左手の記憶と森山直太朗 | あしたまにゃーな

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なんだかてんやわんやな日記です☆

今日は左手にとって受難の1日だった。

ハーブティーを淹れてたら熱湯を浴びるわ、

お土産の大阪・喜八洲のみたらし団子のタレにどっぷり浸かるわ、

あげくの果てはペーパーファスナーでざっくり切って流血騒ぎ・・・。

久しぶりに傷口から流れ出る血をみて、ふと思い出した。


推薦で大学に受かり、急にヒマになった私は、高校の帰り道にあるSCの本屋でアルバイトをしていた。

人生初のアルバイトになぜ本屋を選んだのかは憶えていないが、

たぶん、単純に本を読むのが好きだったからだと思う。

サービス業の難しさを実感しながらも、周りの大学生のバイト仲間に可愛がってもらい、

それなりに楽しい毎日を過ごしていた。


不器用なくせにせっかちな私は、当時、しょっちゅう左手をケガしていた。

本を束ねる梱包用のテープや、書籍の硬い用紙、真新しいお札にまで指を滑らせては出血する始末。

あまりのドジっぷりに、優しい先輩が見かねて、よく作業を手伝ってくれていた。


そんな私にとって、八王子のSCにある本屋で起こった殺傷事件は他人事ではない。

容疑者は「人間関係のごたごたを両親に相談したが聞いてもらえず、両親を困らせたかった」

と供述しているようだが、殺された被害者やその遺族がそんな理由で納得するはずもない。


奇しくも、森山直太朗の新曲、『生きてることが辛いなら』の歌詞が賛否を呼んでいるという。

「生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい」

という歌詞で始まるこの歌は、決して自殺を奨励するものでなく、

最後は「生きてることが辛いなら 嫌になるまで生きるがいい」と呼びかけている。


誰しも、生きることが辛くなり、自暴自棄になることはあると思う。

安易に自殺を勧めたりはしないが、やむにやまれず自殺を選ぶ人がいることは想像に難くない。

でもそれならば、せめて、誰にも迷惑をかけずにひっそり死ねばいい。


30も過ぎて「両親を困らせたかった」なんて幼稚な犯行理由にも唖然とするが、

両親へのツラ当てに他人の命を奪うなんて、見当違いも甚だしい。


秋葉原の無差別殺傷事件や、それに類する通り魔事件、もしくはその予告を見る限り、

誰にも迷惑をかけずにひっそりと死を選べないのは、過剰な自己愛ゆえに他ならない。

「親に愛されたい」、「他人に認められたい」、「異性にモテたい」・・・

そこまで自分の存在価値に執着するのなら、開き直って一から生きてみればいい。

世間を震撼させる事件を起こすことにより自分の存在価値を確認したところで、

その責めを負うのは親でも兄弟でもない、間違いなく自分だ。

過剰な自己愛がある限り、彼らにひっそりとした死は訪れないのだから。


突然、左手から滴り落ちた血を眺めながら、

不本意に命を奪われ、将来を閉ざされた被害者の無念を思った。