イエス様を知ることで得た私の病の癒しと就職の証(K兄弟の証) | ぶどうの木 Good News

イエス様を知ることで得た私の病の癒しと就職の証(K兄弟の証)

イエス様を知ることで得た私の病の癒しと就職の証

―主の祝福は人を富ませる、主はこれになんの悲しみをも加えない―

 私は、神の導きにより、大分県から「ぶどうの木」という浜松の教会に導かれました。2020年12月に、就職によって、静岡県に移住して、毎週、ぶどうの木の集会に出席して霊の糧を得ながらの生活を始めています。浜松市には、私がこれまで通ったキリスト教会とは異なる聖書の学び会があり、この学び会に出席することが神の御心であったため、就職も神の導きが与えられ、神の御心にかなう会社に就職することができました。

 私がイエス様を初めて知ったのは、大学院の時でした。大学院の時は工学部の研究室で研究課題に取り組む日々でした。その頃の私は、心に風穴が空いたような感覚があり、心に空いた空洞を埋めるために、何を求めたらいいのかと思っていました。ヨガや、マドンナのロックミュージック、美輪明宏さんの宗教本など関心を持ちましたが、どれも本当の意味で心が満たされることはありませんでした。そんな時に、同じ研究室に在籍していた留学生を通して、聖書の話を聞き、関心をもつようになり、彼を通して教会にも通い、クリスチャン達との交わりが様々な場所で与えられました。彼が通う教会は、どこにでもある自宅が教会として使われていてそこで外国人や日本人問わず、聖書の学びのために安息日である日曜日やそれ以外の平日の日に集まっていました。この頃の私と年の近い方が多く、聖書の話に私は心から感動し、楽しみとなりました。この交わりは大学院の最終学年の時に与えられ、短い間でしたが教会やクリスチャンに対して、温もりとこれからも求めて通っていきたいという思いを持ちました。

 私は、福岡県の大学院を卒業後、エンジニア職に就き、その後、就職や転職を通して生活の場を転々としたため、様々なキリスト教会に通いました。初めての就職先は、茨城県にありました。ここでの生活は、大半が仕事に使われ、教会に通うことはできても聖書を読むことはあまりありませんでした。通った教会は、福音派の教会で、異言で祈る聖徒はおらず、礼拝は決まったプログラムに沿って、聖徒達皆で賛美をし、説教の大半は聖書の解説(神学の教え)でした。就職して、2年目に救いの告白をし、イエス様を受け入れましたが、生活や私自身の内側に大きな変化はありませんでした。このことを通して、救いとは何なのかと疑問をもつようになりました。また、教会に通いつつ、風俗に通うことも多くあり、教会の教えが全く身にならず、自分の多くのことを快楽と金(仕事)に使った生活でした。就職から、3年が経つ頃に生活に嫌気がさして、環境を変えるために転職して関西の滋賀県へ移住しました。

 滋賀県では、聖霊派のキリスト教会に通いました。聖徒達の多くは異言(のようなもの)を語り、早天祈祷という早朝の祈祷会では皆が異言(のようなもの)で祈っていました。朝の時間を惜しまずこの会に参加して祈ることを素晴らしいと感じ、私もこの会には何度も参加しましたが、生活に変化はありませんでした。また、私は異言を語ることに興味を覚え熱心に求めたところ、複数のキリスト教会が集まって行われた合同のキリストの聖会で牧師から按手を受け異言のようなものを語るようになりました。私の語る異言のようなものは祈りが激しく、こんなに激しくでるのはどうしてだろうと思いながら、異言のようなものを語れたことに満足していました。異言のようなものを語るようになった当初は、教会内でしるしや奇跡的なこと(カルト的なこと)を語り、周囲を驚かせることがありました。牧師が特にそれを咎めたり、いさめたりということはなく、むしろ神の思いを語っているという受け方をされ、私も喜んで話していました。このときの異言のようなものは、カルト筋のものであったため、与えられた思いや言葉もカルトだったのだと今は分かります。また、自分の内側が変わりたいという思いはなく、カルト的なしるしや奇跡だけを求めたことにより、聖書のみことばマタイによる福音書9:29“信仰通りあなたがたの身になるように”とあるようにカルト筋の異言のようなものが与えられたのだと分かりました。教会では、霊を見分けることができなかったため、私の歩みも益々神の道から外れ、しるしや奇跡ばかりに囚われ、高ぶりやプライドとなって、自分の罪や悪と向き合うことすらしませんでした。その後、仕事の勤務先が自宅から遠方に変えられて働きづらくなり、教会とも分派分裂で疎遠となりました。この頃から、体質的に弱いお酒を毎晩呑むようになったところで、生活を続けることに限界を感じ、イエス様に求めて仕事・生活の場を変えることにしました。大分では、両親が家業として長年酒蔵をしており、自分のことばかりではなく、家族と共に働くことで、家族と喜びを共有できることにやりがいを見出せると思ったので、大分に戻ることにしました。

 大分での生活は、生活リズムがこれまでと異なり、夕方になると仕事が終わるため、それ以降をプライベートの時間として使うことができました。そのため、今までしっかり向き合えなかった聖書と向き合えるようになり、聖書によって自分の内側から変わりたいと思うようになりました。特に、快楽的なことは自分にとって大きな罪の自覚があり、このような快楽的なことをやめたいと思っていました。大分では、滋賀で通っていた教会と繋がりのある聖霊派の教会に通いました。教会として、救いのことや霊の賜物等の霊的なことを教えて下さり、みことばを読むことや悪霊の追い出しから聖徒達を解放し、癒しの証もある教会でした。しかし、悪霊の追い出しは、今までの経験や知識に頼ったものに感じました。私は滋賀にいる頃から不眠の症状があり、大分に戻ってからはさらに不眠で気分がすっきりせず、精神的に不安定な日々を送っていたため、熱心に教会に通いました。私の内側から変わりたいという思いをもって、2016年の暮れに大分の合同のキリスト教会の聖会に臨み、そこで複数の牧師より按手を受けました。按手を受けてから、私の内にうごめくものを感じ、その晩、聖書を開くと、以下のみことばがはっきりと浮かびあがってきました。

