先日、不妊の鍼灸治療に取り組む鍼灸師同士で
お話をする機会があった。
お話をする機会があった。
「結果主義になってしまうから、もう不妊を扱うのは止めようかと思う」と
その鍼灸師さんは仰った。
その方にはお子さんがいて、
だからこそ結果が出なかった患者さんに、
だからこそ結果が出なかった患者さんに、
どう接すればいいか迷ってしまうのだそうだ。
「自分は子供を持って、成長できた部分が一杯あるから」と。
きっとこれは、不妊の方に関わる周りの人の、
正直な反応なのかもしれない。
正直な反応なのかもしれない。
私は不妊の方の治療において、結果を全く気にしない。
ほとんど執着がない。
うちの鍼灸治療を受けた方の妊娠率は驚く程高く、8割位にはなる。
うちの鍼灸治療を受けた方の妊娠率は驚く程高く、8割位にはなる。
けれど、それに対して達成感を感じない。
身体の準備は出来るけれども、後は自然の成り行きだからだ。
身体の準備は出来るけれども、後は自然の成り行きだからだ。
むしろ、自分の身体の扱い方や、
子供を持たない人生について語り合う時などの方が、熱が入る。
私はただ、その方の身体が健康に近付き、
人生と向き合うサポートが出来ればそれでいいのだ。
妊娠や出産となれば、それは良かったなあと思うが、
失敗しても、可哀想とは決して思わない。
願ったものが手に入らない事が、残念だ、悲しいね、とは思うけれど、
不幸な出来事だとは、思っていない。
子供のいる人生といない人生がいかに違うかというのは、
シンプルに捉えれば、約20年間を子供と共に過ごすか否かの違いだ。
その後の事は、わからないではないか。
子供は巣立ち、遠方、または海外に行くかもしれない。
老後も一緒にというイメージは、現代では過剰な期待だ。
子供のいる人生といない人生がいかに違うかというのは、
シンプルに捉えれば、約20年間を子供と共に過ごすか否かの違いだ。
その後の事は、わからないではないか。
子供は巣立ち、遠方、または海外に行くかもしれない。
老後も一緒にというイメージは、現代では過剰な期待だ。
子供を持つことがその人の人生にとって良いか悪いかなど、
そもそも私などが短期的に判断出来ることではない。
子供=幸せというステレオタイプが、むしろ母親を追い詰め、
虐待につながる事だってある。
子供=幸せというステレオタイプが、むしろ母親を追い詰め、
虐待につながる事だってある。
「困った時に側にいない子供なんて、
育てても無駄だった」と吐き捨てる方に会ったこともある。
育てても無駄だった」と吐き捨てる方に会ったこともある。
日本の殺人事件の50%は、悲しいかな家庭内で起こるのだ。
また、子供を持つ事と成長する事の相関性には、個人差がある。
子供を持って成長する人、全く成長しない人、
子供を持たない事で成長する人、様々だ。
「マザーテレサは、子供がいなかった」というのは、某独女芥川賞作家の名言である。
「ある経験を経て、成長できた」というのは、本人にとっては真実でも、
その経験の有無を、他人より優位に立つ道具にして、
「経験していない君は未熟な人間だ」と、
勝手に上から物を申した時点で、その人の言う「成長」など、たかが知れていると私は思う。
人の成熟度など、経験の有無では測れない。
恋愛、結婚、出産、仕事、歳を取る事でさえも。
老成した若者もいれば、未熟な高齢者だっているのだ。
だから子供がいない事で、人生に不全感を感じなくてもいい。
一人前ではないと、後ろめたさなんて感じる必要はない。
だから子供がいない事で、人生に不全感を感じなくてもいい。
一人前ではないと、後ろめたさなんて感じる必要はない。
妊娠出産は、人生の一つの通過点に過ぎず、
その先の人生は、子供の有無に関わらず、無限の可能性を秘めているのだから。
その先の人生は、子供の有無に関わらず、無限の可能性を秘めているのだから。