「信仰」が証を生む | ぶどうの木 Good News

「信仰」が証を生む

holygirlですニコニコ
 
神は愛であり、情け深く、恵み深く、あわれみ深いです。そして、ねたむ神です。自分を一番に愛せよとおっしゃる神です。
しかし、日本人はいろいろな神をまつり、お守りやパワーストーンを持っています。自分の健康も守れずに亡くなった人に、家族の健康を祈っています。仏壇の前で、昨日まで痴ほう症だった人、嫌いだった故人に、自分の心の内を話しています。見たこともない先祖に向かって願い事をしています。人間がつくった神や物、または同じ人間を拝み、自分をつくった神との関係がないまま生きてくる中で、心身にたくさんの悪影響を及ぼしてきました。
 
申命記5:7~10本

あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない。

あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どのような形をも造ってはならない。それを拝んではならない。またそれに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には恵みを施して千代に至るであろう。

 

アーメン宝石紫

クリスチャンとは、自分をつくった神との関係を修復し、神を愛し、神に仕えることを第一にして生きる人のことを言います。クリスチャンには、愛の神、ねたむ神を信じて仰ぎ見る「信仰」があります。神は信仰がある人の祈りを叶えて下さいます。自身を信じ、従う心があるか、死ぬまで見られます。先週の集会でY姉妹とK姉妹が教材になってくれたように、神を信じていると言いながら、神以外に心を向けるなら、神はどう思うでしょうか?神にも人格があります。他の神々や物事に心が向けば「ねたむ」神です。必死に「お願いします!助けてください!」と祈っているのに、神とした約束を破ってこの世の事に心を奪われるならば、神はどう思うでしょうか?信用ならない僕になりませんか?神は二心者を守られるでしょうか?二心者は、自ら神の守りからとびだしてしまうのです。自らサタンに門を開くのです。
日常生活を送る中で、または、安息日に用事ができた時に、クリスチャンとしてどうするのか、神はいつも心を見ておられるのだと改めて語られました。
 
また、「いつも喜んでいなさい」とおっしゃる神と契約しているのに、なぜいつも憂鬱な顔をしているのでしょう。なぜ、「喜べない!」と否定したり、不信仰な言葉を出しているのでしょう。
職場の上司の言うことには、どんなに忙しくても忠実に従うのに、なぜ神が言うこと=みことばには怠惰になって行なわないのでしょう・・・そのような不誠実な心、畏れがない態度も、神は全てお見通しです。
逆に、人との約束を守れない人間に、神との約束を守ることはできないとも語られました。
 
絶対的に裏切れない神との関係ができると、神に仕えるように隣人に仕えることができます。神が見ておられると思ったら、隣人に対しての言動や表情にも気を付けます。隣人がどう思うか、隣人の歓心を買うことを先に考えたら、神との約束・神との関係を忘れます。まず神を見たら、隣人のことは神がかえりみてくださいます。隣人も神の作品だからです。
 
ヘブル11:1本
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
 
ヘブル11:6本
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
 
アーメンゆめみる宝石
今週の集会で、私たちはまず自分自身の信仰が確固たるものになっているのか再確認しました。見えない神を偶像化して拝む宗教をするのではなく、常に神・イエス様は自分の内におられ、心の中で思っていることは全てお見通しであることを忘れてはなりません。一人でいる時も、隣人といる時も、まず神を愛する気持ちでみことばに従って過ごさなければならないと語られました。
そして、終わりの日には、真の神との関係を知り、「信仰」を持っている人たち(聖書の数字で言うと、14万4千人)が福音をし、証をし、サタンの囚われ人を解放し、救っていくのだと、私たちは語られています。
 
ヨハネの黙示録12:11本
兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
 
アーメン宝石緑
感謝な事に、ぶどうの木には、『真実の愛に救われて』と、『真実の愛に救われて~我が子と共に生まれ変わった母親の証~』という2つの証がこのタイミングで誕生しましたぶどう霊の世界において、証はサタンに打ち勝つ最強の武器です炎
この証が出産に至るまでの姉妹たちの肉の苦しみ、葛藤は凄まじいものでした―が、それだけサタンがこの世に出してほしくない証、嫌がる証だと分かっていたので、牧師はじめ、神の家族も共に戦い、完成を祈ってきました。先週から続けてブログにアップしたことで、たくさんの方々に読まれ、完全に姉妹達を捕らえてきた悪霊どもを足の下にし、サタンの策略を全世界に知らせることができたことを感謝します!
 