ヨハネの第一の手紙4:1
愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。

 このみことばから、私の内に、聖霊と悪霊がいることが分かりました。その日は悪霊の追い出しを学生時代に聖書を教えてくれた留学生に電話をかけて行いました。数日内に、彼の導きから今までの罪の悔い改めもしましたが、毎晩、恐れが襲ってくるようになり、悪霊によって様々な惑わしを受けました。私の意志とは関係なく書かされている感覚で筆記し、その内容をみると偶像礼拝の内容(死んだ犬の墓を立てて新酒を捧げなさい)であったり、その日の17時に大いなる力が与えられると囁かれたため待っているとその時間に全身に電流が走ったような攻撃を受けたり、聖書を教えてくれた留学生に電話をかけて異言で話せばフランス語として伝わるとそそのかされ電話をかけると気持ち悪い異言のようなものが出て、留学生からは悪霊に騙されたのだと伝えられました。このようなカルトの現れが強くはたらく中で、4,5カ月経つと、嘔吐がひどくなり、咽頭が変形し、言葉を出しづらくなりました。教会の牧師も私のことを心配して、悪霊の追い出しをしてくださったり、日々みことばを読むことを勧めてくださいましたが、なかなか改善されない状態が続きました。この世の病とは異なり、カルト的な現れのある病であったため、悪霊を追い出し、癒しの証のある教会を、インターネットを通して探すようになりました。そこで、見つけたのが浜松のぶどうの木という教会でした。2017年10月、ぶどうの木のHPに記された連絡先に連絡をし、ぶどうの木牧師達と初めて出会い、「今まで神のことを知って救われているみたいだけど、再度、救いの告白と聖霊のバプテスマの祈りをしましょう」と促されて教えられた祈りをしたところ、私の異言のようなものが異言に変わりました。また、これまで犯した罪を一つ一つ言葉に出して悔い改め、悪霊の追い出しもしてくださいました。ぶどうの木牧師がされた悪霊の追い出しは、聖霊の賜物によって私の内にいる悪霊を見分け、それをイエス様の権威によって追い出していくもので、経験や知識によらないものでした。そうすると、身体の不調が改善され、癒しが与えられたことを感じました。私の体調不良(以降、霊の病と表記)は、今までの罪が大きかったことにより、身体に悪霊が入り込み、身体への刈り取りから、自分ではどうにもならないところまできたことの結果であったことを悟りました。それから、信仰の歩みとはどういうものであるのかをぶどうの木牧師が一つ一つ私に分かるように教えて下さり、実践する歩みが始まりました。

 私は、多くのキリスト教会に通う中で、ずっとイエス様が生きていることを知る体験がありませんでした。聖書を作り話かおとぎ話であるかのように思っていたため、教会に通っていながら神の求めるものとは程遠いものにのめり込むことが沢山ありました。神のことを神学(知識)として教えられても、何をすればいいのか分からなかったし、罪に対してとても鈍感で自分の欲することをただ行っていた感覚でした。そのため、神のことをもっと知ることが必要でした。大分の合同聖会で受けた按手によって、悪霊から様々な惑わしを受けて霊の世界が確かにあることを知り、神を恐れるようになりました。そして、マタイによる福音書7:7“求めよ、そうすれば、与えられるであろう。”にあるように、霊の病の癒しのためにイエス様を必死に求めた先に、浜松のぶどうの木教会との出逢いがあり、救いの告白と、聖霊のバプテスマの祈りから生きている神を体験することができました。生きている神を体験するには、聖霊を受けなくてはなりません。聖霊を受ければ、神を知ることができます。神を知ることは、神が求めておられることを知り、それを行えるものに変えられていくことです。そういった歩みを達し得たところで行ってきました。大分で神のことを知り、神を体験していく中で、これからの私の人生の転機となる導きが与えられました。そのことをこれから記していきます。

 2019年7月に、浜松で水の洗礼式を受けた時に、イエス様から牧師を通して3つのみことばが語られました。

伝道の書5:10-12
金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である。財産が増せば、これを食う者も増す。その持ち主は目にそれを見るだけで、なんの益があるか。働く者は食べることが少なくても多くても、快く眠る。しかし飽き足りるほどの富は、彼に眠ることをゆるさない。

伝道の書5:4-6
あなたは神に誓いをなすとき、それを果たすことを延ばしてはならない。神は愚かな者を喜ばれないからである。あなたの誓ったことを必ず果せ。あなたが誓いをして、それを果さないよりは、むしろ誓いをしないほうがよい。あなたの口が、あなたに罪を犯さないようにせよ。また使者の前にそれは誤りであったと言ってはならない。どうして、神があなたの言葉を怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてよかろうか。

伝道の書4:9-12
ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。またひとりが一緒に寝れば暖かである。ひとりだけで、どうして暖かになり得ようか。人がもし、そのひとりを攻め撃ったなら、ふたりで、それに当るであろう。三つよりの綱はたやすくは切れない。

