主がなかなか祈りを聞いてくれない」でしょうが、そんな棚からぼた餅式に何でもかんでも祈ればきかれるという信仰ではない事は、主の訓練という観点からも十分に学んできたことです。そして、パウロが言っているように、求めるところを神に申し上げたら全て叶えてくださるのではなく、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が与えられるのです。
また、みことばによってつくりかえられた魂を十分に働かせることも言われています。すべて正しいこと、純真なこと、愛すべきこと、ほまれあること、徳といわれるもの、称賛に値するものに心をとめます。これらの事に敏感になって、わきまえ知っておかなければなりません。さらに、聞くだけの者にならず、学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、実行しなければなりません。平和の神は、そのようなクリスチャンと共にいて下さることを忘れてはならないと語られました。
そして、毎週のメッセージを良く聞き、霊に蓄え、魂で感じ、考え、忠実に実行しているなら、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ているはずです。相手が誰であっても、どんな場所であっても、どんな立場に置かれても、その都度どう対応するべきか、兄弟姉妹が教材にもなってくれ学んでくることができました。自分の肉では到底できない事も、主にあって、自分自身を強くしてくださるかたによって、何事もすることができることを体験してきました。その学びと体験を忘れることなく、改めて爆発的な聖霊の力を信じ、イエス様に信頼して、皆がここからの歩みを神に喜ばれるものにしていけたことを感謝して祈ります
最後に牧師を通しては、【自分の持っている確信を放棄してはいけない。神のみ旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である】と語られました。前回のブログには、私たち夫婦が新しい命を授かるまでの証を紹介したのですが、まさに妊娠までの歩みも、忍耐をもって自分の肉を打ち叩き、神のみ旨を行って身も心も変えられてきたからこそ、神が私たち夫婦に約束してくださっていたものを、一つ一つ受けることができたのだと思っています。【忍耐】は御霊の実の中にはなく、キリストの性質というよりは、肉がついている人間が肉を打ち叩いて身に付けていくべきものなのでしょう。我慢になれば、肉の思いが爆発して途中で放棄してしまいます。神がおられるという望み、信仰によって生きることのできるクリスチャンに伴う証を、私自身ますますここから実らせていけたことを感謝して祈ります
へブル10:30~39
「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。
あなたがたは、光に照されたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。
「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。
しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。
アーメン
今日で出産予定日(6月6日)の1か月前となりました。いつ生まれてきても良いように心も体も整えていく時期に入りました。ブログもいつまで書き続けられるか分からなかったため、一先ず読者の皆さんには妊娠報告を証としてさせて頂きました。ブログがしばらく上がらなくなったら、出産したのだと思ってください
今週もブログの働きをさせていただけたことに感謝します
妊娠に至るまでの私たち夫婦の証
ハレルヤ!holygirlです現在、私は39歳、妊娠9ヶ月(35週)です。
2021年12月5日に、K兄弟と結婚し、1年10ヶ月が経った昨年2023年10月10日、新しい命が宿った事が分かりました。妊娠に至るまで、神は私たち夫婦に新しい命を迎える家庭の受け皿が整うようにと訓練し、導いてきてくださいました。出産を迎える前に、その歩みを遺したく、ここに記します。
ずっと牧者と羊という関係で交わってきたK兄弟を、初めて結婚相手ではないかと意識してデートした時、K兄弟は40歳、私は37歳でした。この世的には、自然妊娠が難しいと言われる年齢に入っていました。私はK兄弟に、「私はイエス様のためにここまで働いてきて、何一つ後悔のない人生を送ってきた。結婚は求めてきたけれど、神が与えてくださるならするという思いできたし、独身者として生きることが神の御心ですか?とも聞いてきた。もし、K兄弟と結婚したとしても、年齢的に子どもを授かれるかどうかも分からない。子どものいない人生も神の御心ならば私はそこにも祝福が与えられていくだろうと思っているけど、K兄弟は、子どもを授からない夫婦2人の人生も考えられる?」と尋ねました。K兄弟は、「神は愛でしょ?子どもが大好きなholygirlさんに子どもを与えない神ではないと思っている。神のタイミングで与えてくださると信じている。でも、たとえ授からなかったとしても、それが神の御心なら感謝して、2人でイエス様のために仕えていけばよい」と答えました。私は、その言葉になんだか安堵し、K兄弟の優しさと信仰に励まされました。
そして、最初のデートから丸6か月が経った2021年10月23日にプロポーズを受けたのですが、その日は絵本「一つになろうよ!」が燦葉出版社から出版されて丸7年が経った日でもありました。絵本の内容、夫婦の在り方、家族のあり方に共感し、これからも共に体験していきたいと言ってくれたK兄弟が持っていた絵本には、沢山の印と線が引かれており、自分が著者となった絵本をこれだけ真剣に読み込み、共感してくれた彼こそが私のあばら骨の人だと確信できました。
K兄弟と結婚して最初の数か月は、生活面においては自分のやり方(ルール)、考え方の違いでぶつかり、信仰の面においては牧者と羊の関係でもあるため、私は今まで以上にK兄弟の様々な言動が目につき、クリスチャンとしてどうなのか!?という事から責め、そこから言い争いが絶えませんでした。イライラしたり、泣いたり、顔も見たくないと思ったり・・・“あぁ、今妊娠してなくて良かった”と思ったこともあり・・・今や2組に1組の夫婦が離婚する時代の中で、こうやって離婚に気持ちが向くのだなと分かってしまい、子どもが欲しいなんていう思いも吹っ飛ぶぐらい、大荒れの新婚生活の始まりでした。
それでも、互いに聖書・イエス様がカシラのクリスチャンでしたから、どんなにケンカしても、最後は互いにゆるし合い、悔い改め、祈り合える関係であったことが幸いでした。結婚式で歌った賛美歌のみことばを思い出し、いつもこのみことばの土台に立っていなければならないと思いました。
コリント人への第一の手紙13章4節~8節a
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。
敵は私たち夫婦の関係を潰そうとしてくるサタンなのだとはっきり見分けて、互いに血肉の戦いをしなくなったこと、自分の気持ちをぶつける前に、相手の気持ちを聞き、受け入れた上で冷静にイエス様=みことばをカシラに話をすることで、感情をむき出しに怒鳴り合うようなケンカの数はいっきに減っていきました。
K兄弟は、私と交際を始める約半年前に、毎週集会に通えるよう浜松市に引っ越すよう主に示されました。そして、大分県にある家業(酒蔵)の仕事を辞め、新たな職場として、食品機械製造会社が与えられました。浜松にあるぶどうの木の副牧師としての召しを受けている私が、酒蔵に嫁ぐことも、大分に住むことも到底考えられませんでしたから、この転職、引っ越しがなければ、彼との結婚はあり得ませんでした。ですから、K兄弟の転職、引っ越しは、「イエス様、彼が私の結婚相手であるなら、彼をこちらに導いてください」という私の祈りの成就でもありました。