『真実の愛に救われて~我が子と共に生まれ変わった母親の証~』(前回のブログ)を、集会中に皆で読み、‘母親’の立場にある姉妹たちはもちろん、キリストの肢体である兄弟姉妹それぞれの立場によって必要の一切が語られ、今の時代の子育て、教育について考え、親との関係を振り返りました。今‘親’となっている人にも、自分を育てた‘親’がいるわけですから、三代四代の家系の中で、どんな教育を受けてきたのかが今の子育てに影響を与えていることも再確認しました。
姉妹の証は、“支配と依存”の関係の中で、愛情による子育てが刈り取ってきたものを分かりやすく教えてくれています。この世の賞賛を求めて教育し、我が子が自分が決めたレールの上を着実に歩いていることを自負していても、ある日精神崩壊してしまっては、自分の力ではどうする事もできず、この世で得てきた賞や身に付けてきたものは、何の役にも立ちません。
 
人間にとって、子育てにとって大事なことは何か・・・証を書いた姉妹(母親)が、聖書を学び、肉を打ち叩いてみことばを行うことによって、『子どもの価値は、学校の成績やスポーツの結果などでは決まりません。大事なのは心の喜び=生きる力です。生きる力が、いずれ世界にひとつだけの大輪を咲かせるのだと聖書は教えてくれました。 (中略) 母として、人としてどう子どもに接するのが正解なのか、正しい子育ては聖書が教えてくれます。母親にとっては究極の育児本であり、人としての正しい生き方を教えてくれました。宗教ではありませんでした。イエス様という指針が示されたことで、私はずいぶん身軽になりました。自分の頭で思い悩む必要はもうありません。答えはすべて、聖書の中です』と断言できるまでに変えられたことは、本当に素晴らしい神の力、真理に従った力であると思いましたキラキラ
そして、そこに至るまでに、我が子から裁かれ、責められ、謝罪を何度も要求され、最後は「土下座」までしたという事も、本当に究極に肉を打ち叩く試練であったと思います。自分のプライドを持ったままでは、本物のクリスチャンにはなれません。初めは、精神崩壊した娘のために集会に同席していた姉妹(母親)の内に、神との一対一の関係=信仰が生まれていたからこそ、プライドを捨て、主に信頼してみことばに従うことによって、この試練を乗り越えることができたのです王冠2
 
証を読み終わったあと、牧師は
「『お母さんは聖書を学んで、今までの子育ては間違ってきたことを心底反省し、悔いてるの。お母さんは変わりたいと思ってる。ここからは、あなたに関心をもってちゃんと向き合っていきたいと思ってる。今まで無関心でごめんね。』と、真剣に子どもと向き合って伝える場面を通ってきましたか?そのような場面なくして、いきなり『聖書にはね』と話し始めたら、子どもは、宗教臭いことを言い始めたと嫌悪するだけです。母親が真理を学び始め、子どもへの言葉かけが聖書に基いたものになり、悪いものは悪い!と指摘し始めると、子どもから「何今さら?今までそんな事言わなかったじゃん!自分だってできてないのに言わないで!」と反発されたという話をよく聞いてきましたが、突然言う事が変われば、子どもは戸惑います。今まで無関心で、自分に注意することもなく、自由にさせてきた親が、「それは違う!」と言い始めたら、反発されるのは当然です。
真剣に向き合えば、姉妹のように、子どもの爆発した思いを、魂と体でしっかりと受け止めた上で謝罪をしなければならない状況になることもあるでしょう。その時に、姉妹が証に書いてあるように、【私のことを全てご存知の神が、終わりの見えない今の苦悩を『しばらくの軽い患難』と言われ、その先に祝福を約束して下さっていることは何よりものグッドニュースでした。娘に何と言われようが、どんな誤解を受けていようが、イエス様がいつかこの思いを光に出して下さると信じ、言葉を慎むことに意志を向けました。】と、イエス様だけを仰ぎ見る信仰があれば、助け主聖霊が働き、子どもとの関係の修復は早いのです。
今まで、子どもが嘘をついている事が分かっていても、遠慮して聞けなかったリ、叱っていても後から機嫌をとるような言葉をかけてきませんでしたか?母親が、もちろん父親もそうですが、しっかり家庭の中で太陽となって子どもに道を示してあげなければ、子どもは根が張らずにフワフワした人生を送ることになります。ダメな事はダメと教え、自分に非があったのなら素直に認め謝ること。それが、聖書のみことばによって変えられたらできるのです!」
とおっしゃいました。
 
