イエス様への信仰ある者が成らせる実と勝利
holygirlです
2019年11月に行われたアメリカ大統領選挙では、トランプ氏優勢だったにもかかわらず突然バイデンジャンプが起きました。明らかな不正選挙により、バイデン氏が大統領になりました。トランプ氏は言いました、「ポップコーンを食べながら、ここから起きることを映画のように観ていたら良い」と。2020年からはコロナパンデミックとなり、その中で聖霊によって私たちに知らされていったのは、この世界は1%の支配者層、ディープステートと言われる人々によって支配され、彼らが利益を得るようにお金が発行されやりとりされている事、特に戦争を起こし、武器を売る軍需産業によって儲けてきたこと、彼らは小児性愛者であり、誘拐や人身売買を行い、それによって得た幼子を生贄に悪魔崇拝をしているという事でした。陰謀論と言われてきた事が、陰謀であったこと、WHOやこの世の医学(医療)といった今まで善でしかないと思ってきたものが、実はディープステートの人口削減計画に加担し、「ビッグファーマ」と言われる医療品や世界最大の製薬会社とのかかわりによって、人体への悪影響よりも利益を得るためのワクチン、薬によるビジネスを行なってきたことも明らかになりました。さらに、日本は戦後、敗戦国として実際はアメリカの植民地状態であり、日本政府はアメリカの言いなりだったのです。アメリカの余剰小麦を食べさせられて小麦食文化が広がって浸透し、日本人の食生活が変えられ、いつの間にか食品添加物の認可数は世界一(2022年7月時点で約1500種類)となり、アメリカの7倍以上になりました。子宮頸がんワクチンはじめ、今回のコロナワクチンも、アメリカで余ったワクチンを購入させられ、打たされ、ワクチンの追加接種回数は世界一になりました。(マスクの着用率も!)それにもかかわらず、世界最多の感染者数であり、ワクチンによる超過死亡者数は60万人に及んでいます。これは、東京大空襲10万人、広島原爆14万人、長崎原爆7万3884人、沖縄戦9万4千人を合わせた数(40万人)よりも犠牲者が出ているという事です。そこに、この秋から、レプリコンワクチン接種が始まります。すでに、約4000人の治験者のうち、5名が死亡し、その他90%の人がすでに酷い後遺症を発症しているそうです。そんな恐ろしいワクチンを、今回は日本人だけが強制的に打たされようとしています。
情報発信者を陰謀論者と決めつけ、ディープステートの洗脳機関であるマスコミだけを信じる情報弱者になっていたら、命を奪われる世の中であることを痛感してきた4年間のコロナ禍を経て、再びアメリカで共和党ドナルド・トランプ氏対、民主党カマラ・ハリス氏の大統領選挙が行われようとしています。
その中で、無所属から立候補していたロバート・F・ケネディ・ジュニア氏が実質出馬を取りやめ、トランプ氏と手を組むことを発表しました。トランプ氏は、大統領選で当選した場合、ロバート・F・ケネディ・ジュニア氏の伯父であるジョン・F・ケネディ氏の暗殺未遂に関する新たな独立大統領委員会を設置し、残る暗殺機密文書をすべて公開すると言っています。また、ロバート・F・ケネディ・ジュニア氏の公約であった①子供のワクチン接種をやめさせることと、子供たちの精神疾患増加と様々な病気の原因である②超加工食品、種子油、農薬、食品添加物をやめさせることを実現すると約束しました。さらに、今までディープステートの力によって取り締まることができなかった性的奴隷、臓器売買、権力者をハニートラップしての政治工作・ビジネス工作といった犯罪行為を取り締まり、関与した者、犯罪者を死刑にすると宣言しました。
17年目最後の集会前の朗報に、ついにここまで来たか!と霊が喜びました
トランプ氏も、ロバート・F・ケネディ・ジュニア氏もイエス様への信仰をもつ敬虔なクリスチャンです。ロバート氏は、選挙戦についてイエス様に祈ったところ、「トランプと組め」と言われたそうです。先日トランプ氏の暗殺未遂がありましたが、かつて闇側に立ち向かおうとしてきた人たちは、本人だけでなく家族を殺すぞと脅され、被害を受けてきました。ジョン・F・ケネディ氏もその一人です。しかし、トランプ氏とロバート氏はその声に臆することなく、家族も死を覚悟してでも世界のために!平和な社会を取り戻すために!と信仰で立ち上がっているそうです。クリスチャンは死んでも天国での永遠の命が約束されていますから、死を恐れることはないのです。
トランプ氏は、大統領就任後に聖霊のバプテスマを受けており、今回その聖霊が私たちにも2019年に起きた不正選挙からの一連の流れに注目するよう導き、【闇は光に勝たなかった】のみことば通り、光側の勝利の前進を見せてくださったのだと語られました。
なぜ、またこんな状況になるの!?一体いつまでこの悪しき行いは続くのか!?と落胆する事もありましたが、それも全てトランプ劇場のワンシーンだったのか・・・イエス様への信仰ある者が、平和に向かい、互いに愛し合い喜ぶことを目指すクリスチャンたちが、サタンに立ち向かってきた長い戦いも、いよいよクライマックスを迎えています