しかし、職場は浜松市ではなく、浜松市から電車、車どちらを使っても約1時間離れた場所にありました。結婚を機に、住まいをどこにするか考えた時、最初は私がK兄弟の会社の傍に引っ越すのが当然かと思いましたが、兄弟姉妹から反対の声が上がりました。そして、群れの働きのためには、私が実家にいる母(牧師)と密に会って交わりができる距離にいること、兄弟姉妹との交わりもスムーズに行なえる場所にいることが何より大切であると語られ、K兄弟が浜松市から会社に通うことが御心であると示されました。そこで無理のないよう電車通勤を考え、駅の近くの住まいをイエス様に求めて探しました。なかなか、条件に合う物件がなく、やはり会社に近い地域に住むことが御心なのか?と思い始めた時、物件サイトに「ここが空いていればいいのに!」と思っていたマンションの物件がいきなり入ってきました。1件だけ、賃貸の部屋があいており、最寄り駅まで徒歩3分の場所に、私たちは新居をかまえることができました。結婚式の数日前のことでした。
K兄弟は、職場でエンジニアとして働いていましたが、結婚当初は工場勤務もあり、朝5時半発の始発電車に乗らなければ就業時間に間に合わず、お弁当も持参する必要があったため、4時45分に起きる生活が続きました。結婚前は実家で夜型の生活を送っていた私にとっては、肉を打ち叩いて生活リズムを変えることから始まりました。
2か月ほど経ち、ようやく工場勤務が毎日ではなくなり、出勤時間も1時間遅くなっていきましたが、エンジニアとしての仕事が入ってくると、今度は残業が多くなりました。19時台に帰宅できれば良い方で、21時、22時帰宅も当たり前となり、終電で帰宅する日もありました。いつ仕事が終わるか分からないため、平日は基本的に一人で食事をし、入浴を済ませ、ひたすら帰りの連絡を待つ日々・・・K兄弟は帰宅してすぐに食事を済ませ、入浴し、家について1時間も経たないうちに就寝するような状況が何か月も続きました。また、土曜日出勤、長期休みを返上しての仕事もあり、夫婦での予定や、大分への帰省の計画を立て、切符まで買っていても、前日にキャンセルしなければならない事もありました。
K兄弟の霊的状態も悪く、うっかりミスや忘れ物が多いため、その都度フォローが必要でした。また、ミスの積み重ねによって上司から暴言を吐かれたり、同僚から暴力を受けている話も聞かされ、K兄弟自身だけでなく、私も精神的ストレスが大きくなっていき、肉的にも霊的にも、こんな状態で子どもを授かるわけがない、授かってもやっていけない、育てていけないだろうと思っていました。当然神側も、子どもを授かる家庭の受け皿ができていないところに、子どもを授けるようなことはなさいませんでした。
2022年9月1日に、牧師である母が、潰瘍性大腸炎の完治、寛解期というレッテルを剥がすための聖霊の導きで、銀座にある吉野医師(歯科医)の病院でメタトロン診療を受けました。当時、K兄弟も霊の病の後遺症が体、特に顎や舌に残っており、霊的状態も悪かったため、牧師から、「一度メタトロンを受けてみたらよい」と勧められました。まずは歯科診療の予約をとり、吉野夫人の治療を受け、顎関節症になっていることが分かりました。夜中に歯ぎしりをし、無呼吸になり眠りが浅くなっていることも指摘され、顎や舌の状態を治すためにマウスピースをつくり、定期的に通院することになりました。
10月中旬にはメタトロン診療も受けることになりました。K兄弟は食後すぐに就寝していましたし、夫婦でパンや甘いものを好み、冷凍食品や揚げ物もよく食べていたため、二人そろって結婚前より体重が3キロほど増えていました。K兄弟はメタトロンによって、心臓(血管)、前立腺、腎臓、膵臓に未病が見つかり、夏に、毎日水筒にスポーツドリンクを入れて飲んでいたことで、必要な栄養が摂れていない、つまり栄養失調状態である事が発覚しました。毎日食事を作っていた私にとっては衝撃的事実でしたが、確かにその時点で、K兄弟は腹痛から下痢をすることが多くなっていました。
メタトロンによって、今までの食生活を3か月間まずは改善するよう言われ、その日から二人で実践していくことになりました。職場で注文できる弁当には揚げ物や添加物が入っているため、再び毎日弁当を持っていくことにしました。しかし、結婚当初とは違い、小麦粉、油を使わない、冷凍食品や添加物の入った調味料に頼れない弁当づくり、食事づくりは、私にとって主に与えられた訓練でもありました。先に食事改善を始めていた母から知恵をもらい、手づくりの調味料(麹)を分けてもらい、体に良いものを探求し、値は上がっても、安全なものを買うようになりました。そんな食生活の変化は体にすぐにあらわれ、K兄弟の腹痛はなくなり、便通がよくなり、マウスピースを装着してぐっすり眠れるようになったことで心身共に元気になっていきました。体重も2人そろって結婚前に戻りました。
2023年1月に再度受けたメタトロンでは、食事改善の成果があらわれ、K兄弟は健康体になっていました。それ以降も、食事には気をつけています。歯科診療も、吉野夫人を救いに導き、口腔状態も改善されたことから9月に終診となりました。
結婚して1年が経っても、妊娠に至らなかった時、私は「神の御心に従う」と日々祈りながらも、実際は焦っていました。以前、産婦人科医が「1年経っても自然に子どもが授からないなら、不妊症だから、不妊治療を始めた方がよい」と言っていたのを聞いていたからです。ネットで検索しても、同じような答えが出てきて、私は不妊の胎なのか?ならば、不妊治療をした方が良いのか?と考えるようになっていました。なかなか子どもを授からなくて落胆する私に、「大丈夫!神は愛なんだから!神のタイミングで与えられるよ!」と言い続けてきたK兄弟も、「もしかしたら自分に原因があるのかも?検査した方がいいかな・・・」と言い始めるようになりました。
一方で、世の中の状況を見れば、闇側の悪事が次々に暴かれ、こんな時代、社会に子どもを授かっても大変だ!生まれてくる子がどんな時代を生きることになるのだろうか・・・と考えると途方に暮れました。神があえて授けないようにしておられるなら感謝だという思いもあり、毎月生理が来るたびに、落胆と安堵が同時に来て複雑な思いの中、「神は全て御存じで、私たち夫婦にとって最善を与えてくださるのですよね!」と祈り、立ち上がっていました。結局不妊治療に踏み出す気持ちは生まれず、全てを主にゆだねて過ごし続けました。
2023年4月7日、私は交通事故を起こしてしまいました。雨風が激しい夕方17時すぎでした。軽自動車を運転中に強烈な眠気におそわれ、一瞬意識がなくなった拍子に車体の左前方が道路標識にぶつかり、そのまま車が右に横転し、運転席側が下の状態で止まりました。軽自動車の軽さ、もろさを痛感しました。被害者はおらず単独事故でした。誰も傷つけず、人の命を奪わずに済んだことが不幸中の幸いでした。右側のサイドミラーはつぶれ、窓ガラスが粉々に割れましたが、横転する際に身がまえることができ、自分の顔を守ることができ、体に傷も痛みもありませんでした。車内で“どうしよう・・・どうやって出よう・・・”と思っていると、ある会社の前で横転したため、すぐにその会社の方々はじめ、たくさんの方々が駆けつけてくれ、救急車と警察を呼んでくれました。私自身は数名の男性の助けをかりて、自力で車内から出てくることができました。呆然としながらも、イエス様に守られたことを全身で感じ、命があったことにまず感謝しました。
助けて下さった方の会社の軒先に座らせてもらい、近くにいる母(牧師)に電話をし、状況を説明しました。しばらくすると救急車が到着し、救急車の中で処置を受けていると、母が駆け付けてくれ、救急隊員と警察とやりとりをしてくれました。私はその時点で自覚する体の痛みはありませんでしたが、とんでもない事になってしまったという思いから足の震えが止まりませんでした。救急隊員からは、「運転中に意識がなくなりましたか?コロナワクチンは何回接種されていますか?」と聞かれました。おそらくワクチンによって運転中に気を失ってしまう人が多いのでしょう。しかし、私はコロナワクチンを打っておらず、理性や自制では耐えられないほどの眠気、抗えないほどの眠気との戦いの中での事故でした。集会での学びをブログに書き表す際、よく寝落ちしてしまうほどの眠気に襲われる事があり、これはよほどサタンが書かせたくないのだなと思いながら、戦ってきました。事故当日も、朝から同じような感覚の眠気が一日ありながら久しぶりの保育園勤務を終え(マスクを外しての勤務だったのでシェディングによる眠気もあったのか?)、帰宅途中に襲ってくる眠気の霊と戦っていました。そこまで眠気があるなら休憩するべきでしたが、自宅が近づいていた事もあり「あと少しだから」という思いで運転を続けた矢先の事故でした。判断ミスでした。