ぶどうの木の集会は、別名「家族の在り方講座」として約13年前に始まりました。そこから、皆が聖書によって親子間、家族間の問題を解決してきました。どの家庭にも問題はあります。その人だけにしか分からない苦しみがあります。しかし、神は全てご存知です。その神に祈り求め、神を裏切ることなく忠実にみことばに従ってきた羊には、目に見えるかたちで良い実が成ってきました。それが証ですダイヤモンド逆に、「私はやっています!」と牧師に主張しても、実が成っていないのであれば、神の御前では良しとされません。霊の監督者である牧師は、意志を向けて実を成らせる過程を歩んでいる羊に対しては祈り見守りますが、羊が独り善がりになっていて見えていない部分があるなら指摘し、良い実を結べるように訓戒し、知恵の言葉を与えてきて下さいました。全てはその羊の益のためです羊キラキラ
 
ルカ6:43~44本
悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。木はそれぞれ、その実でわかる。
 
エレミヤ31:3bc本
わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。
 
アーメン宝石赤
牧師も人間、肉がある人間ですが、霊の世界の監督者として、限りなく愛するキリストイエス様の故に、絶えず羊に真実をつくします。究極は、この世の神サタン対聖霊の戦いの中で、一人の魂が完全に救われて、全てのみことばにアーメンし、意思をみことばを行う意志に変え、悔い改めて、絶対にサタンのために作られた地獄には行かせないための働きです!
どんなにサタンが攻撃してこようとも、この牧師の姿勢によって、証を書いた姉妹たちはじめ、ぶどうの木の羊たちが、生きる力を得て今があり、信仰をもってイエス様と共に歩めていることに感謝しますハート
 
今週の集会では、神との関係を知るために、いのちのことば社が出版している「たいせつなきみ」という絵本も紹介しましたひらめき電球神が私たちをどう思っておられるのか、その愛がよく分かる絵本ですハート救われた当時、この絵本に出会ったS姉妹の証がありますので、最後に紹介しますニコニコ
 

私は、主人の仕事の関係で、生まれ育った島根県からここ静岡県浜松市に越してきました。長男が2歳、次男が4ヵ月の時でした。不慣れな環境の中で二人の息子を育てなければならず、当時の私は日常生活の中で大きなストレスを抱えていました。子供たちはアトピー性皮膚炎を患っており、特に長男の症状は浜松に来てから一気に悪化しました。夜中にかゆみで目を覚ましては、出血するまで体をかき続け寝不足になることもしばしばありました。アトピーのかゆみは、本当に苦しいものです。「かくな」と言われても本人の意思で我慢できるほど軽いものではありません。長男もそうでした。一旦かきだすと止まりません。かゆみでイライラが増して、もっとかき続けます。せっかく再生したばかりの薄い皮膚をかき破っては出血する・・・の繰り返しでした。夏には汗をかき、それが刺激となって激しいかゆみを誘発し、皮膚がぼろぼろになるまでかきつづけました。
当時通っていた幼稚園では、長男だけは夏だというのに、一人かきむしり防止用の手袋をして活動していました。活動の途中でかゆくなり、イライラしだしてみんなと一緒に活動できなかった運動会での種目もありました。親として、そのような状態を見ているのはとてもつらいものでした。何かの行事で幼稚園に行った時など、遠くからでも長男が体をかいている様子が目に入れば気が気ではありません。「今日はかいてない」「今日はまたかいてる!」と、いつもいつもそんなことでほっとしたり、落ち込んだり、イライラしたりしていました。また、当時は卵の食事制限もあったため、食事やおやつにも気を使いました。特に、友達との遊びの中でみんなとは同じように何でも自由に食べれない、という制約からくる思い煩いが子育て中の私に重くのしかかりました。みんながおいしそうに食べているおやつを自分だけが食べずに我慢することは幼稚園児の長男にとって難しいことです。まだ幼かった次男を片手で抱えながらぐずる長男をどうにかして家まで連れて帰る、家にたどり着けば心身共にどっと疲れ果てていました。また、私はそのことで自分の家の都合に合わせるために周りの親子に気を遣ってもらうのは申し訳ないと思っていたので、結果として自分だけで思い悩み、悶々とした日々が続きました。

