透明な意識の中で

透明な意識の中で

目の前にあることをただ観察し、生きる。
思い込みを外して見えてくることとは。
そんな意識で生きる日常を綴ります。

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こんばんは。

 

 

3次元世界を生きていると

 

たくさんの感情を味わいますよね。

 

 

喜び、怒り、悲しみ。

 

興奮、落胆、絶望、至福。

 

 

 

たくさんの感情があって

 

 

たくさんの状況があって

 

 

たくさんの人との関わりがある。

 

 

 

もうそうなると

 

 

自分の感情なのか

 

人の思惑なのか

 

大きな全体の空気感なのか

 

 

区別もつかなくなってくることが

 

あるんじゃないでしょうか。

 

 

 

複雑な状況、人間関係、そして

 

それぞれの感情。

 

 

 

でも、たくさんのことを学んで

 

納得させて内に入れてきた身としては

 

シンプルに分類できる。

 

 

 

(分類する必要があるかどうかは

 

また別の問題として。)

 

 

 

それは。

 

 

 

「愛」が動機なのか

 

 

「恐れ」が動機なのか。

 

 

 

それで見ればいいんだと思う。

 

 

 

究極誰が何を思おうと

 

何をしようと自由なのですが

 

 

自分と身近な人との関わりを

 

望むものにしたいのであれば

 

 

 

愛を動機に動けばいい。

 

 

 

恐れを動機に動くと

 

恐れがまたやってくる。

 

 

 

その仕組みを理解すれば

 

自分が「何か動きたい!」と思った時に

 

その動機を見に行くことができる。

 

 

 

愛を動機にすれば

 

愛があなたに戻ってくる。

 

 

自分の「思考」の存在に気づき

 

『思考っていうのは

 

常に恐れたり分離感を感じるんだよな』

 

と分かっていれば

 

自分の「意識」と

 

割とクセのある「思考」を

 

切り分けて

 

 

 

行動の動機を

 

思考による「恐れ」ではなく

 

心が求める「愛」

 

に持っていくことができたりする。

 

 

 

そうやって

 

思考の成り立ちやクセを知ることで

 

自分自身を客観視してみると

 

ちゃんと心に従って「愛」を

 

選ぶこともできる。

 

こんばんは。

 

 

家族の言動を見ていると

 

「恐れ」

 

を常に抱いていて

 

 

 

行動の動機が

 

「恐れ」

 

であることがとても多いな、

 

と感じます。

 

 

 

 

何も私の家族が特別なわけではなく

 

 

今の社会に生きていて

 

 

情報によって刷り込まれたり

 

 

幼少期の体験から

 

 

身を持って学んだこととか

 

 

そうした影響で

 

 

恐れを動機に行動することは

 

 

むしろ当たり前なのかもしれません。

 

 

 

 

行動することによって

 

 

恐れていた結果を回避できた。

 

 

そうしたかりそめの「安心」をいつも求めて

 

 

生きている人は多いのかもしれません。

 

 

 

 

思考を持って生きている以上、

 

 

恐れを感じるのは当たり前です。

 

 

 

 

でも、恐れを回避するために

 

動いて動いて

 

動き続けて

 

あなたの心は本当に安心するのでしょうか。

 

 

 

「多分

 

何が起きても

 

きっと大丈夫。」

 

 

そうどこかで開き直って

 

 

手を離してみてもいいのかもしれません。

 

 

 

案外、大丈夫だったりする。

 

 

 

例えば

 

明日急に死んだとして

 

後悔しない生き方を

 

「今、今、今」できているか。

 

 

 

先が不安だったり

 

怖くて進めない時は

 

そうやって

 

何も持たない自分を

 

想像してみるといい。

 

 

 

今、小さいことでも

 

不安のない

 

後悔ない選択を

 

毎瞬

 

ちゃんとできているのか。

 

 

 

人との関わり方もそう。

 

自分の小さな望みを叶える時もそう。

 

 

そうやって

 

自分の人生を大切に生きているか。

 

 

改めて問うてみてもいいのかな。

 

 

なんて思いました。

 

 

 

 

こんばんは。

 

 

年末年始、目の前のことに忙しかったり

 

 

休憩したりしているうちに

 

 

いつの間にかもう10日も過ぎている。

 

 

 

まぁ、なんでもいいか。

 

 

人に合わせて焦らなくていいか。

 

 

 

というわけで。

 

 

 

 

2023年もマイペースを守る、

 

 

というルールだけ守ってやっていきます。

 

 

 

 

自分の心がどう感じているか。

 

 

って、見てますか?

 

 

 

意外と意識しないと見てないもの。

 

 

損得や、利益不利益。

 

 

一般的な基準に照らし合わせてずれてないか。

 

 

 

 

そんなことばっかり先にどんどん出てくるから

 

 

わからなくなるみたいです。

 

 

 

 

私は元々そうした3次元世界のルールに順応していないようで

 

 

世間の"当たり前"に疑問を持ってしまう方だから。

 

 

 

だからこそ気づけたことってあるようです。

 

 

 

まぁ一般的にはそれが正解と言われているとはいえ。

 

 

自分は「本当は」どう感じるの?