 3つのみことばのうち、伝道の書5:10-12のみことばから、イエス様が酒蔵の仕事を辞めて次の職に就くことを求めておられることを知り、伝道の書5:4-6からは一度仕事を辞めることに意志を向けたのであればそれを必ずやりとげなければならないとイエス様のみことばから指示を受けました。伝道の書4:9-12については後にその意味を理解することとなりました。牧師からは、クリスチャンは何をするにも聖さが求められ、箴言31:4~、エペソ5:18のみことばから酒に酔うことは罪だと書かれてあることから、酒を勧める立場である今の仕事が神の前に聖い仕事であるのか問われているのだと語られました。酒を造る仕事をしている人、皆が悪いということではありませんが、特に、自分の場合は、霊の病のさらなる癒しを得るためには、酒を造る仕事を辞め、家や土地のもつ霊力を断ち切ること、まずは離れることが必要ではないかということも語られました。イエス様(=みことば)に従って仕事を辞めたときに何があるのかということも、イエス様がこれまで与えて下さった牧師、兄弟姉妹の証、体験談から語られ、仕事をやめた先には大きな祝福が伴うこと、イエス様は、健康面においても、社会的にも、経済的にも祝福してくださるということを教えていただきました。かつて牧師が通られた体験・証は私と同じように自営業をされ、イエス様に従って仕事を辞め、現在のぶどうの木ができることの証でしたので、私も自分のことと重ねて聞くことができました。牧師の証の詳細は、以下のURLに記載がありますのでそちらをご覧ください。
https://ameblo.jp/whitesheep0902/entry-12295331193.html
また、私自身もイエス様から以下のみことばをもらい神のみこころを知ることができました。

マタイによる福音書19:21
もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい。

マタイによる福音書19:29-30
おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。
 

ルカによる福音書12:51-53
あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう。

 こうして、神のみことばからも語られ、仕事を辞めることに意志を向け、両親にも酒蔵を退職したいことを話すことができました。両親からは私がエンジニア職を辞め酒蔵に戻り、自社ブランドを作る際には、多額の投資をしてもらっていたことやこれからの酒蔵の将来を期待して時間と労力を注いでもらっていたこと、勝手に戻ってきて突然辞めますとは何事かと強く反発されました。このときは、イエス様のことを言っても聞き入れてもらえず平行線となりました。牧師からはまずイエス様にも両親にもごめんなさいと悔い改めるように語られました。イエス様に悔い改めた後、後日、これまで沢山のサポートをしてもらってきたのに申し訳ないと誠心誠意両親に謝罪し、今までの酒蔵経営においても色々な場面でイエス様からみことばがのぞみ従ったことで恵を得ての今であり、これが最善であることを話し、両親も理解を示してくれました。このとき、両親とはその年の酒造りをした後の3月いっぱいで仕事を辞めるという話で一致し、私もそのつもりで仕事を進めていきました。
 その一つに焼酎事業を親戚の会社に手放したことがあります。酒蔵では親戚にあたる焼酎蔵より焼酎を仕入れて、自社ブランドとして販売をしていました。元々、2つの酒蔵は共同で瓶詰会社を作り、その会社の中で働いていました。その会社の中で父は若い頃に東京で約一年間営業をし、焼酎ブランドの販路を大きく拡大させました。(しかし、父はこのことがきっかけで長く精神の病を患うことになりました。)そのため、共同瓶詰会社解散後は家業の酒蔵が焼酎ブランドを継続して販売していました。しかし、焼酎の製品出荷は作業の負担が大きく人手がいるため、私の退職後には会社の大きな負担になると思い、両親に焼酎事業を手放すことを提案しました。このとき、以下のみことばが語られました。

コリント人への第ニの手紙1:12-22

さて、わたしたちがこの世で、ことにあなたがたに対し、人間の知恵によってではなく神の恵みによって、神の神聖と真実とによって行動してきたことは、実にわたしたちの誇りであって、良心のあかしするところである。わたしたちが書いていることは、あなたがたが読んで理解できないことではない。それを完全に理解してくれるように、わたしは希望する。すでにある程度わたしたちを理解してくれているとおり、わたしたちの主イエスの日には、あなたがたがわたしたちの誇であるように、わたしたちもあなたがたの誇なのである。
 この確信をもって、わたしたちはもう一度恵みを得させたいので、まずあなたがたの所に行き、それからそちらを通ってマケドニヤにおもむき、そして再びマケドニヤからあなたがたの所に帰り、あなたがたの見送りを受けてユダヤに行く計画を立てたのである。この計画を立てたのは、軽率なことであったであろうか。それとも、自分の計画を肉の思いによって計画したため、わたしの「しかり、しかり」が同時に「否、否」であったのだろうか。神の真実にかけて言うが、あなたがたに対するわたしの言葉は、「しかり」と同時に「否」というようなものではない。なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」となると同時に「否」となったのではない。そうではなく、「しかり」がイエスにおいて実現されたのである。なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、神である。神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜ったのである。


箴言19:21
人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。

 父の労苦を思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、私も自分や酒蔵の将来を思う気持ちで父には話をし、了承を得ました。そして、私の退職月の翌月の4月に親戚の焼酎会社にブランドを無償譲渡しました。現在も続くコロナ禍の中で酒蔵経営はどこも大変な状況ですが、焼酎ブランドの無償譲渡により、親戚の焼酎会社にとって大きな助けになっていることは違いありません。先に私がもらっていたみことばマタイによる福音書19:21の成就を思いました。このことにより、神はその心を見て家業の酒蔵の必要を満たして下さり、神のみ旨を行うことにつながっていきました。