トランプ氏が大統領になれば、陰謀論と言われてきた事が真実としてつきつけられ、沢山の隠されて来た闇が暴かれ、基軸通貨、医学、教育、食、環境といった様々な分野の常識が覆されていくでしょう。そして、全く新しい世界がスタートします。しかし、カマラ・ハリス氏が当選するなら、神が決めた秩序はますます乱され、LGBTQが蔓延し、男も女もない世の中になり、犠牲になる子どもたちは増える一方です。戦争は終わらず、人工地震・台風による災害は尽きず、薬(毒)まみれの食品を食べさせられ続けます。1%の人間だけが儲かる社会システム、医療システムの中で、その他99%の人間の奴隷化、人口削減は加速していくのです。ディープステートが最も嫌い恐れているのは聖書真理だからこそ、徹底的に神を冒涜し、聖書に反した行いをし続けるのです。
いずれにしてもアメリカが変わるという事は、アメリカの言いなりになってきた日本も変わる、影響を受けるという事ですから、今回の大統領選挙も他人事ではありません。さらに、日本を覆う義理、人情、ヒューマニズム、道徳教育をカシラとさせる女預言者イゼベルの霊を退けないのであれば、世界で日本人だけがレプリコンワクチンを接種して、滅ぼされていくでしょう。打たないと決めても、レプリコンワクチンは接種者が毒をまき散らすようなものであり、周囲の人に伝播していきます。そうなれば、いよいよ携挙か、「主よ、来たりませ!」と、クリスチャンとしては思わずにおれません。しかし、クリスチャンと言いながら、この世を愛し、聖と俗の区別がつかず、この世のもの・金銭を握りしめているのであれば、足の裏から悪根っこが出て地獄と繋がってしまい、イエス様が再臨されても引き上げられません。いつ携挙があっても良いように、改めて自分の生き方、みことば=イエス様との向き合い方は神に喜ばれるものであるか、徹底的に悪に立ち向かう覚悟ができているか、私たちは今週の集会で忠告を受け、みことばを通しても吟味しました。
使徒行伝22:10~22
わたしが『主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか』と尋ねたところ、主は言われた、『起きあがってダマスコに行きなさい。そうすれば、あなたがするように決めてある事が、すべてそこで告げられるであろう』。わたしは、光の輝きで目がくらみ、何も見えなくなっていたので、連れの者たちに手を引かれながら、ダマスコに行った。すると、律法に忠実で、ダマスコ在住のユダヤ人全体に評判のよいアナニヤという人が、わたしのところにきて、そばに立ち、『兄弟サウロよ、見えるようになりなさい』と言った。するとその瞬間に、わたしの目が開いて、彼の姿が見えた。彼は言った、『わたしたちの先祖の神が、あなたを選んでみ旨を知らせ、かの義人を見させ、その口から声をお聞かせになった。それはあなたが、その見聞きした事につき、すべての人に対して、彼の証人になるためである。そこで今、なんのためらうことがあろうか。すぐ立って、み名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落しなさい』。それからわたしは、エルサレムに帰って宮で祈っているうちに、夢うつつになり、主にまみえたが、主は言われた、『急いで、すぐにエルサレムを出て行きなさい。わたしについてのあなたのあかしを、人々が受けいれないから』。そこで、わたしが言った、『主よ、彼らは、わたしがいたるところの会堂で、あなたを信じる人々を獄に投じたり、むち打ったりしていたことを、知っています。また、あなたの証人ステパノの血が流された時も、わたしは立ち合っていてそれに賛成し、また彼を殺した人たちの上着の番をしていたのです』。すると、主がわたしに言われた、『行きなさい。わたしが、あなたを遠く異邦の民へつかわすのだ』」。彼の言葉をここまで聞いていた人々は、このとき、声を張りあげて言った、「こんな男は地上から取り除いてしまえ。生かしておくべきではない」。
第1コリント1:4~9
わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みを思って、いつも神に感謝している。あなたがたはキリストにあって、すべてのことに、すなわち、すべての言葉にもすべての知識にも恵まれ、キリストのためのあかしが、あなたがたのうちに確かなものとされ、こうして、あなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望んでいる。主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。
詩篇40
わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌をわたしの口に授けられた。多くの人はこれを見て恐れ、かつ主に信頼するであろう。主をおのが頼みとする人、高ぶる者にたよらず、偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである。わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。わたしはこれを語り述べようとしても多くて数えることはできない。あなたはいけにえと供え物とを喜ばれない。あなたはわたしの耳を開かれた。あなたは燔祭と罪祭とを求められない。その時わたしは言った、「見よ、わたしはまいります。書の巻に、わたしのためにしるされています。わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と。わたしは大いなる集会で、救についての喜びのおとずれを告げ示しました。