私は救急車で病院に搬送されてしまったので、実際車がどのような状態になったのか、その場もどのような状況かよくわからなかったのですが、誰もが、私が無傷であったことに驚くほどの事故現場だったそうです。私は全身のCT検査を受けましたが、脳、骨などどこも異常なく、すぐに迎えに来てくれた父の車で帰ることができました。
大変だったのは、現場に残り警察と対応してくれた母の方でした。駆け付けた母は、事故現場を見て、死んでいてもおかしくないと思ったそうです。事前に私から連絡を受け、無事であることは確認できていたから良かったと・・・。現場は渋滞し、警察官4人が交通整理している状況で、横転した事故車両を早くレッカー車で動かさなければなりませんでした。救急隊員にも病院まで後ろをついてくるよう言われていましたが、警察官から「道路標識を早く直し、レッカー車を手配しなければならない」と言われ、続けて「お母さんが病院に行っても検査中待っているだけだから、ここの処理をした方がいいです。契約している保険会社はどこですか?」と聞かれました。母は、保険会社が分からず、保険のことを分かっている私の主人(K兄弟)となかなか連絡が取れなかったため、保険会社を通して対応することは一先ずやめ、皆に迷惑をかけている状況を一刻も早く解決しなければという思いで、警察が使っているレッカー車屋に来てもらうようお願いしたそうです。高額な費用がかかると警察官に言われたそうですが、ならば自分が払えばいいと思ったそうです。そして、母は父に電話をかけ、お世話になっている車のディーラーまで事故車を運べるよう、ディーラーの担当者に連絡してもらったそうです。担当者も、事故車両を見ていたので、私が病院からディーラーに行くと、無事であったことに驚き「本当に良かったです」と言ってくださいました。そこから、保険会社との対応をして下さいました。
車は修理するよりも、新しく購入した方が良いぐらいの状態で、K兄弟が自分の車両に対する保険をかけていなかった事もあり、新車を購入することにしました。入っていた保険でレンタカーを30日借りられることになり、新車が手に入るまではレンタカーで過ごすことになりました。しかし私は、“新車を購入してもすぐに納車されないかもしれない・・・それなら1日でも多く実家の車を借りていたほうがいいか”と思い、すぐにレンタカーを借りることを一度断ってしまいました。そこを母(牧師)に指摘され、「あなたにはすぐに新車が与えられるという信仰がないのか?30日以内で与えられることをなぜイエス様に求めないのか!?」と戒められました。確かに私は現実問題だけを見て物事を判断していることに気付かされ、悔い改めました。
そして、K兄弟と新車がすぐに与えられるよう祈り求め、2日後、日曜日の集会の前に、ディーラーに行きました。すると、担当者が30日以内に納車できる普通自動車を紹介してくださり、車種、色ともに二人の思いが一致して、すぐに購入手続きをすることができました。K兄弟が結婚する前に買っていた軽自動車(事故車両)を、結婚しても夫婦一台で使っていたのですが、もともとその軽自動車を購入した経緯についても、当時K兄弟は牧師から忠告を受けており、将来的にはやはり普通自動車に買い替えよう、子どもを授かったタイミングで買おうかと話していました。なので、自分の命をかけての事にはなりましたが、我が思いよりも早いタイミングで普通車が与えられ、車に対する保険も見直せたことは喜びとなり、K兄弟の肉の思いで選んだ軽自動車から、二人で主にあって選び決めた普通車に乗り換えて、互いに全てが新しくスタートできることに感謝しました。
また、事故日の前日に遅れていた生理が来ていたことからも、この時に妊娠に至らずに良かったとほっとしていました。携帯電話を手元に置かず、事故直後すぐに電話に出られなかったK兄弟も悔い改め、そこからはいつでもすぐに反応できるよう意識するようになりました。これも、一家の長となっていくために大切なことでした。
事故から数日後、むち打ち症状が現れたため、7月末まで約3か月間、接骨院に通うことになりました。電気治療は妊娠していたら行えません。まずは自分の体を整える事が必要なのだと感謝して通いました。
K兄弟は電車通勤のため、半年ごとに定期を購入しているのですが、新しい定期を買う時期になった2023年6月末ごろに、「イエス様から、3か月分で良いと言われた。転職を考えている」と言い出しました。確かに今の職場、働き方では、将来的に不安もあったため、転職が神の御心であるならば与えられるであろうという思いで、私も応援することにしました。K兄弟は、その時点で42歳・・・年齢的にも転職は厳しい状況でしたが、勤務地を浜松市に絞り、転職サイトに応募すると、大手2社から連絡があり、仕事をしながら転職活動を行っていました。K兄弟はどちらかに受かるだろうと確信していました。しかし、結果的に両方採用されませんでした。神はK兄弟の転職の動機、心をお見通しでした。エンジニアとしての能力の限界を感じていたこともありましたが、一番の動機は、暴力をふるう同僚がゆるせず、逃げ出したいという事でした。K兄弟が一度毅然とした態度で「暴力はやめてください!」と言うと、その同僚の暴力はしばらくおさまっていたのですが、時が経つと、手が出ることもありました。立場上一緒に仕事をしなければならない時もあり、K兄弟は恐れの霊と裁きの霊に囚われていました。履歴書や面接で伝える転職理由も、「同僚の暴力」にしていました。そのように書いた方が、正当な理由となるというエージェント(この世)の知恵でもありました。会社の上司(役員)にもなかなか相談できずにいましたが、辞める覚悟ができた時、ようやく事実を話すことができました。
8月に入り、2社採用試験を受けました。1社落ち、2社目の合否は9月4日に分かると言われた時、K兄弟も私も、これは神が与えて下さった素晴らしい花道だと思っていました。なぜなら、9月3日日曜日に、ぶどうの木は17年目の集会を迎え、その日は絵本「1つになろうよ!」の出版記念祝賀会も行われる事になっていたからです。私たち夫婦は、私が著者となったこの絵本に、K兄弟が賛同し、この絵本に書かれているような夫婦、家族を築いていきたいという思いで一致し、絵本を土台に結婚していたため、絵本の出版を祝った翌日に、新たな職場も決まるのだ!と確信して、喜んでいたのです。さらに、祝賀会でのじゃんけん大会で、私は【いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい】(第1テサロ5:16~18)というみことばの壁掛けを景品で頂き、私たちの歩みへの裏付けだと思っていました。だからこそ、翌日2社目も落ちた時には、イエス様なぜですか!?と問うたのでした。しかし、それは先に書いたように、K兄弟の動機が神の御心に反していたからでした。K兄弟は、会社を裁き、逃げ出したいという気持ちからカルトの霊にまかれ、転職をしようとしていた事を悔い改めました。やり残している事がある限り、神は次の職場には導きません。K兄弟は、無条件のゆるしを行ない、エンジニアとしても主にあってできる!で、しっかりと神の栄光をあらわしていくことにもう一度意志を向け、神が与え、訓練して下さっている職場に感謝して、一から出直す決心をしたのでした。