マタイによる福音書19:21
もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい。

 また、私は水の洗礼式の前に、米屋と加工用米の2年契約を結んでいたことで、酒造りに使用する2期分の米を購入しなければなりませんでした。加工用米は早い時期に契約するため、仕入れが安い分、原則、キャンセルができず、転売したり食用に使うことも定められた規則で禁じられていました。来年の3月で退職することを前提に、酒造りを来年度はしないと思いがいれられていたため、来年度納品分の米についてどうしたらいいのかと思っていました。すると、翌年はコロナウイルスの感染拡大によりどこの酒蔵も酒余りで例年以上に酒を造ることができない状況となったため、特段の事情で2年目の米の契約についてはキャンセルをすることができました。これも会社を退職することを前提にして仕事を進めていったことでイエス様が顧みてくださったことだと思い、イエス様に感謝しました。
 酒蔵の退職に向けて仕事を進めるとともに、退職後の私の歩みについてもイエス様から必要が語られていきました。2019年12月に、浜松で牧師達と交わりをもち、退職後の生活の拠点については、静岡に置くことを語られました。私はこれまでイエス様のタイミングで何か月かに一回、大分から浜松にぶどうの木の集会への出席と神の家族との交わりのために通っていました。それによって、大分の生活の中で肉の状態に戻されて犯してきた罪や悪が明るみになり悔い改めることで、霊的に解放され、霊の病も回復していきました。そのため、マタイによる福音書6:33“まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう”のみことばにあるように、静岡に生活の拠点を置くことで、毎週、ぶどうの木の集会に出席し、神の家族との聖い交わりから、自分の霊性を聖く保つことで私が患っていた身体の不調も霊→魂→体で癒しが与えられ、いつも霊の思いに満たされて生活できることを語られました。その後は、静岡への移住を考えて就職活動を始めることにしました。
 年が明け、初めに就職を考えていた会社がエージェント経由で主に採用試験を実施していることを受け、転職エージェントを経由した就職活動を始めました。この転職エージェントは求職者の就職先が転職サイトを使って決まると、就職企業から報酬を得る仕組みになっているため、転職エージェントの扱う求人は報酬を支払う余裕のある企業に限られていました。ところが、就職活動を始めた矢先にコロナウイルスによる感染拡大から、面接がオンライン形式に変えられました。私は書類選考で落とされることが多かった中で、適正検査1社、面接2社を受けることができました。しかし、結果はいずれも不合格でした。また、コロナ禍により急激に求人数が減少し、4月には就職活動を中止せざるを得なくなりました。就職活動を通して、早く就職先を決めたい気持ちが先行し、自分の思いが定まらない中、エージェントから次々に求人情報が与えられ、あれもこれもと安易な気持ちで応募先を考えていたことに気がつきました。そのため、応募先としっかり向き合うことができずに適正検査や面接を受けることとなり、それが結果にあらわれたのだと思います。面接では、形式的な会話にとどまり会話も弾まず、応募先に「何か質問は?」と聞かれても、「ないです」と答えてしまう有様でした。このまま就職活動を続けても就職は叶わなかったと思いますし、就職活動を中断したことで、自分の気持ちをリセットすることができました。
 就職先が決まらなかったことで、4月からも酒蔵に留まり、コロナウイルスの感染が落ち着いたタイミングで再度就職活動を始めることにしました。しかし、4月からは売上の6割以上を占めていた焼酎事業を手放したことで売上も、仕事量も激減し、従業員もそれを察知して仕事を続けることができるのか、不安を吐露するようになりました。すると、コロナ禍による会社の救済措置として国から助成金を受けることができるようになり、雇用調整助成金により従業員を雇用し続けることができました。また、コロナ禍(4月~6月)にあっても日本酒の売上が好調であったこともイエス様の恵みで、日本酒の出荷量が県全体で前年度の6割程度であったにも関わらず、前年度以上の売り上げを記録し、従業員に対して必要最低限の仕事(週3日の半日作業)を与えることができました。持続化給付金も、焼酎事業を譲渡したことで満額頂き、未来をご存知のイエス様が全て顧みて下さっていたことを悟りました。
 夏には、一昨年の造りで思ったようなお酒にならなかったことで一度も蔵から出さず全量在庫となっていたお酒が熟成されて夏に合う味に変化していたことに気がつき、夏酒として商品化することにしたところ、思わぬ形で恵を得ました。夏酒の商品化が決まった矢先に新聞社の方が来られ、夏酒のことや私のこれまでの酒蔵の歩みを記事にしてくださったのでした。このことを通して、一時期を過ごすための売上が与えられたことや知人や親戚と様々な形で交わる機会が与えられ、これまでのここまで見えないところで沢山の人に酒蔵が支えられていたことに気が付き、福音の機会も与えられました。

ルカによる福音書8:15
良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。

コロサイ人への手紙1:9-10
そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。

 しかし、コロサイ人への手紙1:9-10にあるように、あらゆる良いわざを行うべきであったことも語られました。新聞記事の取材の際、来年度の酒造りに思いをはせた言葉を出したことについて、イエス様から仕事を辞めることを語られている中で、クリスチャンとして聖さがなかったことや、夏酒の仕込み時期について一昨年に造ったものを昨年造ったものと偽った(嘘をついた)ことについて、記者や読者、そして神の家族に対しても、誠実さが欠けており、神の前に聖さがなかったと指摘され、悔い改めました。また、神の家族に対して、今回の夏酒の件を伝えた言葉の使い方も不適切で、新聞記事の反響(名誉)とお酒が売れたこと(お金)をただ伝えるだけで、そこにみことばや霊的な解釈もなければ、それはお金のためか、人の歓心のためかと思われる事、クリスチャンとして何がそこに与えられたのかを正しく伝えることが神の家族から大事なこととして語られ、私自身も以下のみことばをもらい、悔い改めました。

テトスへの手紙2:1-15
しかし、あなたは、健全な教にかなうことを語りなさい。老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深くし、また、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように勧め、年老いた女たちにも、同じように、たち居ふるまいをうやうやしくし、人をそしったり大酒の奴隷になったりせず、良いことを教える者となるように、勧めなさい。そうすれば、彼女たちは、若い女たちに、夫を愛し、子供を愛し、慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順であるように教えることになり、したがって、神の言がそしりを受けないようになるであろう。若い男にも、同じく、万事につけ慎み深くあるように、勧めなさい。あなた自身を良いわざの模範として示し、人を教える場合には、清廉と謹厳とをもってし、非難のない健全な言葉を用いなさい。そうすれば、反対者も、わたしたちについてなんの悪口も言えなくなり、自ら恥じいるであろう。

