【奥州探題史】第78回 応永の乱② 堺”要害”の攻防 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

 応永6年(1399) 11月、幕府軍は大内義弘

立てこもるを包囲した。さらに幕府の命を受けた

四国の海賊衆により海上封鎖も行われたのであった。

 

 堺の周囲は壕で隔てられ、攻め手の突入口は狭い通路に

限られた。さらに開戦前に大内軍は、数多くの 井楼 せいろう

矢倉を建設し、幕府軍の攻撃を今や遅しと待ち受けていた。

 

 一方、大御所・足利義満にとって、今回の大内義弘の

謀反は、先の明徳の乱土岐頼康討伐の時のような

計画的な策戦ではなく、自然発生的な出来事であった。

 

 そのため戦いは、終始幕府方が後手に回ってしまい、

攻城戦でも思わぬ苦戦を強いられた。さらに乱後の処置も

不徹底となり、大内家は勢力を保持することになる。

 

 攻城戦は、海に面した西を除く三方向からの一斉攻撃により

始まった。北面の先鋒を任されたのは、管領畠山 基国 もとくに であった。

 

 管領家の家格に名を連ねる畠山家であったが、

他の斯波細川に比べれば名声が劣ることは否めなかった。

 ために畠山基国は、三管領家の家格に見合った戦功を欲した。

 

 北面より攻め入った畠山軍は、幅の狭い通路に殺到した。

そこに矢倉から雨のように矢が放たれた。通路に押し込まれ、

逃げる隙間もない畠山将兵に、次々と矢が突き刺さっていく。

 

 斯波、細川を始めとする幕府諸将が見守る中で、

無様な敗退を見せるわけにはいかない畠山軍は、

味方の屍を乗り越え、降り注ぐ矢の中を突進していった。

 

 幕府方が城砦の木戸に迫り、まさに討ち破らんとしたその時、

扉が内側から開け放たれ、総大将たる大内義弘が討って出た。

 

 大太刀を振りかざしながら大内義弘は、通路に殺到した敵軍を

蹴散らしていき、畠山軍は一時後退を余儀なくされたのである。

 かくして早朝より開始された攻城戦1日目は終了した。

 

 翌日、数で勝る幕府軍は前衛の大将を入れ替えて、

またも三方向より一斉に攻めかかった。城に立てこもる

大内方も木戸に近づけんと盛んに矢を放って対抗する。

 

 大内義弘は自ら井楼に上がり、周囲の状況を確認し、

幕府軍が城壁に肉薄しているとみるや200騎余を引きつれ

駆け向い、木戸を討って出て敵を追い散らすのであった。

 

 また大内方に合力している楠木残党は、かつての様な

組織的な軍事力はもっていなかったものの、その個々の

力は健在であり、堺を支える大きな戦力となっていた。

 

 その楠木党が守る木戸に、かつては共に南朝の柱石として

戦ってきた北畠 顕泰 あきやす が迫ってきた。この顕泰を幕府に鞍替えした

裏切り者として憎悪していた楠木党は、頃合を見計らって討って出た。

 

 混戦での敵大将へ殺到する楠木党の勢いは凄まじく、

北畠顕泰をまさに討たれんとしていた。この危機を見て取った

顕泰の子・ 満泰 みつやす は、父を守るため楠木党の前に立ちふさがった。

 

 北畠顕泰は混戦を逃れることができたが、楠木党の矛先は

割って入った満泰に向けられており、間もなく楠木党より

「北畠の御曹司を討ち取ったり」との歓声を聞くのであった。

 

 幕府軍が激しい攻撃をしかけ、おびただしい死傷者を出したが

堺城壁を討ち破ることなく2日目が終了した。そのため攻城方法を

見直すことを余儀なくされた大御所・義満は諸将を召集した。

 

 この軍議中に謀反を告げる使者が舞い込んできた。

尾張[愛知] 土岐詮直あきなおの謀反

丹波[京都] 山名氏清の遺児・時清の謀反

近江[滋賀] 京極秀満の謀反

 

 留守にしていた京を伺う勢いの叛乱勢力に驚いた幕府陣営に

東国よりの使者がさらなる凶報を伝えてきたのである。

 「鎌倉公方、京に向け鎌倉を出立す。」

 

 事態は、大御所・義満の思わぬ展開を見せ始めていた。

 

 次回、幕府軍の叛乱勢力を鎮圧する様子を書きます。

   「応永の乱③ 各個撃破される叛乱軍」