すると1週間後、上司に呼ばれ、部署変更を言い渡されたのです。会社としては、暴力問題を重く受け止め、これ以上、二人が関わることのないように配慮し、K兄弟のために新たに「企画」という部署をつくってくれたのです。しかし、それはエンジニア職をはずれ、給料も下がるだろうという話で、私は最初、これは栄転なのか?K兄弟は窓際にやられてしまったのか!?と思い、素直に喜ぶことはできませんでした。一方、K兄弟は、エンジニアではない、自分の別の能力を上司が見て、上司の右腕として会社をより良くしていくために用いられることになるのだと受け、喜んでいました。この話を受けるのかどうか、改めて返事がほしいと言われたとの事で、私たちは「イエス様、どういう事ですか?分かるように教えてください」と改めて尋ね、二人で祈りました。
その後、K兄弟は試しに新部署での仕事をしてみることになったのですが、その仕事内容が自分でも驚くほど向いていることが分かったのです。心配していた給料面についても改めて上司に尋ねると、「できるだけ変わらないように配慮します!」という事でした。何より、K兄弟が喜びの内に仕事ができていること、思いもよらなかった同じ会社内での部署変更に神のなさり方を見た私たちは、これはイエス様からだと確信しました。そして、9月中旬から、K兄弟は「企画」という新部署で働くようになり、仕事も定時17時には終われるため、18時半には帰宅できるようになりました。私も、いつ帰ってくるかと思い煩う必要なく、毎日一緒に夕飯を食べ、夫婦で会話する時間もゆっくりとれること、休日出勤に振り回されることなく予定が立てられること、結婚当初から祈り求めてきた事が叶い、ようやく一つ訓練を終えたのだと感謝しました。
コリント人への第一の手紙2章9節
聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。
そして、帰宅が早まったことで時間が与えられるようになったK兄弟は、その時間をぶどうの木の証の動画配信に使う思いを入れられ、夫婦でブログと動画によって主からのメッセージ、御業を伝える働きをしていくことになりました。この事も、夫婦にとっては大きな祝福となりました。
今まではK兄弟が「今の会社にずっといるつもりはない」と言っていた事もあり、転職するなら家はしばらく賃貸のままの方が良いかと思っていましたが、新部署に移り、生活の基盤が整ったことで、家の購入を考えるようになりました。2023年12月末には、2年契約が終わること、年齢的にも、ローンを組んでの購入をするなら今であること、毎月支払う家賃が高額だったため、ローン返済にあて、自分たちの家をかまえる方が良いと思っていると、目の前の駅をはさんで反対側にマンションができることを耳にしました。10月に入り、早速そのマンションのモデルルームに行きました。しかし、新築という事もあり、私たちが求めていた3LDK以上だと予算をはるかに上回る金額でした。予算内で購入できる部屋は2LDK・・・マンションとしては気に入ったのでその場で仮予約をしようとしましたが、高額な買い物であったため、一緒に立ち会ってくれた母と妹の一声で保留にし、もう一度イエス様に求め聞くことにしました。私の中には「2LDKの部屋を購入するという事は、私たちはこの先も夫婦2人の人生なのか?イエス様、子どもは授からないという事ですか?」という思いもありました。そして、家に帰り、K兄弟に私が抱いた思いを伝え、家族計画をどう考えるのか、現に3LDKの賃貸に住んでいることから、やはり家族が増えることを思うなら2LDKでは狭いのではないかという結論になり、その新築マンションの購入はやめることにしました。
物件探しを続けていると、今度は自分たちが賃貸で住んでいるマンションの中に中古売り物件があることが分かりました。もともと賃貸マンションではなく、部屋のオーナーが貸し出してくれている物件に私たちは住んでいました。K兄弟が同じ会社に通い続けるという事は、やはり駅近物件が良く、他にも探していましたが、実際、今住んでいるマンション以上に好条件の物件はありませんでした。
10月7日、不動産会社を通じて早速物件である1009号室を見に行くと、4LDKで状態も良く、すぐに子どもができたらこの部屋が子供部屋かな?と、家族が増えた時のイメージも持てました。金額も、私たちの予算と一致しており、無理なく購入できると思いました。人気物件のようで、私たちの後に、2組内覧予約が入っていました。不動産屋から、「気に入られたのなら、早めにおさえておいた方が良いですよ」と言われ、どうしようかと話していると、ちょうど売主が荷物を取りに来られ、顔を合わせることになりました。K兄弟も、共に立ち会った母(牧師)も、一致の思いでこの物件が良いとなり、その場で仮予約となりました。誰に売るかは、売主側が決めることであるとも聞いていたのですが、この時に顔を合わせていたこともあり、売主にもあの人たちならという良い印象を与えていたようで、その後、スムーズに購入手続きに入ることができ、イエス様に感謝でした。
ピリピ人への手紙2章13節
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
物件を見に行った日、生理が1週間遅れていたため、もしかして?と思っていました。でも、1週間遅れることは今までもあったため、妊娠検査薬をしようかどうか迷っていました。すると聖霊に、購入する物件が「1009」だということを示され、10月9日に検査薬をしてみようという思いが入れられました。当日、陽性反応が出ました!この時の喜びと驚きは忘れられません。祝日でK兄弟が家にいたため、すぐに泣きながら報告し、「ほんとに!?」と驚く主人と喜びを分かち合い、家族にも伝えました。そして、翌日受診できる産婦人科を探すと、インターネット予約ができる病院があり、ちょうど1枠だけ空きがありました。(10月9日は祝日だったため、翌日の電話予約をできる病院がありませんでした)産婦人科受診は妊娠6週ごろからとホームページには書かれており、その時点でおそらく妊娠5週だったので気は早かったですが、予約し受診しました。
10月10日、妊娠5週、1.5センチの新たな命が宿っていることを確認でき、何とも言えないあたたかい気持ちになり、感動しました!小さな卵が、ここから人間になっていくのかと思うだけで、神の御業のすごさを思いました。すぐにK兄弟にメールで報告すると、「ついにお母さんだね。無事出産できるように神に従って歩んでいこう♪神の恵みだね、ありがとうイエス様」と返信がきました。家族も報告を喜び、母(牧師)からはその日の内に兄弟姉妹にも報告するよう言われました。2週間後に心拍を確認することになっていたため、まだ報告は早いのではないかと思いましたが、聖霊の導きに感謝してそのまま報告しました。すると執事が、「今日10月10日は、赤ちゃんの日だそうです」と教えてくれ、この日に報告した意味が分かりました。また、10月15日には、絵本「1つになろうよ!」が文芸社より新たに出版される日でもあり、絵本出版前に、絵本の第2章“神様からの贈り物”、子どもの誕生から父母として家族のあり方を学んでいけることから、神の秩序正しさに感謝せずにはおれませんでした。
神の家族からの祝福のメッセージを受け、K兄弟も「神の家族からの祝福のメッセージをありがとうございます。そして、今回、私たち夫婦に子どもを授けてくださったイエス様に感謝します。イエス様は全て秩序正しく必要なタイミングで与えてくださる神で、イエス様のなさり方に生きている神なのだと感じます。holygirl姉妹と結婚する前から子どもを授かることは霊から語られ、二人で祈る時もイエス様のタイミングで子どもが与えられたことを感謝しますと霊から言葉が出るので、そこが大事なことなんだと私は思っていました。ようやく家庭に子どもを授かる受け皿が備わったのだと感じ、ちょうど絵本が新たに出版される間近にholygirl姉妹の妊娠が分かり、そこも全てがイエスキリストで、ここから二人で絵本の続きを体現していきたいと思います。どうもありがとうございました」と喜び、感謝を捧げました。
予定日は、令和6年6月6日。666・・・サタン・獣の刻印の日か!と、最初はギョッとしましたが、私の中に宿った子は、サタンを足の下に踏み砕いてこの世に誕生する勝利の子であるのだと牧師を通して解き明かされ、アーメンでした!世の中に目を向ければ、この世界にこれから産み出され、生きて行かなければならないのかと、不安になることもありますが、神が授けて下さったのであれば、ここから闇は光に勝たず、きっと世界は明るく、主にあって良くなっていくのだろうと、不安という肉の思いを退け、霊の思いに立ち、日々サタンを縛り上げながら生活しています。