主人の実家の姑との関係も悪く、電話の度にお金の支援を頼まれることに嫌気がさしていて、声も聞きたくないと思った私は、できるだけ姑とのやり取りは主人に任せていました。引っ越しした際の住所などの連絡先も当然主人が伝えているものだと思っていたある日、私の携帯電話に姑から電話があり、引っ越した後、私が何も連絡しなかったことについてひどく叱られ、実家の両親に対しても、社会的地位のある息子の嫁として失格だと言われました。今なら、姑から言われたことも分かります。私が浜松での新生活に対して一生懸命慣れようとしているのと同じく、主人もまた、新しい職場で必死に仕事に取り組んでいたのですから、本来ならどんな理由があっても、嫁の私が姑に連絡をすることが当然の道理でした。しかし、当時の私は実家の両親にまでひどいことを言った姑が許せず、今後絶対に関わり合いたくないと憎み、その思いから主人に対しても事あるごとに不満をぶつけては喧嘩になっていました。
私はどうして浜松に来たんだろう、こんなに苦しい毎日で私の人生は一体何だろう。私は浜松になんか来たくなかった、島根に帰りたい。こんなつもりで結婚したんじゃない。こんな生活がいつまで続くんだろう・・・と考え出すと、何もかもが絶望に思えて嫌になっていました。そんな心に余裕のない生活の中で、いら立ちを抑えられなかった私は、長男に対し手を上げることが多くなっていきました。自分自身も自分の子供をたたいたりしたくないのに手が出てしまい、気が付けば長男が鼻血を出すほどたたいてしまっていました。そして、虐待してしまったという思いから自分自身を責め苦しむ日々が続いていました。カウンセリングを受けたこともありましたが、私の思いが解放されることはありませんでした。  

 
2年ぐらいそんな生活が続き、次男も幼稚園に入園しました。その時の担任をして下さったのが、後にぶどうの木の副牧師となられる方でした。先生は、どんなに次男が幼稚園の活動で手がかかっても、ふざけて和を乱すような行動をとっても、絶対に次男に対しての批判的な言葉を言わない方でした。そんなにいい子でいるはずはないと、会うたびに何度も「本当に大丈夫でしょうか?」と聞いても、必ず「大丈夫、いい子です」と言い続けて下さった事が、一番印象に残っている先生の姿でした。1年間担任をしていただきましたが、2月に行われた最後のクラス懇談会の日に、先生から「実は私はクリスチャンです。私は神様が“もうこの仕事は辞めて次の所に行きなさい”と言われたので今年度いっぱいで幼稚園を辞めます」とお話がありました。私は人生で初めてこのような理由で仕事を辞める人を見ました。しかし、1年間私たち父兄に対して“クリスチャン”や、“神様”という言葉を言われなかった先生が、最後の日に、初めて父兄を前にして話された先生自身のことに、先生の強い覚悟のようなものを感じ、私はただ、そのままを「そうなんですね」と受け止めるほかありませんでした。
個人的に、辞めた後はどうするのかを聞くと「まだ決まっていない」と言われたので、それなのにどうして?と驚き、先生はまだ若く、非常にしっかりした先生だという父兄内での評判も聞いていたので、もったいないと思い、その退職はキャンセルできないものかと一度、先生に聞いたことを覚えています。しかし、幼稚園に残ることはないという答えは一貫していました。
 