奴隷には、万事につけその主人に服従して、喜ばれるようになり、反抗をせず、盗みをせず、どこまでも心をこめた真実を示すようにと、勧めなさい。そうすれば、彼らは万事につけ、わたしたちの救主なる神の教を飾ることになろう。
すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。
あなたは、権威をもってこれらのことを語り、勧め、また責めなさい。だれにも軽んじられてはならない。

 酒蔵の仕事をしている中で、神の家族の繋がりから仕事を紹介してくださったことがありました。その中に、R兄弟の自立支援をサポートするヘルパーの仕事がありました。R兄弟は高校生であった16歳の時に交通事故に遭って四肢麻痺となり、呼吸も人工呼吸器に頼らざるを得なくなりました。絶望の淵にいたR兄弟を救ったのが、聖書との出逢いでした。聖書を通してイエス様を知り、イエス様の力を体験したことで生きる希望をもって生活が行えるようになりました。R兄弟は母親のY執事、祖母のY姉妹と生活を共にしていましたが、祖母のY姉妹が召天されたことをきっかけに、R兄弟が家族から自立して生活をしていくためのヘルパーを募集していました。私は祖母のY姉妹が亡くなられた直後に、R兄弟の父親であるM兄弟の証“現代の『エルサレム=男義』の終末―召天したM兄弟の証―”に導かれ、イエス様に与えられた職場では祝福され、評価もされること、しかし、仕事を握り、高ぶれば刈り取りが起こることなどが語られ、また、その証にあるローマ人への手紙16:1-2を通して、母親であるY執事がしてもらいたいことがあれば何事でも、助けてあげてほしいとイエス様から語られました。

ローマ人への手紙16:1-2
ケンクレヤにある教会の執事、わたしたちの姉妹フィベを、あなたがたに紹介する。どうか、聖徒たるにふさわしく、主にあって彼女を迎え、そして、彼女があなたがたにしてもらいたいことがあれば、何事でも、助けてあげてほしい。彼女は多くの人の援助者であり、またわたし自身の援助者でもあった。

 牧師が与えて下さった、「こんな夜更けにバナナかよ」の映画を通してもR兄弟の周りで働くことをイエス様から語られ、イエス様が与えて下さる仕事が最善であるという信仰で、その仕事に意志を向けました。先にもらったマタイによる福音書19:21はR兄弟の仕事への預言であったこともイエス様から牧師を通して語られました。

マタイによる福音書19:21
もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい。

 そして、このことをきっかけに、今まで就職の斡旋を依頼していたエージェントとは関係を切りました。ヘルパーの仕事については分からないところが多いため、R兄弟の家に宿泊させて頂きR兄弟の生活に触れ、Y執事や外部ヘルパーが介助する仕事をみて、自らも体験させていただくことになりました。ところが、R兄弟の家の滞在中は、肉では慣れないヘルパーの仕事をすることに抵抗があり、思いがはいらず、どこかふわふわした感覚がありました。そのため、ヘルパーの方が介助されているときには眠気が襲ってきて寝室で眠ってしまいました。R兄弟のヘルパーであれば、R兄弟に呼吸器が外れる等のもしものことがあったときにもすぐに対応できるように、眠るということは決してあってはならないことですし、私の真剣さが感じられない取組姿勢に、R兄弟やY執事には不快な思いやご迷惑をおかけし、私自身も大いに恥をかきました。大言壮語し、R兄弟の福音の働きを事業化することの話もしましたが、イエス様から言われて~と言う割に行いが伴っていないことや仕事に真剣になり切れずお客様のような感覚でいることが特に問題であったと指摘を受けました。それでも、Y執事は滞在の最後に、「もし本当にやる気があるなら、また話を聞くから」と言ってくださり、滞在中の不作法を悔い改めるとともにその思いに感謝しました。
 この浜松の滞在中、もう一つご迷惑をおかけしたことがありました。それは、神の家族であるN姉妹と結婚することが神のみこころであると姦淫の霊にいざなわれて思いこみ、N姉妹に告白した後、その告白は私の本心からのものではなかったと打ち消したことでした。N姉妹が私の結婚相手であるという示しは、私がぶどうの木に繋がって間もないときからカルト的な示しがあり、それからも何度か同じような示しがあったために私の思いにすりこまれていきました。私がぶどうの木に導かれた頃は姦淫の霊力等の様々な悪霊力に支配されていたため、それがカルトの霊力として働き、また私のカルト的な信仰(信仰の歩みが分かっていないため)が利用され、思いとして握り続けていました。そのことが、この浜松での交わりで光に出されたのでした。この浜松行の直前に、「ハナミズキ」の楽曲のフレーズ「君と好きな人が百年続きますように」を “百年続く夫婦を築く”ということだと姦淫の霊にいざなわれて思い込み、N姉妹への告白に至りました。また、今回の浜松行がたまたまN姉妹の誕生日と重なり、そこに招かれたことも神のタイミングであると思い込み、以下のみことばももらっていました。しかし、マタイによる福音書1:20は、イエス様からのものではありませんでした。