ヨハネによる福音書1章5節
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
そして、妊婦生活を通して、女性の体が胎児を養い育てるために神によっていかに精巧につくられているか、また、人間が神によっていかに一つ一つ丁寧に組み立てられていくのかという事を実感しています。子どもを授からずに夫婦二人の人生を楽しむこと、全ての時間を主の働きに用いていく人生も神の御心の一つであると思ってきましたが、この歳であっても、母親になることを体験させて下さった神の御心を、私は今も、そして、これからもしっかりと感じ取り、感謝して、クリスチャンとしても一回りまた大きく成長していきたいと思っています。
また、男性にとっても、“父親になる”ということは、大きな心の成長、男として、一家の長としてさらに強く変わっていくことなのだと思います。自分が母親になりたい!という思いと同じくらい、K兄弟を父親にしたい!という気持ちが結婚した時からありました。精神的に弱く、細かなことを周りに注意されてきたK兄弟でしたが、妊娠期間中に、一つ一つ正され、どんどん頼もしく変えられていきました。K兄弟自身は、男性が家事をするような家庭で育っていないため、結婚してから家事は全面的に私がしていました。私も人に頼るよりは自分でやってしまった方が良いと思っていたので、それで良しとしてきましたが、つわりや、お腹の張り、足のむくみなど、体の変化に伴って簡単にできないことも増え、一つ一つ協力してほしいことをお願いしていくようになりました。自分のやり方を押し付けてしまうのではなく、まずはやってくれたことに感謝すること、「ありがとう」の一言を忘れないこと・・・互いに体が疲れていたり、気持ちのすれ違いで衝突することもありましたが、今では私のことを気遣い、自分から家事の手伝いを積極的に行なってくれる夫であることに感謝しています。
女性は妊娠した日から体の変化と共に我が子がいることを実感し、母親になる自覚が生まれますが、K兄弟はやはり生まれなければ、実感がわかないようです。それでも、お腹が大きくなっていく私を見て驚きながら、また、エコーの写真を見て、私のお腹に手を置いて胎動を感じ、「おーい!」と呼びかけながら、そして、毎日「妻とお腹の子をイエス様が守ってくださったことを感謝します」と祈ってくれながら、K兄弟と共に成長を喜び合える幸せな妊娠生活を送れたことをイエス様に感謝します。
K兄弟の職場においても、さらに神の好意が働き、妻が扶養に入っていることで給与が上がり、さらに子供がいる家庭は給与が上がるそうです。また、子どもが生まれたら大変だろうからと、会社初の試みで週に何回かリモート勤務をしても良いという話も出ています。これでもか!と神が祝福を注いで下さっていることに感謝し、子育てという新たな段階に入ったら、ますます神に喜ばれるよう使っていただきたいと夫婦で祈り求めています。
ピリピ人への手紙4章19節~20節
わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。
世の中には、子供ができたからと慌てて結婚した夫婦が増えていますし、望まない妊娠により中絶を選んでいる女性たちもいます。「神が子ども授ける」、「子どもは神様からの贈り物である」という言葉が全ての人に通用するとは到底言えない時代ではありますが、私たち夫婦は、聖書真理に従い、家庭の受け皿ができたところに、神は子ども授けてくださることを身をもって体験しました。“子どもを授かったら”ではなく、“子どもを授かるために”互いが行うべきこと、夫婦として変わらなければならないことがあるのだと教えられました。そして、土台が整えられたからこそ、安心して、平安の内に、新しい命を迎える心構えができています。
また、肉的には、不妊の胎も食生活が原因であること、妊娠に至るためには、食生活の改善も重要であることを教えられました。実際、振り返ってみると、私の妊娠はメタトロンによって食事改善を始めて丸1年が経った時でした。産婦人科医が言っていた「1年経っても自然に授からなければ」という事に対しても、見事に神は食事が大切であったと実証して下さったのです。
伝道の書3章1節~14節
天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。
今、互いの両親が元気で、孫の誕生を楽しみに、協力的に迎える準備をしてくれることも、幸せなことです。特に私の母(牧師)は、イエス様に救われていなければ私が20歳になる前に難病の苦しみに耐えられずに命を落とし、この世にはいなかったでしょう。今、母と出産準備をする中で、改めてこの時を共に迎えることができ、相談できることに感謝が溢れます。
ぶどうの木の牧師である母は、男女の出会いから結婚、神が望まれる夫婦の在り方、親子の在り方、家族のあり方について、自分自身の体験と聖書のみことばを照らし合わせながら語ってきました。神が母を通して与えて下さったメッセージを一番近くで聞き、学んできた私には、さらに自分自身の体験をもって次世代に伝えていく責任が与えられたと思っています。
「妊娠した」と報告した時、母はすぐに男の子だと思ったそうです。その確信通り、生まれてくる子は男の子です。母は娘2人(私と妹)を育てましたが、私は息子・・・母が通ってきた道とはまた違う体験をさせてもらうことにもなるでしょう。神から預かった子どもとして、立派なクリスチャンに夫婦で育てていけたことを感謝して祈ります。
詩篇127篇
主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。彼は門で敵と物言うとき恥じることはない。
伝道の書4章9節~12節
ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。またふたりが一緒に寝れば暖かである。ひとりだけで、どうして暖かになり得ようか。人がもし、そのひとりを攻め撃ったなら、ふたりで、それに当るであろう。三つよりの綱はたやすくは切れない。
アーメン
クリスチャンになるとは―自分自身が神の宮―
holygirlです
今週の集会では、トラクト『未来へのプレゼント』の<はじめに>を皆で読みました。このトラクトは、ぶどうの木でつくった2冊目のトラクトであり、クリスチャンになるとはどういう事か、聖書は何を教えているかを、分かりやすく未信者に伝える内容となっています。
『今、人には言えない悩みや苦しみ、解決のできない問題や病気を抱えていませんか?この先の人生に対しての不安、恋愛・結婚・夫婦生活、子育て、老後など困っていることはありませんか?自分なりにやってはみたけれど・・・何が正しくて何が間違っているのか、果たしてこのままでいいのか、答えを見出すのはたやすいことではありません。しかし、ただお一人、あなたのすべてをご存じの方がいらっしゃいます。それは、天地を造り、あなたを母の胎内で組み立て誕生させた“神”です。神は愛です。あなたの人生の最善の道を知っており、いつもあなたを祝福したいと思っておられます。そして、直接ご自身をあらわすために、絶対的な信頼をおいている“イエス・キリスト”をあなたに送ってくださろうとしています。あなたにとって、人生最大の贈り物になると約束します。今まで、あなたが知らなかった本当のこと(真理)が、ここに書かれています。それを悟った時、あなたにとってこの世の中で、神ほど現実的なものはないことを確信できるように祈っています。
◎あなたの中にある、キリスト教のお話をするつもりではありません。ある哲学や、一連の規則を受け入れたりすることではありません。あるいは、頭で理解できる人の教え(考え方)を信じるということではありません。クリスチャンになるということは、“神をあなたの内にお迎えし、住んでいただく”という意味です。』
