阪神淡路大震災のこと | フィリオとショコラのちいさなおうち

阪神淡路大震災のこと

暖かな雨が降り続いています。

フィリオは重装備で朝散歩に行ってきました。

ショコラはお留守番をさせましたので、少々オカンムリです。

 

 

 

今日1月17日は、阪神大震災のあった日です。

あの日から、もう23年が過ぎましたが、当時の記憶が薄れることはありません。

お亡くなりになったあまたのかけがえのない命に、心より哀悼をささげます。

昨年の今日の拙ブログを転載しました。

お時間がおありでしたら、どうぞお読みになって下さいませ。

 

 

1月17日になりました。

阪神淡路大震災から22年もの月日が経ちましたが、

かあさんの心の中で震災は風化することなく、今日は自分なりの鎮魂の一日です。

昨年の同日の当ブログを転載しました。

長い上に駄文ですが、もしご興味がおありでしたら、どうぞ私と想いを共有して下さいませ。

FIGLIO  -あの日から21年-

「あの日から時が止まったままの方もおられると思うと、歳月の流れは無情ですが、
阪神淡路大震災からもう21年が過ぎました。
当時我が家は、父さんと大学生の長男が大阪に仮住まいし、
母さんと高3の次男と小6の三男が岡山の自宅に暮らしていました。
やがて春になって下の息子達がそれぞれ卒業したら、岡山組は大阪に戻り、
神戸の両親を引き取って、又、大家族一緒の暮らしを始める予定だったのです。
その矢先に、あの大地震が起こったのでした。

その朝、大学生の長男はポートアイランドで深夜アルバイトをしていて、衝撃に会いました。
彼は、神戸に繋がる橋が封鎖される前になんとか島を脱出し、落ちた高速道路をくぐり、
瓦礫を踏み越え、おばあちゃんが住む兵庫区の実家に救援に向ってくれました。
三宮はあちこちでビルが倒れ、瓦礫から炎が立ち始めていたそうです。

岡山に帰省していたとうさんは、テレビで地獄図の惨状を見てすぐ車に水や食料を積み、
神戸に向かいましたが、大渋滞にまかれやっと市内に入れたのは夜になってからでした。

神戸の実家は、兵庫区の小高い丘の中腹にありました。
垂水区に住んでいた義姉が、決死の覚悟で義母と長男を迎えに行ってくれましたが、

丘の下の街は既に火の手が上がっていたそうです。
混乱の神戸は電話も繋がらず、東京経由で長男達の無事がやっと分かったのは、
もう深夜になってからでした。
受話器をにぎったまま、かあさんは腰を抜かして、号泣しました。

そして春になり、予定していた芦屋市の家は液状化現象で住めなくなり、
私達はあわてて兵庫県川西市に貸家を見つけました。
丘の中腹の半壊の実家は、とうさんの幼い頃の思い出を詰め込んだまま引き倒され、
人手に渡りました。

瓦礫の庭から、大切に育てていた月下美人の鉢をとうさんが持ち帰った時、
老いの舅の眼から涙がこぼれました。
その舅も姑も彼岸の人となり、息子達も皆独立し、とうさんとかあさんとフィリオの三人は、
今は大阪府豊中市のマンションで暮らしています。
とうさんは偶然にも、あの焼野原になった長田区の大学に奉職しています。

これが私達一家が体験した大震災です。
ただ家一軒失っただけで、幸運にも全員怪我もなく無事に助かりましたが、
あの日、6500人もの非業の死があり、それぞれの哀しみや絶望があり、
その後に続く復興のご苦労があったと思うとき、こんな体験話などおこがましいことです。

人間だけでなく、たくさんの動物達も亡くなり、飼い主や我が家を失い、彷徨いました。
彼らの為に奔走したのが、アニマルレフュージ関西(アーク)さんでした。」

 
以上転載しました。
長々とお読み頂き、ありがとうございました。
又一年が過ぎ、ゆずを迎えて送り、ショコラを迎えて、私達は二人と二頭で暮らしています。
震災で知ったアークさんのスポンサーとなりましたが、スポンサー犬も2代目となりました。
地震大国日本は、いつどこで何があっても不思議ではありません。
備えも勿論必要ですが、振り返って悔いが残らないよう、日々を大切に生きようと思います。

 

 

憎しみがあろうがなかろうが誰にでも、

誰かや何かを憎むことを改善する能力がある。

(下手な訳:フィーママ)

 

 

今日もお出で下さいまして、ありがとうございました。

 


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