6月のある日、先生から、新しい職場“クリスチャン書店・大空”で店長をしているという案内のはがきが届きました。次男に伝えると、会いに行きたい!というので、私は長男(当時1年生)と次男(当時年中)を連れて、友人の親子と一緒に大空に先生に会いに行くことにしました。
2007年6月16日、 大空書店に着くと先生が迎えて下さいました。先生は、幼稚園時代よりもおしゃれをして、活き活きとしていました。店内の奥の部屋には先生のお母さんがおられました。私たちが店内で話している時に、長男が先生のお母さんの所に行き、膝の上に座りました。ちょうどその時に、アトピーの症状のかゆみが手に現れ長男が手をかきだしました。先生のお母さんが、長男を膝の上にのせたまま何やら長男と話している姿が見えました。
後から聞いたのですが、その時、長男はイエス様を受け入れて救われ、アトピーの癒しを祈ってもらっていたのでした。この、長男に癒しの祈りをしてくださった、先生のお母さんが、後にぶどうの木の牧師となられる方でした。
私たちは、店内の奥の部屋でお茶をいただきながら話をすることになりました。それが、“聖霊”の働きであると、今でははっきり分かるのですが、どうしてか、とても不思議なことに、私は先生と、初対面である先生のお母さんに対して、子育てで悩んでいること、自分が長男を虐待して苦しかったことや、浜松に来てとてもつらい思いや、そこから私の人生は一体何なのかと悶々とした気持ちでいるということを話しました。
すると、先生のお母さんは、「あなたが長男を虐待したのではない、この世には、サタンというものがいて、それがあなたにそうさせたのだ」という事を話してくださいました。そして、長男には「お母さんがあなたをたたいたのではなくて、サタンがお母さんに入ってそうさせたのだから、お母さんのこと、許そうね」と話してくださり、長男もうなずき、「お母さんを許します」と言いました。その後、イエス様を信じ、受け入れることによって、アトピーなどの病気も癒されるのだとも教えていただきました。
私は、それまでの人生の中でクリスチャンという人に出会った記憶も、聖書を読んだことも全くありませんでした。そんな中で初めて聞いた“サタン”という言葉を、目からうろこが落ちる思いで受け止めました。「そんなのいるわけない」とか、「うさんくさい」とかいった疑う思いは一切なく、ただ、心から、自分の内側に抱えていた重い苦しみが解放されていくのが分かりました。また、先生のお母さんを通して、初めて聖書の中からみことばをいただきました。

 
箴言19:21「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、御旨だけが堅く立つ。」

このみことばは、私にとって絶対に忘れられない大切なみことばです。なぜなら、この短い一文で“すべて”が分かってしまったからです。
私のこれまで生きてきた人生の喜びも、辛苦も、すべて神の御手の中にあったこと。それらのすべてが、今日という日につながるための大切な出来事だったこと。どんなに、こんなはずじゃなかった!と自分の置かれている状況に不満があろうと、聖書に出会うこの瞬間のために、私は強い力で導かれこの浜松に来たのだということ。私がイエス様を知らずに生きていた間も、イエス様はずっと私の人生を導いて下さっていたのだ、と感動の中で次から次へと語られました。私は、自分という一人の人間に注いでくださっているイエス様の大きな愛に触れ、イエス・キリストこそ真の神であることを信じ、救われました。そして、「聖書には何が書かれているのだろう、もっと聖書を読んでみたい、イエス様の事を知りたい」と強く思うようになりました。また、聖書は人間が生きていく上でのすべての問題の解決方法(解答)が書かれてあるという事も教えていただきました。私は、この聖書を指針としてこれから浜松で子育てをしていく決心をしました。
帰り道、一緒に大空に行っていた友人が、「何年も、長男の事を見てきたけど、長男が先生のお母さんの膝に座ったのは驚いたね。長男って、あんなに人懐っこいタイプじゃなかったよね」と言ってきました。私も、長男が初対面の人の膝にいきなり座っていたことには驚きました。本当に、引き寄せられるように一人で奥の部屋に入って行き、先生のお母さんの膝に座っていたのですから。
私は、クリスチャンになったことがとてもうれしくて、主人にその日教えてもらったこと、これから聖書を学んでいきたいと思っていることを話しました。すると、主人からは、「信仰は個人の自由だからいいと思うけど、それを信じたからといって、子どもたちのアトピーが治ると考えることはしないように。」という答えが返ってきました。主人は、医師として働いており、私もかつて看護師として医療に携わっていたので、“信仰で人間の体が癒されるなどという奇跡は、あり得ない”と主人が思うのも無理はないとその時は思っていました。(後に主人も救われ、子どもたちのアトピーは癒されました。) 