 

 

って聞くんです。

 

 

 

自分が感じることが自分にとっての選ぶべきことですから。

 

 

どうして外側に正解を求めるのか。

 

 

 

だってそれって自分の内側の納得感がないから

 

 

フワフワして根拠がなくないですか。

 

 

 

私が納得している。

 

 

私がそうだと思う。

 

 

それ以上に信頼できる答えはない。

 

 

 

それがしっくりくるんです。

 

 

 

 

私の中にいつでも答えがある。

 

 

 

 

だって私が世界を作っていて

 

 

そんな私の目を通して世界を見ているのだから。

私たちは生きていく中で

 

 

周りの人のことが気になったり

 

 

社会的立場、"普通"であるための価値観

 

 

そういうものが気になって当然だ。

 

 

 

 

 

私はHSPなので

 

 

特に"こう思われたくて"

 

 

とかでなくても

 

 

人の感情や意識が流れ込んでくる。

 

 

 

 

 

 

ちょっとした空気の変化

 

 

感情の揺れ動きを察知してしまう。

 

 

 

 

 

だから私は

 

 

"世界は自分が創っている"

 

 

という説を信頼して生きることにした。

 

 

 

 

自分の内面次第で

 

 

世界を変えることができるのだ。

 

 

 

 

そうでなければ

 

 

いつまでも怯えて

 

 

他人の顔色を伺って生きていくことになる。

 

 

 

 

 

私自身がこの世界を作っているなら

 

 

そして

 

 

私が他人の感情に敏感であるなら

 

 

きっと私には

 

 

気づきのポイントが人よりたくさんある、

 

 

ということだ。

 

 

 

 

周りの感情を察知しながらも

 

 

私はどう在りたい?

 

 

私はどんな現実を目の前に見たい?

 

 

どんな気持ちを味わって生きたい?

 

 

と繰り返し問う。

 

 

 

 

自分の内面にいつも目を向ける。

 

 

自分以外の人のことは

 

 

自分の望みを知るためのデータだと捉える。

 

 

 

 

 

起こる全ては気づきのため。

 

 

 

 

 

どんな時も

 

 

自分自身が感じることを信頼して生きる。

 

 

 

自分を責めない。

 

 

 

自分を大切に想う。

 

 

 

 

この世界で

 

 

辛いことも含めて

 

 

たくさんの体験をすると覚悟してくれて

 

 

ありがとうと。

 

 

 

 

いわば神様の視点で

 

 

自分に感謝して生きる。

 

 

 

周りの人にも

 

 

気づきを助けてくれてありがとうと。

 

 

嫌な役もしてくれてありがとうと。

 

 

 

神様視点で感謝して生きる。

 

 

 

 

徹底して

 

 

できるだけ毎瞬

 

 

自分の感情と

 

 

感じたいものにフォーカスする。

 

 

 

こんにちは。

 

 

この記事は、前の記事の続きになりそうです。

 

 

 

 

長男が不登校になって

 

 

 

今まで考えなかったようなことや

 

 

 

出会わなかった人たちや

 

 

 

サポートする仕組みを知り、

 

 

 

たくさんの新しい経験をしています。

 

 

 

 

 

長男は、

 

 

 

とても繊細で

 

 

 

不器用で

 

 

 

自己肯定感が今のところ低く

 

 

 

0・100思考。

 

 

 

 

 

 

中学に上がって

 

 

 

心が大きく揺れ動いたり

 

 

 

先生からの強い叱責や

 

 

 

他人と比べることが多くなる状況で

 

 

 

苦しくなってしまったようです。

 

 

 

 

 

周りの身内は

 

 

なんでだろうね?

 

 

とか

 

 

早く学校に行けるといいな

 

 

とか

 

 

言ってくるのですが

 

 

 

 

 

長男の内面の状態・世界の認識の仕方が

 

 

 

変わらない状態で、

 

 

 

"学校に行く"という状況だけが戻っても

 

 

 

意味がないなと個人的には思っていて。

 

 

 

 

 

それは、ただ"私が"、"周りが"、

 

 

 

安心したいだけだ。

 

 

 

 

 

たくさんのつまづきやすい気質を持って

 

 

 

この世に降りてきた長男は

 

 

 

チャレンジャーだなって思うんです。

 

 

 

すごいなぁと。

 

 

 

 

これだけの気質をくっつけて

 

 

 

こんな苦しい思いを経験する!

 

 

 

そこから気づき、学ぶ!

 

 

 

と決めてきたわけですから。

 

 

 

 

 

 

この世的には

 

 

うまくやりこなして

 

 

何も問題なく学校にも行ける方が良い、

 

 

という共通認識が

 

 

どこかであるかとは思いますが

 

 

(夫がそういう考え方なので今回とても戸惑っているみたいです)

 

 

 

 

私はそうは思わないです。

 

 

 

 

 

学校に問題なく行ける人は

 

 

 

そこに人生の課題を設定しなかったからで

 

 

 

別の経験によって気づきや学びを得る、

 

 

 

と、きっと決めている。

 

 

 

 

 

 

夫も、自分が学生時代に

 

 

 

経験しなかった"不登校"を

 

 

 

今、子どもを通して経験しているわけです。

 

 

 

 

 

たくさんの新しく知ることや

 

 

 

気づきにあふれていることだろうと思います。

 

 

 

 

 

 

人生で起こること、

 

 

 

家族と共に起こることは

 

 

 

自分がその体験をする、と決めてきたこと。

 

 

 

 

いつもどんな経験も

 

 

 

事象をこの世視点の価値観で見るのではなく

 

 

 

そこに自分自身がどんな意味づけをしていたか

 

 

 

新たに気づいたこと、知ったこと

 

 

 

経験できたことに意味を見出す。

 

 

 

 

それに尽きるかなと思っています。