【伊達天文記】第46回 懸田俊宗の苦悩 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

この時代、幕府は大名より依頼を受けて

朝廷へ官位推挙を行い、その報酬として礼金を受け取っていた。

今でいうところの“賄賂わいろ”なのだが、

これは幕府にとって重要な財源となっていた。

 

稙宗もこの仕組みを利用して、

陸奥守護職に任命されたのだが、

この時、伊達家と幕府のパイプ役になったのが

商人の坂東屋富松氏久ばんどうや とみまつ うじひさであった。

 

この坂東屋富松に晴宗は、

幕府へ乱を調停してもらうよう依頼すべく使者を送った。

対応したのは氏久より坂東屋富松を受け継いだ与一であった。

 

この仲介には坂東屋富松にも礼金が入ることとなるので、

与一も喜んで、その依頼を引き受けたのであった。

 

天文17年5月、時の将軍・足利義輝より

伊達父子に対して和睦をするようにと記された

御内書(将軍より直接下された書状)が発給された。

 

これを相馬家拠点である小高城で受け取った稙宗は渋い顔をした。

発給の仕組みをよく知っている彼からすれば、

それが晴宗方による形を変えた降伏勧告に思えたのである。

 

小高城で開かれた軍議に参加した主だった者は、

亘理わたり宗隆、小梁川日雙こやながわ にっそう(宗朝)、相馬顕胤あきたね、そして懸田かけた俊宗であった。

この頃には最上家や稙宗の娘婿である田村隆顕、二階堂照行は、

晴宗方と和睦し、稙宗方陣営から去っていた。

 

「将軍家の名を借りたこのような降伏勧告に膝を屈せようか。」

と開口一番、晴宗との和睦を拒否したのは稙宗であった。

「義父上のおっしゃる通り、今和睦をすれば、

 中野宗時ら家臣らが主君を侮ることは必定。

 それでは家を保つことできますまい。」

と同意するのは、稙宗が頼りとする娘婿の相馬顕胤であった。

ただこの頃になると顕胤は体調を崩しがちであった。

常に身を戦場においてきた彼の体は、

知らず知らずのうちに蝕んでいたのかもしれない。

 

反論したのは、これまた稙宗の娘婿である懸田俊宗であった。

「義父上のお気持ち、重々承知しておりますが、

 いかな経緯で発給されようとも将軍家よりの御内書を

 無視することはできますまい。

 形だけでも、晴宗殿との(話し合いの)場を設ける必要があります。」

 

かつては将軍家の権威を利用して南奥州をまとめようとした稙宗である。

そのように言われれば、形だけならと稙宗も承諾するしかなく、

俊宗に晴宗方との交渉役を任せることにした。

 

だが懸田家当主としての俊宗の思いは違っていた。

 

稙宗より4代前の伊達家当主・持宗の代のころ、

懸田家は、領地を失っていた伊達家を助け所領奪回に協力した。

さらに持宗の子を養子として迎えた入れた懸田家は、

伊達家の一族となり、伊達家当主に次ぐ家格を与えられた。

 

懸田家は言わば、伊達家の友好的な同盟者なのである。

天分の乱のきっかけとなった稙宗の幽閉事件は、

俊宗にすれば他家(伊達家)の主従間の問題であった。

 

とはいえ、伊達家のナンバー2の地位にある家の当主として、

稙宗の婿養子として、家臣の無法を見過ごすことはできなかった。

俊宗は小梁川日雙と協力して稙宗を救出し、懸田城に迎え入れた。

 

その上で、桑折こおり景長や中野宗時ら伊達家家臣らに

稙宗と和解するようにと交渉したものの決裂に終わった。

そのため俊宗は、稙宗方として戦うことになったのである。

 

俊宗は、今の状況に危機感を覚えている。

懸田城は、西山城に最も近いこともあって主戦場であり続けた。

そして晴宗方の諸将と幾度も戦い、多くの将兵の命を奪ってきた。

 

おそらく晴宗方からは、自分を憎んでも憎み足りない敵と

みなしているであろうことは俊宗も容易に想像できた。

このままでは懸田家のみが許されず孤立無援になるのではと

恐れを抱いていた折に、将軍家よりの御内書が来たのである。

 

俊宗は、これを天の采配と思った。

この機を逃せば懸田家は滅亡すると考えた彼は、

いかなる手段を用いても和睦を成立させてみせると決意していた。