見よ、わたしはくちびるを閉じませんでした。主よ、あなたはこれをご存じです。わたしはあなたの救を心のうちに隠しおかず、あなたのまことと救とを告げ示しました。わたしはあなたのいつくしみとまこととを大いなる集会に隠しませんでした。主よ、あなたのあわれみをわたしに惜しまず、あなたのいつくしみとまこととをもって常にわたしをお守りください。数えがたい災がわたしを囲み、わたしの不義がわたしに追い迫って、物見ることができないまでになりました。それはわたしの頭の毛よりも多く、わたしの心は消えうせるばかりになりました。主よ、みこころならばわたしをお救いください。主よ、すみやかにわたしをお助けください。わたしのいのちを奪おうと尋ね求める者どもをことごとく恥じあわてさせてください。わたしのそこなわれることを願う者どもをうしろに退かせ、恥を負わせてください。わたしにむかって「あはぁ、あはぁ」と言う者どもを自分の恥によって恐れおののかせてください。しかし、すべてあなたを尋ね求める者はあなたによって喜び楽しむように。あなたの救を愛する者は
常に「主は大いなるかな」ととなえるように。わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます。あなたはわが助け、わが救主です。わが神よ、ためらわないでください。
第1ペテロ4:1~19
このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている。彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない。死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。
万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。不平を言わずに、互にもてなし合いなさい。あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。語る者は、神の御言を語る者にふさわしく語り、奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである。栄光と力とが世々限りなく、彼にあるように、アァメン。
愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。あなたがたのうち、だれも、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者として苦しみに会うことのないようにしなさい。しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい。さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。
アーメン
そして、18年目を迎える前に、集会に選びの民がさらに導かれていることに感謝し、ヨハネによる福音書14章~16章を通して、天の父である神、イエス様、聖霊様の御関係、クリスチャンと三位一体の神との関係、神の愛の戒め、聖霊の働きについて再確認しました
ヨハネ14章
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。イスカリオテでない方のユダがイエスに言った、「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」。イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。
これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。
アーメン
ヨハネ15:1~8
わたし(イエス様)はまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
アーメン
私たちは今まで何度も、集会の席に着いて教えを聞けることを当たり前だと思ってはならないと語られてきました。実を結ばない枝は取り除くとおっしゃっているのは、牧師・働き人ではなく、神ご自身です。自分の意思で群れに来たと思っている人、自分の意思で群れを出たと思っている人・・・席に着いて聞ける人、聞けない人がいるのも神の采配であり、父が手入れして、しっかりと養分を受けることができる枝を残し、そうでない枝は取り除いておられるのです。それが神が集め、管理している群れの在り方なのだと語られました。17年目集会最後の席に着けていることに感謝しました。
また、イエス様に繋がっていたら豊かに実を結ぶようになります。すぐに実が成るのではなく、悩み、苦しみ、光を見て満足する訓練を通りながら、徐々に「実を結ぶようになる」のです。ご利益宗教ではなく、みことばにとどまった上で、望むものを求めた時、与えられるということも忘れてはなりません。そして、私たちはイエス様から離れたら何一つできません。イエス様から離れてもうまく行っている、何の問題もなく、心の願いも叶っていると言いたい人もいるでしょうが、「実」は、神によって成ったものか、この世の神であるサタンによって成ったものか、二つに一つです。サタンも光の天使に擬装して、魂に心地よい甘い言葉でささやき、あたかもこれはイエス様からだ!と思わせてきます。しかし、サタンによって成った実は、いつか腐り、その人自身も、地獄の火に投げ入れられて焼かれてしまうのです。