その日の夜、私は大空書店でいただいた、一冊の絵本「たいせつなきみ」を読みました。
その絵本の中に登場してくる主人公の男の子は、何をやってもダメな事ばかりで、そのしるしにダメシールを周りからたくさん貼られてしまいます。とうとうその男の子は誰とも会いたくないと思うようになります。みんなに自分がどう評価されるかが、怖くなったのです。しかし、ある日、その男の子は自分の造り主である神様に出会います。神様は男の子がどんなにその子なりに頑張ってみたのか、それでもダメシールを貼られて落ち込んで、周りの目を気にしたり、自分を卑下して苦しんでいるのかを、すべてご存じでした。そして、神様は男の子に、語られました。「君が私に会いに来るのを、ずっと待っていたよ。ずいぶんダメシールを貼られたんだね。君のことを、評価しているのは一体誰だい?君と同じ人間ではないか。君が人間の評価を気にするから、ダメシールが君にくっついてしまうんだ。君は誰からも良いとか悪いとか、評価される必要はないんだ。そんなことは気にしなくてもいいんだよ。君にとって大切なことは、人間を造った、私の存在を知ること。君を造った私が、君のことをどう思うかが一番大切で、君が目を向けなければならないことだよ。そして、私は、君をとても愛している。私は、絶対に間違えることはない。君という人間を、完璧に造った。」
 私は、この絵本を読んで、涙が止まりませんでした。まるで自分が主人公の男の子であったように思えたからです。慣れない環境での不安な生活の中、私は、人にこんなことをしたら、言ったら嫌われるのではないか、迷惑なのではないか、知らない土地で嫌われてしまったら、どうやって子育てしていけばいいのかと、“人がどう思うか”について気になり、いつも気持ちが張りつめた状態でした。ですから、どんな小さな自分の言動も、子供たちの言動も、異常に気にしては圧迫され、また気にしては落ち込み、イライラを家族にぶつける・・・の繰り返しでした。しかし「私が気にして生きてきたことなんて、なんてちっぽけで、取るに足らない事だったんだろう!」という事に気づきました。そして、私は人からどう思われるかを気にしながら生きる人生より、私のすべてをご存じでいてくださるイエス様がどう思ってくださるか、という事に心を向けて生きる人生を選びたいと思いました。新しい、人生が始まった一日でした。 

 それから私は、平日は子どもたちを連れ大空書店へ、聖書の話を聞きに行きました。長男は大空書店に行くたびに「先生のお母さんはいる?」と言って真っ先に書店に駆け込んでいきました。本当に何も知らなかったので、自分はクリスチャンになったけれど、世間でいうプロテスタントなのか、カトリックなのかということさえもよく分からず、また「証って、どういう事ですか?」という、今では笑ってしまうような質問などもしていました。“証”とは、イエス様が何をしてくださったのか、どのようにして自分にあらわれてくださったのかということ、神が生きて共におられることを証明する事(話)だと教えていただきました。そして、夏休みに甥や姪を連れてディズニーランドに行く予定を立てた際に、私たちの希望する条件のホテルが一室だけ空いていてスムーズにそこに予約でき、今からとても楽しみにしているという話をすると、それも“証”だと教えていただきました。証には、大きいも小さいもない、イエス様を受け入れて生きていく人生は、その生活にたくさんの“証”がちりばめられていることが分かりました。