改めて、私たちは自分自身がどんなところから贖い出されたのかを思い出し、「神を自分の内にお迎えし、住んでいただいているのがクリスチャンである」という定義を自覚しなければならないと語られました。救われる前は、仏壇に手を合わせ、神社にお参りに行っていた私たちでしたが、今は自分が神の宮、イエス・キリストがおられる教会です。クリスチャンであっても、この定義がなければ、毎週教会に通っているからクリスチャン、イエス・キリストに祈っているからクリスチャンという認識であり、神の宮である自分自身がつくりかえられ、変わっていくのだという自覚は生まれません。ですから、救われる前と何ら変わらないのです。肉を打ち叩いて肉の人から霊の人へ180度真反対に変えられていなければ、結局同じ罪を繰り返し、神を信じていると言いながら、神を軽んじ、あざけり、自分の思いや考えの方が正しいと高ぶり、不信仰になり、祈りがきかれなければ呪う者となっていきます。しかし、霊の人になるなら、神がいつも心を見ておられること、ただ見るのではなく観察して(物事の状態や変化を客観的に注意深く見て)おられることを知ります。私たちが何を考え、何を思い、どう行動しているのか、目の前の状況から逃げていないか、目の前の人に偽りなくまっすぐ語っているか、妥協していないか、神は私たちの内におられるのですから全て御存じです。それをわきまえ知って神を畏れる心をもち、肉の人から霊の人になること、完全に肉の自分と決別することを『聖別される』と言うのだと確認しました。
そして、私たちは牧師を通して聖別されているのか問われました。クリスチャンになるとは、もう一つ、「神の子になる」という事でもあります。ぶどうの木では、箴言1章8節~9節【わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、母の教を捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい冠となり、あなたの首の飾りとなるからである。】というみことばより、クリスチャンになったら、父は天の父・神となり(肉の父は兄弟となる)、母は牧師(ぶどうの木は牧師が女性のため)であると羊たちの啓示によって証言され、学んできました。天の父の教訓を聖書を通して学び、御霊によって語る母・牧師の教え、寺子屋教会で学んだことを捨てずに身にしていくのが神の子である私たちクリスチャンです。
世の中には、神の教訓に逆らって生きる悪人が大勢います。息を吐くように平気で嘘をつく人、心にもないことをその場の雰囲気や相手を見て言葉にする人がいます。聖書はその事を的確に教え、クリスチャン・神の子として彼らを警戒すること、神が彼らを裁くことを伝えています。
箴言1:10~19
わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。彼らがあなたに向かって、「一緒に来なさい。われわれは待ち伏せして、人の血を流し、罪のない者を、ゆえなく伏してねらい、陰府のように、彼らを生きたままで、のみ尽し、健やかな者を、墓に下る者のようにしよう。われわれは、さまざまの尊い貨財を得、奪い取った物で、われわれの家を満たそう。あなたもわれわれの仲間に加わりなさい、われわれは共に一つの金袋を持とう」と言っても、わが子よ、彼らの仲間になってはならない、あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ。すべて鳥の目の前で網を張るのは、むだである。彼らは自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏してねらうのだ。すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。これはその持ち主の命を取り去るのだ。
箴言30:11~33
世には父をのろったり、母を祝福しない者がある。世には自分の目にみずからを清い者として、なおその汚れを洗われないものがある。世にはまた、このような人がある――ああ、その目のいかに高きことよ、またそのまぶたのいかにつりあがっていることよ。世にはまたつるぎのような歯をもち、刀のようなきばをもって、貧しい者を地の上から、乏しい者を人の中から食い滅ぼすものがある。
蛭にふたりの娘があって、「与えよ、与えよ」という。飽くことを知らないものが三つある、いや、四つあって、皆「もう、たくさんです」と言わない。すなわち陰府、不妊の胎、水にかわく地、「もう、たくさんだ」といわない火がそれである。自分の父をあざけり、母に従うのを卑しいこととする目は、谷のからすがこれをつつき出し、はげたかがこれを食べる。
わたしにとって不思議にたえないことが三つある、いや、四つあって、わたしには悟ることができない。すなわち空を飛ぶはげたかの道、岩の上を這うへびの道、海をはしる舟の道、男の女にあう道がそれである。遊女の道もまたそうだ、彼女は食べて、その口をぬぐって、「わたしは何もわるいことはしない」と言う。
地は三つのことによって震う、いや、四つのことによって、耐えることができない。すなわち奴隷たる者が王となり、愚かな者が食物に飽き、忌みきらわれた女が嫁に行き、はしためが女主人のあとにすわることである。
この地上に、小さいけれども、非常に賢いものが四つある。ありは力のない種類だが、その食糧を夏のうちに備える。岩だぬきは強くない種類だが、その家を岩につくる。いなごは王がないけれども、みな隊を組んでいで立つ。やもりは手でつかまえられるが、王の宮殿におる。
歩きぶりの堂々たる者が三つある、いや、四つあって、みな堂々と歩く。すなわち獣のうちでもっとも強く、何ものの前にも退かない、しし、尾を立てて歩くおんどり、雄やぎ、その民の前をいばって歩く王がそれである。
あなたがもし愚かであって自ら高ぶり、あるいは悪事を計ったならば、あなたの手を口に当てるがよい。乳をしめれば凝乳が出る、鼻をしめれば血がでる、怒りをしめれば争いが起る。
アーメン
クリスチャンと言いながら、霊の父・神をのろい、霊の母・牧師を祝福せず、自分の目にみずからを清い者として、その汚れを忌み嫌わない人、訓戒を受ければすぐに自分の意見を言って神より高ぶり、牧師を裁く人、貪欲で与えられることばかりを求め、「もうたくさんです」と言わないあつかましさがある人・・・そのような人に成り下がっていないか、自分を吟味するよう語られました。
また、箴言30章16節の【すなわち陰府、不妊の胎、水にかわく地、「もうたくさんだ」といわない火がそれである。】という箇所の【不妊の胎】を通して、霊的に何も生み出さない状態であると語られました。先週の群れの羊たちの状態がまさにそうでした。兄弟姉妹からたくさんの報告メールがあがっているにもかかわらず、それに対して言葉が出てこない、寄り添う言葉が出てこない羊が多く、牧師から訓戒を受けると、一人のメールの形式にならって、皆が同じような文面でメールを打つ異様さがあらわれました。自分の言葉も思いもない、まるでロボットのような状態・・・霊から溢れる言葉が出ない人がどうやって他者に福音を伝えられるのかと、よく注意を受けてきましたが、学んでいることが身についておらず、その週に語られた事を行わず、黙って1週間を過ごして平然と集会の席に着いているのなら、霊の糧や経済的支援をもらうだけもらっているだけなら、貪欲で、あつかましい霊力に捕らわれており、すでに陰府にいるのだと訓戒を受けました。地獄の火は、「もうたくさんだ」と言わない、死人・悪人をどんどん受け入れる場所です
この世はすでに貪欲に満ち、お金がカシラの世界。ワクチンで人を殺してでもお金、利益を得たい国と製薬会社に誘導され、結果たくさんの人が命を落としています。どんなにこの世で善人と言われる人であっても、イエス様を内にお迎えし住んでいただいているクリスチャンでなければ、さらに聖別されたクリスチャン(「主よ、主よ」と言う者が皆天国に行けるのではなく、神のみ旨を行うクリスチャン)にこの地上で生まれ変わっていなければ、地獄行きです。神を恐れない人は平気でこの世で悪事を行い、自分をごまかし、人に対して偽ることができますが、必ず最期に全ての思いを探り、試みられてきた神に裁かれる日が来るのです!
