【奥州探題史】第79回 応永の乱③ 各個撃破される叛乱軍 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

 応永6年(1399)、の籠城戦により始まった大内義弘

叛乱は、反足利義満派諸将の蜂起へと飛び火した。

 

 これより12年前、義満による守護大名の勢力削減策

一つとして行われた土岐康行討伐によって没落した

土岐 詮直 あきなお が、美濃 [岐阜]において挙兵した。

 

 当時の美濃守護は、同じ土岐一族でも義満派

土岐 頼益 よります であったが、堺に出陣していたため留守であった。

 

 時同じくして、美濃の隣国・近江 [滋賀]において、京極秀満

挙兵し、京をうかがう姿勢を見せた。さらに、丹波 [京都]

において、明徳の乱で敗死した山名氏清の遺児・時清も挙兵した。

 

 山名時清はへ攻め上がり都に火を放ち、幕府に

揺さぶりをかけた。このような各地での叛乱に対し、

大御所・義満はすみやかなる対処が求められたのである。

 

 

 本陣を八幡に据えた大御所・義満は、軍議を開き、

堺への攻城の手を一時止め、包囲することだけに留めた。

 そのうえで、叛乱勢力が合流しないように手を打ったのである。

 

 まず京へ進軍中の京極秀満の足を止めるため、

園城寺の宗徒に出兵依頼をし、京の東玄関口にあたる

勢多の橋を落とさせ、都への道を塞いだ。

 

 そのうえで山名時清、京極秀満、そして土岐詮直を

各個撃破すべく、和泉 [大阪]に参陣していた当事国の

守護大名に対し、領地へ戻り鎮圧するよう命じたのである。

 

 まず、近江守護の幕府勢が京極秀満軍に攻め入った。

この迅速な動きに恐れをなした秀満は、京への侵攻をあきらめ、

美濃で交戦中の土岐詮直軍に合流すべく、軍を反転させた。

 

 だが秀満は途中、土一揆により取り囲まれ、

わずかな供回りだけを従えて脱出し、行方をくらました。

 

 美濃に攻め入った土岐詮直もまた、和泉より戻ってきた

土岐頼益により散々に攻め立てられ、長森 [岐阜]にある館へ

追いつめられ、ついには討ち取られたのであった。

 

 次々に鎮圧される叛乱軍の中にあって、山名時清は

一人気勢をあげていた。彼は父・氏清の無念を晴らすため、

ただただ、大御所・義満の首だけを狙っていた。

 

 京の町に火を放った山名時清は、引き返してくる

幕府軍と出くわさぬように南下し、大御所・義満が

陣する八幡へ攻め入った。その数わずか3百騎。

 

 だが幕府軍は、堺包囲のために多くの兵を割いており、

さらに各地の叛乱鎮圧のために軍が出払っていたため、

八幡本陣は手薄になっていた。

 

 とはいえ、義満を守るのは馬廻り衆2千騎の精鋭である。

正面から挑むのは困難と考えた山名時清は、軍を2つに分け、

その一手を陽動として義満本陣に当らせたのである。

 

 幕府最強を誇った山名氏清軍の残党である。

この時清軍の先手は、圧倒的な兵力差にもかかわらず、

怯むことなく義満軍を押し込んでいった。

 

 敵を寡少とみた馬廻り衆は、山名軍を取り囲むべく、

交戦している場所へと集まっていった。

 そのため、義満を守る本陣に手薄な箇所が生じた。

そこに山名時清率いるもう一手の軍が突撃したのである。

 

 崩れかけた陣を立て直そうとする馬廻り衆を払いのけ、

大御所・義満へ目指し、突進する山名時清であったが、

兵力差はいかんともしがたかった。

 

 敵将・山名時清の姿を認めた馬廻り衆は、

格好の手柄首と息巻き殺到した。次々と郎党を喪う

時清であったが、幕府方も多くの死傷者を出した。

 

 そうこうしているうちに大御所・義満と山名軍との間に

多くの兵卒が立ちふさがり、ついに時清は撤収するのであった。

 

 ここに大御所・義満は、最大の危機を乗り切ったのである。

 

 次回、大内義弘を討ち取る準備を

 「鎌倉公方への牽制」で描きます。