マタイによる福音書1:20
主の使いが夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。

テトスへの手紙2:11-14
すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。

 告白した日に、N姉妹と食事にいったのですが、N姉妹への思いやどういうところが好きなのかを話していく中で自分の思いが軽く、中身のないものであるように感じたものの、これはイエス様からだと思いこんでいました。N姉妹は料理などができて家庭的で、おとなしいところが良いとその際N姉妹に伝えたのですが、それはこじつけで本当は、カルト的な示しを受けたことが告白をした最大の理由でした。N姉妹からは「家庭的と言われても教会の同世代の姉妹達も家事は皆できるし、おとなしいと言われても私はそれを聞いても嬉しくはない」と言われ、「本当にイエス様から言われたの?」と話してくれました。2日後、私はN姉妹から思いに応えられないことを告げられました。
 今回のR兄弟の仕事においては、私の何事にもイエス様に従いたいという思いをイエス様が良しとされ、仕事内容や待遇面も顧みず、私の信仰からその仕事に意志を向けたことで、エージェントとの関係が切れ、これからの神のみこころにある就職への道が開かれていきました。また、N姉妹のことについては私のカルト的な思考(カルト的な信仰)が明らかになり、N姉妹への思いも偽りのものであることを知ることができました。牧師からは、私のカルト的な信仰について、クリスチャンは霊⇒魂⇒体で生き、霊から語られたことを魂で感じ、考え、行動することで、霊をためし、サタンの策略を破り、神に喜ばれ人にも受け入れられる地に足のついた歩みをすることができるのだと語られました。私は霊から語られたことをそのまま、考えもせずにイエス様が言っているからと行動にうつしたことで、まさにカルト的にサタンの策略に陥ってしまったのでした。そして、姦淫の霊が私に働いたのは、真に姦淫の霊を忌み嫌えていなかったためでした。何が神のみ旨であり、全きことであり神に喜ばれることか、人として善悪・愛を知り、神のみ旨に意志を向けて行いにうつせた時、カルトへの門は閉じられ、世の光、地の塩、神の栄光をあらわすことができるのだとイエス様から牧師を通して教えていただきました。
 イエス様は今までの就職活動や浜松での出来事を通して、クリスチャンとしての正しい歩みを教え、また、就職するにあたってどのような気持ちで臨まなければならないのかを教えて下さいました。霊魂で一致したときに自分が本気で就きたいという思いが入れられ、またその職に就くために必死で求めていく姿勢が大事であることを教えてくれたのだと思います。


 秋になり、毎年恒例の新酒を振舞う蔵開きのイベントについて、今年の開催可否や開催方法について委員会で話し合いが予定されていました。しかし、今年は、ヨハネによる福音書2:17-22を通して、家業である酒蔵のことを考えて酒造りをすることはイエス様のみこころではないことを語られたため、酒造りをする予定はなく、蔵開きのイベントにも参加しないつもりでした。

ヨハネによる福音書2:17-22
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。

 また、ぶどうの木の副牧師が幼稚園教諭を退職する際の証から、退職する際には自らの信仰を言い表す最高の機会であることを悟ることができました。証の詳細は、以下のURLに記載がありますのでそちらをご覧ください。https://ameblo.jp/whitesheep0902/entry-12616794981.html
 そこで、委員会の前に市内の3つの蔵元と市の担当者を回り、一人一人に対し、コロナ禍が起こり今年度の酒造りをしないと決めたこと、またそれによってイベントにも参加すべきではないと考えていることを伝え、イベントにおいては家業の酒蔵を除してほしいことをお願いしました。話の最後に私はクリスチャンで、聖書を通してイエス様から語られ、酒蔵を辞めることにしたことを伝え、一切の酒蔵業務から身を引くことを伝えました。これまで酒蔵経営がイエス様に従ったことで守られてきたことも伝え、イエス様に従うことが最善であるという信仰でそのように決めたことを伝えました。どこの酒蔵も今回のコロナ禍で厳しい環境下にあったことで、本来私の退職に伴う酒造りをしないこと、イベントに参加しないことについて私の立場をおもんばって理解を示して下さり、これからの酒蔵経営を辞することのきっかけになった、クリスチャンとしての発言に対しても、「そういうもの(神)があるのか」と受け入れて下さいました。わざわざ足を運んで説明をする私の誠意を快く思ってくださり、これまで労苦を共にしてきたことに対して有難うとお礼の言葉もかけてくださいました。両親は、委員の方々にイエス様という宗教的な言葉がどのような受け止め方をされるのか不安に感じていましたが、委員の方々の反応に安堵と驚きが入り混じった様子でした。“真理に従えば力がある”でそこに聖霊が働いてくださったことを思いました。そして、仕事関係者に信仰の言葉で退職を伝える事ができたことでこれからイエス様の御手の中で私の就職においてもイエス様が道を整えてくださるという確信をもちました。
 

 中断していた就職活動を再開する前に、私は退職後も大分で生活したいと神の家族に打ち明けました。イエス様から牧師達を通して、退職後は静岡を生活の拠点とすることを語られていましたが、今までの就職活動が思うようにいかなかったことで、静岡には縁がないのだと思うようになっていました。このとき、牧師は神の御心が静岡にあることを愛と忍耐をもって語って下さいました。神の御心、神のなさり方が分かっていないと。水の洗礼時に頂いていた伝道の書のみことばからも私に思い出せるように示して下さいました。高ぶりや男義によって自分の意見に執着して、牧師の言葉が入ってこない私に対して、牧師が語った、「牧師は、いりませんか」と言う言葉から、自分の肉の思いから引き戻され、イエス様が与えてくださった牧師に信頼し、吟味してイエス様からみことばを正しくもらうことができました。

ヨハネの黙示録2:4-5
しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。

ローマ人への手紙10:2-3
わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。

 ローマ人への手紙10:2-3から、大分で生活することは自分の義であったこと、神の義は静岡を生活の拠点とすることであったことを悟りました。ヨハネの黙示録2:4-5からは、牧師への反発から、ぶどうの木から受けたイエス様の愛を忘れ離れてしまおうとしたことに対して、もう一度どこからつながったのかを思い起こし、悔い改めてぶどうの木を通してイエス様のために行いと言葉をもって仕えていくことを語られ、悔い改めました。大分を握り、肉の思いに忠実になりすぎて、みことばさえも肉に従った(自分に心地よい)もらい方をし、神の家族に対してイエス様からきていないみことばをイエス様からのみことばとして報告していたことも、マタイによる福音書11:20-27のみことばを頂き、悔い改めました。

マタイによる福音書11:20-27
それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。しかし、おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。
ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落とされるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう。」
そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。