神はずっと一人一人を観察しておられます。そして、神の御心、みことばに従って善を行なえるように、聖霊を助け主として送ってくださっています。しかし、牧師の中には、聖霊の働きは使徒行伝の時代に終わった、今の時代に聖霊はいないと教える牧師や、「聖霊」と言っていても机上の空論で、実際どんな働きをするのか分からずにいる牧師もいます。聖霊体験がなければ、聖霊対悪霊の霊の世界も分かりませんから、今のキリスト教会にはサタンの策略を見分けることも、それに打ち勝つだけの力もなく、一番攻撃を受けてしまっています。また、肉と霊が聖別されていなければ、肉の思いが強いですから、聖霊の導きがあったとしても従うことができず、タイミングを逃してばかりでしょう。
先週語られた通り、聖霊によって門が開かれている時は、自分に証があり、喜びがあり、勢いをもってその狭い門、細い道を通っていくことができますが、頭に戻ってぐずぐず考えていたら、門が閉じ、牧師に言われたからとしぶしぶ行なった時には聖霊の助けもなく上手くいきません。そうすると、「言われているからやらなければ!」という強迫観念になり、牧師への裁きも生まれてくるのです。今の時代は、皆が忙しく、自分のことで精一杯にさせられています。“牧師に言われても、今はできない!無理!やりたくない!まず明日が締め切りのこれを終わらせなければ!先にこれとこれをしなければ!”と理由をつけ、自己弁明して、後回しにするのが私たちの肉の習性です。ズルズルとやるべきことを先延ばしにすれば、サタンに別の武器をつくらせることにもなります。しかし、そのような自分の肉を忌み嫌い、まず神の国と神の義を求めて、信仰で一歩踏み出しやってみる、時を逃さずに発言してみるなら、あとのものは全て添えて与えられると約束されています。肉の習性にとどまるのか、霊の思いに意志を向けるのか、クリスチャンとしての真価が問われます。
そして、たとえ遊女に出会い、彼女に従うことになったとしても、内側にイエス様と助け主聖霊がおられるなら、「あなたのしたことは間違っているでしょ!」「あなたはあの時逃げたね!妥協したね!」「あなたはせっかくあの人に会ったのに、語るべきことを語らなかったね!」と教えられ、必ず心にチクっと刺さる罪悪感があるでしょう。肉がうるさい時には、「自分は正しい!」と言い張っていても、静まってイエス様こそ自分の主であることを知るなら(霊は神の子である証拠)、こんな状態でずっといるのは気持ち悪い、嫌だという思い、違和感が生まれてくるはずです。今週の集会でも聖霊に示されたタイミングを逃さないこと、語らせて下さるのは聖霊なのだからいちいち頭に戻って止めないことを改めて語られ、聖霊に示されたことを忠実に行いに移した兄弟姉妹たちの証が教材となり感謝でした。また、進展なく、どんよりと自分の置かれている状態にとどまっていたり、主に追及するよう、指摘するよう語られているにもかかわらず黙っているなら、霊がしぼみ、魂が衰え、体に刈り取りを来たらせるのだという事も聞き、与えられたみことばの数々から、何度も「怠惰になっていないか」とイエス様から問われました。
へブル6:1~12
そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。神の許しを得て、そうすることにしよう。いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込で、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。
しかし、愛する者たちよ。こうは言うものの、わたしたちは、救にかかわる更に良いことがあるのを、あなたがたについて確信している。神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。わたしたちは、あなたがたがひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。
アーメン
先に語られたように、黙っていることは愛ではありません。信仰の仲間に寄り添い言葉を出すことはもちろん、自分を吟味した上で、悪しき者に対して指摘すること、愛にあって真理を語ることを止めてはなりません。指摘することを裁きだと思ってる人がおり、指摘されたらすぐに裁かれたと思う人がいますが、その誤解が人を堕落させ、世の中をダメにしているのだと語られました。
詩篇40篇
わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌をわたしの口に授けられた。多くの人はこれを見て恐れ、かつ主に信頼するであろう。主をおのが頼みとする人、高ぶる者にたよらず、偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである。わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。わたしはこれを語り述べようとしても多くて数えることはできない。あなたはいけにえと供え物とを喜ばれない。あなたはわたしの耳を開かれた。あなたは燔祭と罪祭とを求められない。その時わたしは言った「見よ、わたしはまいります。書の巻に、わたしのためにしるされています。わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と。わたしは大いなる集会で、救についての喜びのおとずれを告げ示しました。見よ、わたしはくちびるを閉じませんでした。主よ、あなたはこれをご存じです。わたしはあなたの救を心のうちに隠しおかず、あなたのまことと救とを告げ示しました。わたしはあなたのいつくしみとまこととを大いなる集会に隠しませんでした。主よ、あなたのあわれみをわたしに惜しまず、あなたのいつくしみとまこととをもって常にわたしをお守りください。数えがたい災がわたしを囲み、わたしの不義がわたしに追い迫って、物見ることができないまでになりました。それはわたしの頭の毛よりも多く、わたしの心は消えうせるばかりになりました。主よ、みこころならばわたしをお救いください。主よ、すみやかにわたしをお助けください。わたしのいのちを奪おうと尋ね求める者どもをことごとく恥じあわてさせてください。わたしのそこなわれることを願う者どもをうしろに退かせ、恥を負わせてください。わたしにむかって「あはぁ、あはぁ」と言う者どもを自分の恥によって恐れおののかせてください。しかし、すべてあなたを尋ね求める者はあなたによって喜び楽しむように。あなたの救を愛する者は常に「主は大いなるかな」ととなえるように。わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます。あなたはわが助け、わが救主です。わが神よ、ためらわないでください。
箴言31:1~9
マッサの王レムエルの言葉、すなわちその母が彼に教えたものである。わが子よ、何を言おうか。わが胎の子よ、何を言おうか。
わたしが願をかけて得た子よ、何をいおうか。あなたの力を女についやすな、王をも滅ぼすものに、あなたの道を任せるな。レムエルよ、酒を飲むのは、王のすることではない、王のすることではない、濃い酒を求めるのは君たる者のすることではない。彼らは酒を飲んで、おきてを忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げる。濃い酒を滅びようとしている者に与え、酒を心の苦しむ人に与えよ。彼らは飲んで自分の貧乏を忘れ、その悩みをもはや思い出さない。あなたは黙っている人のために、すべてのみなしごの訴えのために、口を開くがよい。口を開いて、正しいさばきを行い、貧しい者と乏しい者の訴えをただせ。
アーメン
そして、私たちはクリスチャン、正しい者に約束されているみことばは以下の通りであることを確認しました
詩篇36:10~37:40
高ぶる者の足がわたしを踏み、悪しき者の手がわたしを追い出すことをゆるさないでください。悪を行う者はそこに倒れ、彼らは打ち伏せられて、起きあがることはできない。
悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。悪しき者は正しい者にむかってはかりごとをめぐらし、これにむかって歯がみする。しかし主は悪しき者を笑われる、彼の日の来るのを見られるからである。悪しき者はつるぎを抜き、弓を張って、貧しい者と乏しい者とを倒し、直く歩む者を殺そうとする。しかしそのつるぎはおのが胸を刺し、その弓は折られる。正しい人の持ち物の少ないのは、多くの悪しきの者の豊かなのにまさる。悪しき者の腕は折られるが、主は正しい者を助けささえられるからである。
主は全き者のもろもろの日を知られる。彼らの嗣業はとこしえに続く。彼らは災の時にも恥をこうむらず、ききんの日にも飽き足りる。しかし、悪しき者は滅び、主の敵は牧場の栄えの枯れるように消え、煙のように消えうせる。悪しき者は物を借りて返すことをしない。しかし正しい人は寛大で、施し与える。主に祝福された者は国を継ぎ、主にのろわれた者は断ち滅ぼされる。人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が