私たちがしっかりとイエス様に繋がることで成らせる実・証は、神が栄光をお受けになるためです。全ての栄光はイエス様に帰し、証を自分の内にとどめるのではなく、ますます語り伝えていかなければならないと語られました。
ヨハネ15:9~17
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。
アーメン
神は愛でずっと見守って下さっていますが、その神の愛の内に自分自身はいるでしょうか?自ら心を狭め、離れてしまっていないでしょうか?無条件の愛と無条件のゆるしについて語られましたが、神の戒めは互いに愛し合うこと、まず神を愛し、次に隣人を愛することです。そして、【一つになりなさい】というのが神の御心であり、ヨハネによる福音書17章に書かれてある、十字架に架かられる前の最後の言葉です。イエス様を信じていると言いながら、家族の分派分裂の原因になっていたり、職場や学校で人の悪口を言っていたり、他者に嫌われ、怖がられているのであれば、愛の神であるイエス様から人々を散らす側に使われています。それがどれだけ大きな罪であるか、神を畏れ悟らなければなりません。クリスチャンとして、自分の命、時間、利益を捨て、全ての人を友だと思って愛を注ぎだすことができているか、逆に、隣人の時間、優しさ、お金を奪っているなら、遊女の霊に支配されているのです。神に選ばれ、立てられたということを、感謝をもって重く受け止め、良い実を結ぶことに熱心に励まなければならないと語られました。
ヨハネ15:18~27
もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。もしわたしがきて彼らに語らなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし今となっては、彼らには、その罪について言いのがれる道がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む。もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て、憎んだのである。それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。
アーメン【生きているのは私ではなく、私の内におられるイエス様】ですから、イエス様がそうであったように、私たちクリスチャンもこの世から憎まれ、迫害を受けるでしょう。しかし、私たちが内におられるイエス様と真に一体となり、知性・感情もイエス様と一つ思いで語り、みことばを守ろうとするのであれば、一時的な迫害はあっても、受け入れられるようになるのだと語られました。【彼らは理由なしにわたしを憎んだ】という言葉に解放されるのであれば、真にイエス様と一体となっている証拠です。そうではなく、自分の肉の甘さ、人として社会人としてできていない事に対して迫害を受けるのであれば(それは迫害ではなく注意されている)、自分の問題ですから、徹底的に肉を打ち叩いて自分自身が変わらなければなりません。それができるように、イエス様は真理の御霊、助け主聖霊を送って下さったのですから、「できない」「難しい」とは言えないのです。主にあってできたこと、主にあって変えられたことを証し、イエス様のために働く人に聖霊は働かれるのだと語られました。
聖霊については、続く16章にも書かれています
ヨハネ16:12~15
わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。
ヨハネ16:20~24
よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。
ヨハネ16:33
これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
アーメン
クリスチャンとして完全なる繁栄、最高の富とは、イエス様に愛され、自分を通してイエス様がご自身を表して下さることです。イエス様が内に生きて下さっているから、私たちも生きることができます。独り善がりに、自分勝手に生きているなら、すでに肉の思いの強さゆえに死んでいることを忘れてはなりません。肉の思いは死、霊の思いは命と平安です。
そして最後に、私たちは神という光を放つ存在であること、神の言葉と力を注ぎ出す器であることを、改めてビリー・ブリム女史の預言を通して確認しました。
<1985年5月6日にアメリカ・カリフォルニア・ロサンゼルス・メロディーランド教会において、ビリー・ブリム女史によって日本人に出された預言>
大いなる光があの日本という国に臨みます。大いなる、大いなる、大いなる光です。聖書にこう書かれてある・・・
イエス様は朝の光のように、地に若草を芽生えさせる雨のように人に臨むと。(サムエル下23:4)イエス様の朝日の輝きはまず東洋にのぼり、その福音の光は西洋におよび、今また東に帰ってこようとしています。あなたの生まれたあの国に神が大きく働かれるのをあなたは見るでしょう。神の光をあの国に見ます。神の光がその民の上にあるのを見ます。
そうだとも!
