FIGLIO  -「動物福祉」という価値観をー | フィリオとショコラのちいさなおうち

FIGLIO  -「動物福祉」という価値観をー

夜と朝の間の、ほんのわずかな時間が、どんなに好きだろう。

雲が金色に輝き始めると、薄闇に沈んでいた建物達がだんだんはっきりと見えてきて、

あちこちの窓から漏れていた灯りが、次々に消されてゆく。

そして雲の間から太陽が顔を出すと、一瞬にして空は紺碧になり、新しい一日が始まる。


かあさんはしゃがんでフィリオを撫で、

おはよう、おはよう、今日も元気でいてね、と話しかける。





柘榴の実がはじける坂道で。

柘榴とその向こうの碧空を見上げて、かあさんは首が痛くなるまで立ち尽くす。





フィリオ、顔に朝陽が当たっているよ。




フィリオ、こっち向いて。



はあい、

なに?かあさん。




フィリオに流れている時間と、かあさんの時間は早さが違うから、

毎朝の何気ないこの時間が、かあさんにはとても大切なんだよ。







NPO法人地球生物会議「ALIVE」さんの会報が届きました。

ALIVE=All Life in a Viable Environmennt (全ての命が生きられる環境)

http://alive-net.net/

いつも中味の濃いこの冊子を、かあさんは楽しみにしています。

今回のサブタイトルは、『「動物福祉」という価値観を』でした。


多くの人間は、家畜の命、卵、ミルクを頂く食生活をしていますが、

量産と低価格を求める近代畜産業は、家畜達に犠牲を強いることが多いのです。

たとえいずれ屠殺される牛でも、生きている間は、

自由に動ける放牧地と健康的な牛舎と適切な医療が与えられて欲しいし、

靴箱サイズのケージに閉じ込められ、嘴を切られ翼を広げることもなく一生を終える鶏も、

身体の幅しかない檻ストールに固定される妊娠豚も、生きている間は、

彼らの生態に配慮した、ストレスのない飼育をして欲しいと思います。

家畜福祉・アニマルウェルフエア畜産が日本のスタンダードになったら、

動物のみならず、感謝をもってその命を頂く人間も、豊かになれると思うからです。


会報は、日本の家畜福祉実践農場の体験記や、

カリフォルニア州の家畜サンクチュアリのレポート、

家畜福祉食品のフードチェ-ン構築、需要の拡大への試みについてなど、書かれていました。

かあさんは、多少割高になっても、

幸せに自然に飼育された家畜を、多くの方が選択すると信じています。


現在の工場式畜産につき、

「私になんの関係があるのだ」さんのブログより転載します。

http://catsanddogs75.blog136.fc2.com/

いつも転載させて頂きまして、ありがとうございます。


「みんな嘘だ」

犬を愛し、豚を食べ、牛を着る

いつも疑問に思うことがある。

たいていの人は動物が好きだ。
なかには好きじゃない人もいるにはいるが、
大多数の人間は私たちの生活を豊かにしてくれる犬、猫、野生動物を愛する。

ペットを飼っている人はたくさんいる。家族や仲間と呼ぶ。
えさを買い、獣医に金を払い、ベッドの上で寝かせ、死んだときには泣きあかす。
ペットとの関係は人生に深みを与えてくれるという。
なぜそんなに心を動かされるのか?どうして琴線に触れるのか?
ペットは私たちの心の中に入り、絆という尊い感覚を与えてくれるからだろうか?

他の種との絆をそんなふうに意味のあることに感じるのは

人間としての喜びであり美しさである。

しかし私の魂の中に 固まりとして存在する疑問がある。

ペットという動物には深い愛情を抱き、人間との関係にそれだけの価値を見出すのに、
くるりと後ろを振り返り、別の動物たちをディナーと呼ぶ。、
100グラムの価格を抑えるためであればどんな酷な殺し方をしても気にしないという
感情の差はどこからくるのであろう。

合衆国には動物への残酷な取り扱いを禁止する法律があるが、
どの州も人間の消費に用いるための動物への適用はない。
50州すべて例外はなく、肉用、ミルク用、卵用に関しては
もしこれが犬や猫に対してやったら

間違いなく刑務所いきであろう行為に関して何の規制もない。

システム化された肉産業、畜産農場のもと、
動物たちへの拷問を阻止する法的手段が存在していないのである。
業界のスタンダード・オペレーション・マニュアルにも残酷な扱いを阻止する項目はない。

それは彼らの意図するゴールではないからである。
コストをいかに安くあげるかが彼らの目標だ。
コスト削減を達成できるのならアウシュビッツ収容所状態でも全く厭わないのである。

畜産業の動物たちが日常的にどれほどひどい扱いを受けているかを
説明するのは非常に困難である。一般の人は想像すらできない。

なんとならば故意に全力で隠されているからだ。
私たちが動物好きだと業界は知っているので、ありとあらゆる手段を使って、
そこで実際に行われていることを白日の下に晒さないようひたすら隠し通す。

何百万匹もの鶏を狭い窓のないケージの中で、
生涯一度も羽を伸ばすことのできない状態で閉じ込めている。
拷問の中で生きていくしかない彼らが
喧嘩をして互いに殺しあわないためにくちばしを切る。

牛たちも鶏と同じように身動き一つできない、
草をはむこともできないすし詰め状態で閉じ込めれている。

しかし屠殺される動物たちの実態を業界は私たちに知って欲しくない。
なので消費者には「おいしいチーズは幸せな牛から」と
緑の草原で草をはむ幸せそうな牛のイメージ広告を載せる。

幸せそうな牛、鶏の広告、みんな嘘だ。不誠実極まりない。

しかし不法ではない。肉、ミルク、卵を売るためにはどんな嘘をついても良いのだ。
なぜなら私たちが動物の種類によって存在の意味づけをしたからである。
愛する動物たちと、拷問をかけ肉にする動物たちと。

私たちはすべての動物がそれぞれ素晴らしい役割をはたしていることを忘れ、
可愛い動物は大切に、残りはどんな目に合わせてもよいと正当化しているのである。

すべての生き物は私たちと同じ神から呼吸を許されている地球の乗組員である。
神の動物たちはすべて聖歌隊でのそれぞれの役割がある。
ペットだけではなく、すべての動物とのつながりを修復する必要がある。
動物の権利だけで済まされる問題ではない。人間の責任問題である。

子供に毛虫を踏むなと教えることは毛虫にとってだけでなく、
子供にとっても価値のある教えなのである。

国の素晴らしさは動物たちをどう扱っているかによって判断されるとガンジーは言ったが
ガンジーはただペットだけのことを意味しているのではなく、
すべての動物に当てはめた言葉だと私は確信している。

Why We Love Dogs, Eat Pigs and Wear Cows
by John Robbins






今日もお出で下さいまして、ありがとうございました。


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