【伊達天文記】第17回 稙宗、(桑折)西山城を居城とする | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

伊達稙宗が行った政策の特徴として

買地かいち安堵状を活用したことが上げられる。

 

その前に、この時代における土地売買のことについて書きます。

一つの例を上げます。

 

登米とめ村のAが涌谷わくや村のBに田畑を売りました。

Bは購入した登米村の土地で耕作できます。

ところが、売ったAが亡くなりました。

するとBは、Aから購入した土地を登米村に取り上げられました。

 

たぶん現代の人から見れば「???」となるのではないでしょうか。

 

これは、この時代の“村”を理解しないとわかりません。

この時代の“村”とは、未開地を開拓した人々から成る『運命共同体』です。

そのため、開拓地の本来の持ち主(本主)は村なのです。

この本主は土地が売買された時でも変わりません。

 

すると次のように解釈出来ます。

Aは登米村が保有する土地の耕作権を借りていた。

Aは金が必要になり、Bにその耕作権を売ってしまった。

しかしAが亡くなると、登米村はAに貸与していた耕作権を取り上げるので、

Bが登米村で耕作できる根拠を失ったのである。

 

この本来の持ち主(本主)という概念は重要です。

 

この時代、頻繁に徳政が行われていました。

そして徳政とは、売買された土地や質の抵当に入っていた土地が

無条件で本主に返す政策なのです。

 

こうなると土地を買う者や金貸しなどは、

手に入れた土地を本主に返さないで良い方法を探します。

そこで登場するのが買地安堵状です。

地方の実力者(国人)に土地の永久保証をしてもらうことで

徳政令が発せられても本主に返さずに済むというわけです。

 

土地安堵状の説明が終わったところで、話を戻します。

(ちなみに“登米”は東京オリンピックでボート競技場候補地として、

 “涌谷”は万葉集で詠まれた歌の北限の地としてちょっと

 有名(?)になったのでここで仮の村名として使いました。)

 

奥州において、境界争いを裁定する権力(武力)をもつ

最大の実力者は伊達稙宗であった。

当然、買地安堵状を稙宗に求める者は多くなった。

 

買地安堵状は、統治者である伊達家にとっても、

家臣の知行地を把握できたため都合が良かった。

これによって税を課すことができるだけでなく、

知行地に見合った軍役を課すこともできた。

 

買地安堵状によって伊達家の軍備は強化され、

養子縁組や婚姻によって血縁関係を結んだ他家に

必要になった時に援軍を要請できるようになった結果、

稙宗が掌握する軍事力はより強大となった。

 

さらに広大になった伊達領を治めるには、

現在の梁川やながわ城は不便であると考えた稙宗は、

居城を(桑折こおり)西山城へ移転することを決断した。

 

 

伊達領内を移動するには、後に奥州街道と羽州街道と

呼ばれる両街道を使うが、

梁川城では阿武隈川を渡河しなければならない。

 

そこで渡河が必要のない阿武隈川左岸にあり、

かつ奥州街道と羽州街道の追分おいわけ(分岐点)にある

(桑折)西山城の方が、統治には都合が良かった。

これによって伊達軍の移動もよりスムーズになったのである。

 

そしてこの年、北の大族・大崎家より使者が来た。

この使者が稙宗を始めとする伊達家臣らを驚かすのである。

その使者曰く

「稙宗殿の子・小僧丸様を大崎家の養子にしたい」と。