あなたがたは光を見る。神の光がこの地球を行きめぐる。大いなる尊い光を見る。あなたがたはまだ、真に輝く光を見たことがなかった。人間の思いの垣根というかげりの一切ない真の光を。しかし今この時に、栄光から栄光へと増し加えられていく、力に溢れたその光が来るのを見る。あなたがたはさらに良く見えるようになる。このわたし、「有って有る者」とよばれるこのわたしこそが、あなたにとって光となる。その光をあなたがたは見るようになる。こうしてその福音の光、このみことばの光は、未だかつてそれを聞いたことのなかった人々の耳にとどまるようになる。それは超自然の大いなる光だ。このわたし自身なのだ。
わたしはあなたを暗きところから、あなたを取り囲む状態からあなたを引っぱりだす。もう答えがないとあなたは思った。見ないか、あなたの神という光に目を向けよ。このわたしがそれだ。この暗い時代に神の光は輝きわたる。あなたはその神の光(力)を与える器となる。しかしそのともし火は、わたしだけによってともされなければならない。この世によって曇ったり、汚れたりしてはならないのだ。わかるか。わたしの血によってきよめられた、純粋な混じりけのない器。盛んに燃え続ける灯火(あかり複数)。あなたがたが洪水なのだ!
わたしはあなたをわたしの心に引き寄せる。あなたの一部ではなく、すべてを明け渡すようにとあなたを召す。この灯火となるために、自分の全身全霊を捧げるようにと召す。完全にわが手によって治められるように。今、あなたの立っているこの場所で、それを本当に現実のものとしてあげよう。それによって光を輝かすための、わたしに従順に応じる、聖なる器。
わたしはあなたをふるう。わたしの力によって・・・あなたは生きのびる・・・この時代を。あなたは生きて死ぬことはない。・・・「なぜ!?」と叫ぶな。ただ聖別され、ひたむきに専念しなさい。あなたに、そしてあなたをとおして、わたしが輝けるようにしてほしい。明け渡せ!放せ!脱ぎ捨てよ!栄光に輝く花嫁にふさわしくないものは、すべて捨て去れ!
あなたにそれができるようにした、と言ったではないか。いっさいの重荷を捨てよと。わたしがしなさいと言うことはできるのだから・・・。捨てておきなさい、ふたたび拾い上げてはいけない。
(中略)
今もし幕を取り去りさえすれば、おおいなしに神の栄光を見る。神の教会が現れる。栄光と恵みにあふれ、はっきりとした力の現れに満ちた教会。天にあって、永遠に離れることなくわたしの前におらせるために計画した教会だ。だから定められた位置につくがよい。わたしはあなたがたに言う、(あなたがたは)争いも分裂もまったくない、栄光のための容れ物として用意されている。銀行には黄金が貯えられている。しかし、そんなものよりもはるかにはるかにまさる富・・・人間の金庫にはおさめきれない大いなる富をおさめる器・・・。この終りの時に、神の臨在・・・神の目的・・・神の言葉と力を注ぎ出す器たちよ。
アーメン
昨年9月3日、17年目のスタートは、絵本「1つになろうよ!命の絵本・命の糸に出会う本」が文芸社から出版されること(10月15日出版)を記念する祝賀パーティーをもって始まりましたその時のブログには次のような事を書いていました。
絵本の前書き文に次のような文があります。
『コロナ禍の3年が過ぎましたが、“今だけ、金だけ、自分だけ”の事しか考えていない人たちが、生命を軽んじ、利益を得るためなら自分勝手に何でも行い、媒体を通じて人々を自分たちにとって都合が良いように洗脳してきたことが明らかになりました。人類の的外れな生き方(罪の蓄積)の結末が、コロナウイルスという生物兵器を生み、コロナワクチンという時限爆弾の投下を引き起こしました。目には見えない第3次世界大戦とも言われる戦争下で、グローバリスト達により世界的に人口は削減され、「コロナウイルス」よりも、「コロナワクチン」で苦しむ人々、亡くなる人々が後を絶ちません。自分なりの信念をもって一生懸命生きていても、世界的パンデミックが起きたら身動きがとれず、何一つ思い通りにはいかない、いつ死ぬか分からない、何を信じて生きて行けばいいのか分からない、不安と恐怖に満ちた世界となってしまいました。』
