『おう、杏ちゃん、お疲れさん。』


『はい。』


杏はトオルの呼び掛けにそう答えた。



トオルは杏が動揺しているかも知れないと踏んだが、


杏はお疲れ様という言葉に慣れていない為、何と返していいものか


分からずに出てきた言葉が”はい”だった。




トオルは杏に近づき、レースの話を持ち出した。


杏は不思議そうな顔で受け答えをした。


話が一段落すると、トオルは本題を切り出した。


光恵に聞こえぬように、小さな声で杏に言った。



『悪いんだけどさ、あの女の人をトイレに連れて行って欲しいんだ。

いいかな?』


『私がですか?あの人を・・・?はぁ、わかりました。』




杏は初めて光恵を淳の家の玄関先で見たとき、恋人である淳を奪われる


のではないかという予感がしていた。


唇から血をみせている光恵を目の前にして、足元が震えた。


こんなにクレイジーに見える大人を見たのは初めてだったのだ。


この件は淳が関係してる。


杏は直ぐにそう判断した。


杏は光恵の詳しい人物像は知らない。


野見山クラスの精神異常者ではないかとすら疑った。


杏の足が思うように動かない。


目の奥が笑っていない光恵の笑顔が怖くて仕方がなかった。


『杏ちゃん、行かないと淳が・・・』


『え?』


『淳が警察に捕まる。』


『なぜですか?』


『今日付けでSCREAMの5代目に就任するからだ。あの女の人は少し異常な密告者だ。』


『密告者・・・?』


『そう。捕まれば、もう社会復帰は難しい。もう会えないだろう。』


『そんな・・・。』


『怖ければ、これを持って。』


トオルは光恵に背を向けて、杏の目を見ながら、銃を握らせた。


『撃たなくていい。野見山を呼べと言ってこれを向けなさい。』


杏は大きな唾を飲み込んだ。


同時にトオルは2度と杏の前に姿を見せないことを決意していた。





杏は握った銃を再びトオルの手の元へ返す。


目を瞑り、下を向いた。


『できない・・・よな、そりゃ。』


トオルは一応逃げ道をつくってあげた。


杏は肩にかけていたタオルを手に持つと、トオルの手の上で拳銃を包んだ。


杏がそれをジャージの上着のポケットに突っ込むと、トオルは光恵の方に振り返った。


『光恵、歩いて。後ろついてくから。』


光恵は杏に微笑みかけてから歩きだした。


トオルはトイレの前までは杏と共について行くようだ。