食物を請いあるくのを見たことがない。正しい人は常に寛大で、物を貸し与え、その子孫は祝福を得る。悪をさけて、善を行え。そうすれば、あなたはとこしえに住むことができる。主は公義を愛し、その聖徒を見捨てられないからである。正しい者はとこしえに助け守られる。しかし、悪しき者の子孫は断ち滅ぼされる。正しい者は国を継ぎ、とこしえにその中に住むことができる。正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を述べる。その心には神のおきてがあり、その歩みはすべることがない。悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。
主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。あなたは悪しき者の断ち滅ぼされるのを見るであろう。わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。正しい人の救は主から出る。主は彼らの悩みの時の避け所である。主は彼らを助け、彼らを解き放ち、彼らを悪しき者どもから解き放って救われる。彼らは主に寄り頼むからである。
アーメン
さらに、クリスチャンになるとは、「キリストの花嫁になる」こと、それこそがクリスチャンの真の姿であると箴言31章10節より語られました
箴言31:10~31
だれが賢い妻を見つけることができるか、彼女は宝石よりもすぐれて尊い。
その夫の心は彼女を信頼して、収益に欠けることはない。
彼女は生きながらえている間、その夫のために良いことをして、悪いことをしない。
彼女は羊の毛や亜麻を求めて、手ずから望みのように、それを仕上げる。(←物事を見極め、解決する力をもつ)
また商人の舟のように、遠い国から食糧を運んでくる。
彼女はまだ夜のあけぬうちに起きて、その家の者の食べ物を備え、その女たちに日用の分を与える。(←神の国のためにどう働くか計画を立てる)
彼女は畑をよく考えてそれを買い、その手の働きの実をもって、ぶどう畑をつくり、
力をもって腰に帯し、その腕を強くする。(←臆したり、恐れという感情に縛られない)
彼女はその商品のもうけのあるのを知っている、そのともしびは終夜消えることがない。
彼女は手を糸取り棒にのべ、その手に、つむを持ち、
手を貧しい者に開き、乏しい人に手をさしのべる。(←隣人に寄り添い、愛を注ぎ出すことができる)
彼女はその家の者のために雪を恐れない、その家の者はみな紅の着物を着ているからである。
彼女は自分のために美しいしとねを作り、亜麻布と紫布とをもってその着物とする。
その夫はその地の長老たちと共に、町の門に座するので、人に知られている。(←肉の夫婦も、妻がクリスチャンになり主に仕えるようになれば、夫が祝福を受けていく)
彼女は亜麻布の着物をつくって、それを売り、帯をつくって商人に渡す。(←夫は妻次第。妻は家計をやりくする。←福音宣教はクリスチャン次第。キリストの花嫁は神の国に収益をもたらす)
力と気品とは彼女の着物である、そして後の日を笑っている。(←クリスチャンとして品性ある立ち居振る舞いが備わり、未来への祝福を確信している)
彼女は口を開いて知恵を語る、その舌にはいつくしみの教がある。(←魂が静まれば、霊から知恵の言葉が溢れ出る。うわさ話や悪口ではなく、いつくしみの教えを語ることができる)
彼女は家の事をよくかえりみ、怠りのかてを食べることをしない。(←悪霊と戦うことを怠って自分の声を遊ばせない)
その子らは立ち上がって彼女を祝し、その夫もまた彼女をほめたたえて言う、
「りっぱに事をなし遂げる女は多いけれども、あなたはそのすべてにまさっている」と。
あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである、しかし主を恐れる女はほめたたえられる。
その手の働きの実を彼女に与え、その行いのために彼女を町の門でほめたたえよ。(←主の推薦状は御霊の実。主に信頼されているかどうかは、良い実・祝福の証が伴っているかどうかで分かる)
アーメン
みことばを学んでも、みことばを書かせた神、夫であるイエス様の心が解らなければ、的外れな歩きを続けることになります。神が望まれるキリストの花嫁になれているか、改めて一人一人が自分を吟味しました。
4月の初めに、ぶどうの木は「寺子屋教会」であると示されました私たちは神が望む家族のあり方を学び、社会問題とみことばを照らし合わせて、今の世の中を見る目を養い、置かれた場所、家庭、学校、職場、今の日本社会に対してクリスチャンとしての自分をあらわし、神に与えられている責任を果たすよう語られてきました。4月中旬には、パンデミック条約に対する2万人規模の反対デモが池袋で行われ、署名運動が様々な呼びかけにより行われています。闇側の人間・ディープステートは、人々が目覚め、声を上げると怯むのだそうです。現にWHOも、IHR(国際保健規則案)にあった危険条項を大量に削除し、後退し始めました。しかし、大事なのはこの国自身の問題、社会の問題です。コロナ対策禍の検証を行わなかった結果、再び「封じ込め」すなわち「行動制限」中心の対策強化を図る「政府行動計画」改定案が閣議決定されようとしています。意見を政府に直接伝えることができるのはゴールデンウイーク明けの5月7日まで。国民の連休中にこのような改定案を通そうと企む狡く汚い、この国の政府との戦いが続いています。サタンよ、退け
そして、4月の終わりについに情報開示されたのが、1985年8月12日に起きた日航機123便事件の真相です。当時の中曽根首相による判断・嘘によって、520名もの助かるはずの命が奪われたのです。
自衛隊が訓練中に誤って尾翼を壊したことによる事故・・・当時、「自衛隊があるのは憲法違反だ!」という声が高まっていました。自衛隊が必要ならば、事故の原因を正直に話した上で、国民を納得させれば良かったにもかかわらず、中曽根政権は、日航機事故が自衛隊のせいであると知られることを恐れ、それを隠蔽するために、長年ボーイング社のミス、圧力隔壁のせいにしてきたのです。
尾翼を壊された日航機123便には、緊急着陸できるチャンスが2回ありました。アメリカ軍が、横田基地への着陸を許可してくれたのですが、政府が妨害しました。次に、長野県のレタス畑への着陸への道がありましたが、それも妨害しました。御巣鷹山に墜落後、横須賀基地から米軍が救出にすぐに向かってくれたのですが、日本政府が「自分たちでやるから帰ってくれ」とさらに要請し、マスコミも共に妨害しました。そして、嘘を隠し通すために、火炎放射器でそこにいた人間は炭化するまで焼かれたのです。
圧力隔壁損傷による事故であるならば、急減圧で目や耳に異常が出て、酸素マスクをつけなければ低酸素症になって思考停止状態になるそうですが、パイロットは酸素マスクなしで20分飛行していました。墜落しても生存者がもっといたことでしょう。機体が真っ二つに割れ、後ろの席に座っていた4名は崖からすべり落ちていたため、火炎放射器で焼かれることなく一命をとりとめました。彼らの目や耳に異常がなかった事からも、圧力隔壁損傷説はなくなりましたが、彼らも政府から口を封じられました。
その後、中曽根政権は、アメリカに弱点を握られ、事故の翌月、1985年9月に行われたプラザ合意(日本の対米貿易黒字の削減の合意)で、日本経済は衰退していきました。第2次世界大戦後のGHQの支配は、3S政策と日本の食文化の崩壊を招きましたが、日本の経済発展があったのも事実です。しかし、日航機事故を隠蔽するための嘘が、日本経済の破綻、30年給与が上がらない疲弊した社会、対米従属に貶めたのです。当時の中曽根首相は、「真実は墓場までもって行く」と言いました。2020年10月17日には、3度目の彼の国葬が行われました。今となっては、彼のしたことを忘れるな!と言われていたのだと思います。
そして今、この主権の無い日本国、嘘に嘘を重ねてアメリカの悪の思う壺で売国してきた年月の行き着いたところが、生物兵器であるワクチンの工場建設地となり、日本人をモルモットにして治験に差し出す自民党・岸田政権です。平気で嘘をつき、ごまかし、国民を騙す政権、上に立つべき人じゃない人が上に立った時の恐ろしさ。国民も目覚め、昨日の衆院3補選、ついに自民党が国民の支持を失い、3人共に立憲民主党が当選となりました。これも一つの大きな変化です。悪事を許さない!私たちはモルモットじゃない!と日本人が大きく声を上げ、悪しき者たちが後退していく5月になっていくことを祈ります
そして、神が内に住んでおられるクリスチャンは、神との関係を常に思い、畏れ、嘘をつけません。どこまでも清さと聖さを求めるクリスチャンによって聖霊が働き、隣人たちに主の霊が臨み、救われ、真のクリスチャンが誕生していったことを感謝して祈ります
第2テサロ2:7~17
不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。
しかし、主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとし、そのために、わたしたちの福音によりあなたがたを召して、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせて下さるからである。そこで、兄弟たちよ。堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えられた言伝えを、しっかりと守り続けなさい。
どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みとを賜わるわたしたちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて、すべての良いわざを行い、正しい言葉を語る者として下さるように。
アーメン