たった1%の、富を追い求める人たちが自由にお金を刷れる世の中で、そのお金を使った小児誘拐、人身売買が行われると共に、99%の人間が奴隷のように彼らの利益のために働かされているのですが、それに気づき変えようとしてきた人々は、今まで暗殺されてきました。その中にジョン・F・ケネディ・ジュニア(ジョン・F・ケネディの息子)がおり、彼の墓は上空から見るとアルファベット17番目のQの文字になっているそうです。そして、今世界の闇を暴き、戦っている人がQと言われています。私たちはコロナ禍で17という数字も啓示でよく見せられてきたこともあり、ぶどうの木がこのタイミングで17年目を迎えることにも霊的意味があると語られてきました。牧師は昨日の集会で、「17年目は、ますます真実が明らかになっていくと預言します」とおっしゃいました。私たちはまだ見ていないことを望み、忍耐してそれを待ち望みながら、17年目を一つ思いで歩んでいけたことを感謝して祈りました。
まさに牧師の預言通りになった1年であったと思います。そして、1年前、「自分は絵本の内容から一番遠い人間だったから、この絵本の絵を描かせてもらえたと思います。救われる前は両親の関係を見ていて幸せそうには見えず、結婚は大変だ、子どもができても、私みたいな子どもが生まれたら大変だと思い、結婚願望がありませんでした。しかし、牧師の家族を見て、こういう夫婦関係、家庭を築きたいなと思いました。友人ができちゃった結婚をした時、聖書真理を伝えたい!結婚のお祝いに渡せるようなものを作りたいと思い、2年間あたためてきた思いを牧師や兄弟姉妹に伝え、絵本の形にすることになりました。そして、今回父が倒れた時に、母がゾンビのようにやつれてしまい、退院してからは、献身的に看病する姿を見て、仲が悪いと思っていた両親にも私が知らなかった絆、愛があったのだと分かりました。父が倒れた時は、私はクリスチャンで家族のことも祈ってきたのに、どうしてこんな事が起きるのか!?と思いましたが、そこにも神の御計画があり、万事が益となって今日という日を迎えられたことを感謝します」と証した、絵本の絵を描いたN姉妹は、祝賀会に出席した彼と絵本の内容に沿った交際を経て7月に結婚し、ぶどうの木7組目のクリスチャン夫婦となりました
「命は繋がっており、食卓を囲む家族は時代ごとに変わり、子々孫々と受け継がれていくものです。3代4代に渡る呪い祟りの霊はありますが、先祖をないがしろにしろと神はおっしゃいません。受け継がれてきた命に感謝することは当然であり、その上で今を生きる人が最も大事であると神は教えています。与えられた命をどう生きるのか、その答えは聖書に書かれており、神を恐れ、その命令を守ることが人間の本分です。全ての人間が、的外れな生き方を悔い改め、神が決めた至福の道を歩まなければなりません。」とスピーチした私も、祝賀会の1か月後に妊娠し、出産を経て、こうしてまた神の言・真理を伝えるブログを書く働きをすることができています今週のブログも、長い昼寝を息子にさせて書く時間を与えて下さった神に感謝します
1年という期間を長いと感じるか短いと感じるかは人それぞれですが、主と共に歩むなら一つ一つの出来事が聖霊の導きによって繫がっており、変化もあり、たくさんの実をならせ、収穫していくことできます
一人一人が自分の一年を振り返り、きよくないものは全て取り除き、成就した祈りは喜び、9月1日、18年目初集会に着席できたことを感謝して祈ります