室町幕府を揺るがす応仁の乱から10年の月日が経った。
この大乱によって(征夷大)将軍の権威は大きく損なわれた。
大名は在京が義務付けられ、領国経営は守護代に任せていたが、
この頃になると、各々の領国に赴き地盤強化に努めるようになった。
奥州は大乱に巻き込まれることはなかったものの、
幕府の窓口機関である奥州探題職を任じられた大崎家もまた、
衰退の道を辿り始めていたのである。
奥州において大崎家当主は“公方”と呼ばれ敬われていた。
応仁の乱の頃の当主は、七代目・大崎
東の大族・葛西氏と領土の境界争い、自領においても
頻発する内乱鎮圧など内憂外患の有様であった。
その大崎教兼も応仁の乱が終結した文明9年(1477)に亡くなる。
その後を嫡子・大崎
その治世は10年と続かず彼は亡くなってしまう。
政兼には男子がいなかったため、跡継ぎ争いが生じた。
彼には8人の弟がおり、大崎領内の要地を抑える城主として配置されていた。
彼らは後継者になるべく後ろ盾となる有力者を得ようと奔走する。
そのうちの一人
その縁で伊達氏を味方につけた義兼が大崎家当主となったのである。
だが、それに納得しない大崎家家臣達が一斉に蜂起した。
長享2年(1488)、伊達
この物語はここから始まる。