 これからの生活の拠点を静岡に置くことを決め、就職活動を始めました。就職先を探すにあたり、4月まで行った就職活動では、自分の思いが定まらなかったことで上部だけの活動になってしまっていたため、改めて自分の思いを吟味しました。私は蔵元の仕事をする中で、ほぼ毎年、製造の方法を改善することが事業者にとっては必要不可欠で、製造工程を変えるための機械の導入がどれだけ事業者にとって大きな助けとなっているのかを知り、改めて蔵元に着く前に就いていたエンジニアの職を見直し、再び就きたいと思うようになりました。また、R兄弟のヘルパーの仕事の話から転職エージェントとは縁が切れてしまっていたため、ハローワーク求人からぶどうの木の集会に通える範囲の距離にある求人をくまなく探しました。その中で、食品加工業者の要望に応えて機械を設計する求人に目が留まりました。この求人には、エンジニア職から離れて後に、酒蔵で仕事をしてきたことも益としてくださることに魅力を感じました。酒蔵の仕事を通して経験した、お客さんの生の声を聞いて仕事が行える喜びや食品加工業者の経験者として相手の立場に立った仕事ができると思い、この求人に応募することにしました。求人への応募のためにハローワークの受付にいくと、受付担当者から中高年向けの就職支援の話を紹介され、履歴書や職務経歴書をみてもらえることになりました。この話もイエス様からでした。就職支援では、静岡への移住を決めていることを履歴書に明記しておくことや、簡潔にまとめ読みやすくなるようにアドバイスをしてくださり、修正することができました。本来支援の業務にはない模擬面接までしてくださり、本番でも力を発揮できるように面接に備えることができました。
 面接前夜は、私の就職活動のやり方や就職先について否定的な見解をされることを恐れ、牧師との交わりを避けてきたことや牧師の言葉が入ってこない私の霊的状態に対し、訓戒が入り、私から牧師に電話をかけ交わりました。先に、次の生活の場所を静岡に置くことを語られた交わりにおいて、牧師に信頼することや、みことばを霊に戻って吟味することを語られる中で、今回も同様なことを繰り返してしまったことについては、これまで牧師に自身の酒蔵での歩みをしっかりと報告してこなかったことが背景にありました。神の家族(神が決めた家族)という霊的なつながりに対して理解が不十分であったことから軽視し、神の家族と遠く離れた距離にいたことも、その理由でした。神の家族からは、イエス様に従った行動がとれていないと受け取られ、そのことが牧師への裁きとなって就職においても否定的な見解をされるのではないかという思い(占い)から素直に交わりを求めることができなくなっていました。この交わりでは、神と牧師の関係や牧師と羊の関係、アブラハムの信仰について語ってくださいました。神と牧師の関係において、牧師は羊の益のための神の僕であり、決して知性で羊をみて判断しているのではないこと、肉の思いの感情から牧師に対してあれこれ思うのも違うのだと思いました。牧師に必要なことを報告することもイエス様に従った行動で、しっかり語った上で牧師を通してイエス様が何を語られるのかという姿勢でいることが必要であることを悟りました。神と牧師、牧師と羊の関係をこの交わりからよく知り、自分の行いに罪があったことを気づかされ、後日、みことばからもヤコブの手紙1:19-25をもらい悔い改めました。

ヤコブの手紙1:19-25
愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生まれつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

 アブラハムの信仰については、牧師達のこれまでの歩みを通して、先の事を思い煩わずに信仰で一歩踏み出したときに神はその心をみて祝福を与えて下さることを語ってくださいました。今回の就職もイエス様が叶えて下さることで、イエス様に明け渡した上でとった行動であればそこに神のみ旨が堅く立つことを教えて下さいました。そして、神の家族との一致が神のみ旨を理解するために大切な部分であることも交わりを通して理解しました。牧師達との交わりから、霊的に解放され、面接においてもイエス様に委ねて試験に臨むことができたこともイエス様でした。
 面接当日は、面接官4名が応対してくださり終始穏やかな雰囲気の中、私の思いを自分の言葉でしっかり伝える事ができ、面接官も言葉を選びながら仕事の説明をしてくださいました。そして、面接官の方が上に立つ権威である会社であれば私も良い関係を築きながら仕事を行えるという思いになりました。工場内や設計事務所も案内してくださり、これから設計する機械が今まで携わったことのない数千万円規模のものであることや、社内で設計から製造までを一貫して行える環境があることを知ることができました。これまで私がエンジニアとして携わった業務は、大企業で業務が細分化されていたことで携われる範囲が限定的でした。大きな機械の設計に広い範囲で携われることに魅力を感じましたし、自分のやりたいことができるという思いを抱くことができました。面接の終わりに、面接官であった会社社長から、「ぜひ、当社にきていただきたいのでお返事をお待ちしております。」と言っていただき、待遇面についてのお話しもありました。当初求人票に記載された給与幅を大きく超える額と課長待遇での登用を提示され、提示された給与額は私が現在蔵元で頂いている給与の約2倍でした。提示された待遇面のお話しは私の肉では驚きでしたが、イエス様から頂いていたみことば、マタイによる福音書19:29-30を思い出し、このみことばが成就したことを思い、イエス様に感謝しました。

