書物のグーグル化 | カフェメトロポリス

カフェメトロポリス

電脳世界と現実世界をいきあたりばったり散歩する。

週末よりは少し肌寒いが、週明けの東京もとてもいい天気だ。


少しはやめにオフィスにやってきて、コーヒーを飲みながら、じっくりとニューヨークタイムスの記事を眺めた。


アイザック・ニュートンの著者のJames Gleickが、消え去ることなく出版する方法というコラムを載せている。


http://www.nytimes.com/2008/11/30/opinion/30gleick.html?_r=2&ref=opinion&pagewanted=all


書籍のデジタル化について、とうとう出版社とグーグルの間の歴史的合意が締結されたらしい。


出版関係者の悪夢がとうとう到来したのか。グーテンベルグに長年の貢献のすべてに感謝してさよならといわねばならないのか。


Gleickは案外そうでもないという。(彼は出版社ではなく、著者だから、ちょっと利害関係は異なるのは事実だ。)


むしろ書物というテクノロジーは輝かしい瞬間を迎えていると彼は言う。


出版社は書物という製品を使ってどうやったらまたお金を稼げるようになるのかに頭を悩ませているはずだ。まあもともと出版というのはあまりお金が儲かるビジネスじゃなかったんだが。


しかし書物という製品は新しい人生が与えられる可能性がある。物理的対象、考え方、一種の文学形式としての新しい生命だ。


技術的にいうと、書物はハンマーのようだ。つまり、完璧なのだ。果たすべき目的からみて理想的にできあがっている道具なのだ。こういうタイプの道具は微調整は加えられたとしても、決して時代遅れにはならない。自転車もこれに似ている。たしかにレコードやCDのように技術進歩の中で消えていくものもあるのは事実だ。


あの紙のにおいや、書物の佇まいなどというセンチメンタルなことを言っているつもりはない。どっちかというと、自分は四六時中コンピュータスクリーンをにらんでいるタイプだ。私がいいたのは、本というのはかなりうまく機能している技術だということだ。


グーグルとの契約だが、当然のことながら、出版社だけじゃなく、著者の利益代表者も交渉に関与していた。私もその一人だった。


グーグルはこれまでに少なくとも700万冊の書物をデジタル化した。このなかには著作権が切れたPublic Domain状態のものも多数ある。これは問題がない。書店でもまだ売っているようなものも一部存在している。


しかし大多数は、400から500万冊は、著作権は切れていないが、絶版状態が続いている書物である。その出版社もほぼ権利放棄をしているような代物である。図書館や古本屋には存在しているが、それ以外は書籍流通の世界に存在していない。


ただグーグルの言いなりになったわけではない。特にこの絶版分野に関しては、広告、ライセンスなどの収入が発生した場合には、一部はグーグルがそして大部分はもともとの権利保有者のもとに戻るような合意になっている。さらにグーグルのライバルが参入することも踏まえて、グーグルとの独占契約にはしていない。


まあいずれにせよ、書籍にかかわる世界は天地がひっくりかえるだろう。出版ビジネスも根本が変化し、図書館、書店の機能も変化せざるを得ない。唯一不変なのは、1ページ目から最後までじっくりと本を読むという昔ながらのスタイルだけなのだ。


書店では、新刊本が書棚に置かれる期間がどんどん短縮しつづけている。今回の変化によって、メジャーな書籍以外のものも、流通市場に長く残り続けることができるようになる。


書物という製品にとっては、メリットである。


オールドファッションな出版社がこのメリットをどう生かすべきなのだろうか。


コストカットとか、マス市場狙いなどは忘れるべきだ。これはサイバースペースが担当するだろう。


オールドファッションな人々はオールドファッションな考え方に戻るべきだ。すなわち、酸化しない、長持ちする紙にインクで印刷された、美しい書物だ。できるかぎり丁寧に作れば、それを愛でる人々は存在する。(以上)


既存の出版業界にとっては、慰めにはならないだろうが、書物というものの本質を直視するしかないということには心から賛成する。