トオルは杏を呼び出すことにした。
陽介に連絡し、杏に来させるように命じた。
杏は淳からトオルとは会うべき相手ではないと聞かされていた。
まるで保護者が子供の友達を選別するかのような調子で言われたのだ。
杏は直感的な女である。
自分の直感を信じたい意欲が強い。
トップスイマーにしては失敗の数が人一倍多い選手だった。
彼女の中で失敗はデータになればいいと思っている。
雑誌のインタビュアにもそう答えていた。
水泳の専門家は口を酸っぱくして彼女に反省の仕方が悪いと指摘してきた。
杏は感覚でしかレースを振り返らない。
理論的に検証する力がないとこれ以上伸びないと誰もが言った。
彼女もそれは理解しているようだが、苦痛で仕方がないようだ。
よく自分のことを頑固な性格と言っているのはこの為であろう。
淳は水泳のことで彼女に口出しはしない。
出来ないのかもしれないが。
水泳雑誌の特集で淳が自分の中学の各選手についてのコメントを
求められた際に、
実は杏の方がマリより本能的だと答えて、それがそのまま記事に載った。
下品な意味にもとれるということで、淳は杏の親の元へ謝りに行ったという経緯がある。
杏はというと淳のコメントは内心嬉しかったと話していた。
杏はトオルに対する偏見を持っていなかった。
彼女の親は厳しく、杏の友達の育ちの悪さを指摘することがしばしばあった。
杏は友達には自分に無い物があるのだと具体例を挙げながらいつも親に話した。
親は加点法で人を判断することを危険だと彼女に教えた。
その反動か、杏は何か1点で相手を好きになれる育ち方をした。
どうやら杏はトオルにも何かワンポイントを感じたようだ。
このワンポイントを感じることが杏の直感力であり、感性で、
自分の行動を肯定する材料とすることができるのだ。
杏が土曜日の練習に持ってくるお弁当は容姿に似合わず地味だった。
父親が食べてそうな弁当だ。
『もっと普通がいいのに・・・』
彼女は良くこの言葉を口にした。
トップスイマーなのにも関らず、水泳に執着せずに、
美容師の専門学校に進学したがっている理由は、
もっと普通でいたいという気持ちが強いのであろう。
杏はトオルの元へ向かった。
杏を待つ光恵とトオルは恋人同士のようにも見えた。
『杏ちゃんって、どういう子なんだろう。話したことないからなぁ。』
『普通の子だよ。明るい子。』
『もう2回ぐらい会ってるから何と無くは分かるけど。でも、淳君が好きになる子だもんねぇ。』
光恵が杏に関心を示す。
光恵は悪気があってトオルに最低と言ったわけではなく、冗談半分で言ったつもりであったが、
トオルは杏を呼んだことに対し少し引け目を感じている。
テンションは下り気味だった。
淡々としている光恵はまだそれに気づいていない。
『最近はちゃんと寝れてるの?アナタ覚えてる?祐子の時のこと。どっぷりハマってたわよねぇ。』
『何のことだ?』
『電話があるとか無いで一喜一憂してたじゃない。寝付けなくてよく寝坊してたでしょ?
SCREAMの3代目のヘッドなのに。』
『あったかもな、そんな事も。』
『肯定するんだ。へぇ。好きな女の前では格好悪くなってもいいと思う人だもんね。
たとえ自分が不本意な体勢を取ろうとも、相手を悪にしたままで事を終えない。
必ず相手を立てるわよね。
それは素敵よ。でも今、祐子は此処にいないじゃない。なのに・・・。』
『別にいいだろ、そんなこと。』
『ロマンチストすぎるわ。ロマンチスト過剰。何故?』
『知らん。それが俺なりに格好いいと思っているからじゃないか?』
『私にはそんな素振りしない癖に。隣で寝れない彼氏を見ている愛人の気持ちが分かる?』
『アホか。俺には一生分からないだろうな。俺には俺の接し方がある。』
『祐子に会いに寝ぼけ眼で運転して衝突事故起こして逃げたでしょ?』
『あれは逃げてない。それに眠くもなかった。これ言うの何度目だ?』
『前の運転手が待て!って呼んでたの聞こえてたくせに。』
『聞こえてない。カスッた程度だったしな。』
『ヤクザの車でびびったんでしょ?』
『俺は誰にも屈しない。』
『平謝りしてたくせに。それにあの車は故意に停止した。
事故る前から俺の車が気に入らなかったんだろう。』
『後ろから突っ込んだ方が悪いのよ。』
『止まったもん勝ちかよ。』
『あなたは私に任せっきりで呆然としてたけど、
あの件は私が話をつけて解決したのよ。無事にお金も払わずね。』
『どうせ警察の権力をかざしたんだろう?』
『そうよ。あなたはそれに守られた。よくノウノウとデカイ顔して走れたわね。
と言っても、このことは今私が言うまで知らなかったでしょうけど。』
『だから何なんだよ?』
『チームのヘッドなんてショボイんだよ。』
トオルが光恵の頬を張った。
トオルの爪で光恵の唇は出血した。
光恵の表情が急に変わる。
母親が電話に出る時のようだ。
唇に血を滲ませながら光恵は微笑んだ。
光恵と向き合って立っているトオルが光恵の表情に気づく。
光恵は階段を上から見下ろしていた。
トオルは振り返る。
『遅くなりました。』
トオルの後ろに杏が立っていた。