マタイによる福音書19:29-30
おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。

 また、この就職試験のための大分~静岡間の道中や前泊したホテルもイエス様が備えて下さったものであることを悟りました。大分~静岡間の道中は、貯まったグリーンポイントにより往復グリーン席で乗車することができましたし、前泊したホテルもGOTOキャンペーンによりグレードアップした快適なホテルに宿泊することができました。面接後、会社から最寄り駅までの道中も、高級車で会社の方が送迎してくださいました。一つ一つのことがイエス様の計らいで、必要を備えて下さるイエス様に感謝しました。そして、そのときに見せられた車から私の車の購入に必要なことが語られていました。送迎に利用された車は会社社長が社用車として全国を営業で回るために使っていたもので、走行距離の数値から長い距離走行されていたものであることが分かりました。そして、静岡への移住に備えた車の購入の際には、良質で長く使える物が大切であることをイエス様から語られ、見せられていました。私はそのとき見せられた車について、特段大切なこととして気に留めていなかったため、母の勧めに従って大分で安価な軽自動車を購入しました。ところが、購入後まもなくして前方カメラの不具合によりシステムが正常に動作しない問題や、メンテナンスパック等の付帯サービスがなく、将来的な問題がおこったときの安心保障もない(新古車で購入し、1年点検を受けていないため、修理が有償となる)といった問題がでてきました。人の声に動かされてイエス様に聞けなくなり手頃な値段で買えることを前提に、車を選定したためでした。イエス様が与えて下さる物は完ぺきな物だとイエス様から牧師を通して教えていただき、自分の購入時の考え方に誤りがあったことを気づかされ、今後もっとイエス様に聞き従って購入をしていかなければならないと思いました。

 

箴言10:22

主の祝福は人を富ませる、主はこれになんの悲しみをも加えない。

 面接日があった夜、家の最寄り駅に迎えに来ていた父に、今回の就職面接の話を報告しました。「うぉー!」と声を上げ、驚きと喜びの入り混じった反応で、イエス様のなさり方に感動していました。父には、今まで就職活動で受けた会社について話をしてきましたが、ものづくりの職に就くことが私には最も合っていると言っていたのは父でした。当初静岡行を反対していた母も喜びを隠せない様子で、今回の静岡行を応援する側にかえられました。
 母は、脳溢血の後遺症で左半身に麻痺が残り、遠出をすることが億劫になっていましたが、今回の私の就職を機に遠出をする機会が与えられることもイエス様の計らいだと牧師から語られました。弟にも後日電話で就職のことを報告し、就職が決まったことへの安堵感と待遇面に対しての驚きが感じ取られ、どうしてそうなったのか不思議がっていました。これがイエス様からであることを弟にも分かるように福音していきます。
 イエス様からは今回の就職試験が終わった後、以下のみことばをもらいました。

ガラテヤ人への手紙3:6-9
このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。

エペソ人への手紙1:3-14
ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

詩篇21:5
あなたの助けによって彼の栄光は大きい。

 ガラテヤ人への手紙3:6-9から語られたアブラハムの信仰は、神の家族の霊的なつながりがあったからこそできたことです。神の家族の存在が如何に大切か、クリスチャンとして成長していくために必要なのかを知ることができました。羊は一人では歩めません。霊的なことを解き明かして下さる牧師と同じキリストの肢体である兄弟姉妹がいて、初めて霊的なことを理解し、自分の前に置かれたイエスキリストの道を歩むことができることを今回の就職の体験を通して感じました。イエス様が与えて下さったぶどうの木の羊として一つ思いとなってしっかり繋がり、訓練を受けながら静岡で新しい生活をしていきます。そして、水の洗礼式に頂いた伝道の書4:9-12のみことば“三つよりの綱はたやすくは切れない”は、静岡で神の家族とともに聖書を学ぶ恵みに預かることができることが示されていたことがわかり、このみことばの成就について思いました。水の洗礼式で頂いたみことばが秩序正しく成就していったことに、神のみことばに力があり、それに従って意志を向けたときに現実のものとなることを理解しました。 
 また、今回の就職の道が開かれたのも、家業の酒蔵があったからこそであることも思い、今まで酒蔵を守ってきた両親に対しても心から感謝することができました。私は酒蔵で仕事をする前、大企業のエンジニアとして働いていましたが、ニッチな仕事(隙間的な仕事)でやりがいを見いだせずにいました。キリスト教会にもつながっていましたが、信仰の歩みが何一つ分からず次第に霊性が汚れていき身体にも刈り取り(不調)がおこっていきました。そうした中で、家族が営む酒蔵で働くことにやりがいを見出し、家業を継ぐことにしたのでした。酒蔵の仕事をしている間に、ぶどうの木とつながり信仰の歩みを知ることができましたし、身体の刈り取りによる精神障害の病も霊→魂→体から癒されていき、長期に渡る歯の治療も完了に近づくことができました。身体が整えられて次の就職先も考えられるようになり、就職先の選択も、ずっとエンジニアを続けていれば得られなかった食品機械の分野で働けるようになりました。置かれたところでイエス様に従って歩んだとき、自分では計り知れない方法でイエス様は祝福してくださることを思いました。酒蔵でも霊的なことが私の退職前にあり、酒造りのための蔵水(酒にとって水は命)を利用し続けていくことが難しくなり市水に変更したところ、今までに比べ水道代が数分の一から十分の一程度になったこともイエス様の恵みとして感謝しました。そして、長い間、酒造りのために利用してきた蔵水を市水に変更したことで、今後酒造りをしないことが神の御旨であることを悟りました。今は、今年度酒造りをしなかったことでお酒の注文は激減したことを耳にしていますが、人件費や業務で使用する光熱費が減り、先に述べたコロナ禍による助成金以外にも、コロナ禍により損害を受けた事業者に与えられる助成金により、多く働かずとも今までにないほど私の抜けた穴にお金が与えられていっているということを聞きました。こうしたことも私だけではなく、残された両親にもイエス様の恵みが注がれていっていることにイエス様のなさり方を感じました。
 “信仰”、“キリスト教”と言えば異邦人の方は「宗教」をしているという先入観をもちがちですが、聖書の学びは人のありかたを教え、自分の人生にも意味を見出すことができ、神がおられ、人間を創った神に従うことが最善であることを体験・体得できることに喜びを感じる毎日です。一人でも多くの方がこの証を通して、「真理」を知ることができれば幸いです。そして、この証が、生きている神の栄光となったことを感謝して、全ての栄光を神に帰します。