阿波介舎利塚(向かって右)と説明板
今年は金色堂建立900年。その金色堂の傍らに建つ阿波介の舎利塚に新たに説明板が設けられました。今年はまた浄土宗開宗850年に当たり、それを記念して浄土宗教誨師会様によって設置されたものです。
阿波介は放逸で悪事を尽くす半生を過ごした後、浄土宗の開祖・法然上人に出会って発心し、専修念仏に生涯を費やしたと伝えられます。
陸奥に赴いて布教を行っていた法然の高弟・金光上人に法然遷化を伝えるため阿波介は陸奥に下向したとも推論されていますが、現時点では阿波介と金光上人との関係は不明です。
金光はもとは天台宗の僧で筑後石垣観音寺別当(現福岡県浮羽郡)を勤めていましたが、浄土宗開祖・法然上人の教えに触れ、その弟子となりました。念仏布教のため奥州に下向した金光の足跡は東北各地に伝承されています。その中でも栗原(宮城県)や外浜(青森県)などは奥州藤原氏の拠点があった場所で、金光の布教を受容する下地が十分にある土地柄であったと思われます。
ところで奥州各地で念仏弘通の布教を行っていた金光と阿波介が面会していたとしたら、どの場所が考えられるでしょうか。わたしは平泉ではないかと思うのです。
法然の没年である建暦2年(1212)は平泉滅亡から23年後のことです。いまだ金色堂は覆堂もなく屋外で輝いていました。毛越寺の焼亡は嘉禄2年(1226)のことですので、建暦年間には荘厳なる堂塔は健在でした。栗原や外浜同様、念仏布教の拠点の一つとして金光が平泉を選び、逗留していたとしても不思議ではないはずです。
さて、中世に描かれた中尊寺経蔵別当領・骨寺村(現岩手県一関市本寺地区)の絵図のうち、「在家絵図」とよばれる絵図に「金聖人霊社」という記述がみられます。「金聖人」については未詳とされていますが、私はこの霊社は「金光上人」を祀ったものではないかと考えています。
金光の平泉地方における布教の薫陶を受けた人々が、あるいは阿波介の先導のもと中尊寺経蔵別当のつてを辿って骨寺村に金光を祀り、念仏布教の拠点としたとも考えられます。
骨寺村には大師堂、慈恵塚、骨寺堂跡など祖師・祖霊信仰に基づくと考えられる旧跡も伝えられ、法然の高弟と誉れの高い金光の霊が信仰の対象となる下地は十分にあったものと思われます。
金光自身もまた、栗原の往生寺に法然の坐像を祀ったと伝えられ、それが現在、宮城県加美郡色麻町の往生寺に遷座され、伝えられています。布教や信仰の目的で祖師の像や御影を祀ることは珍しいことではないのです。
金光上人の遷化の地は会津とも栗原とも、また津軽とも伝えられています。一方、阿波介の奥州での事蹟は詳らかではありません。しかしその最期は金色堂の傍らで念仏百遍を称えて往生を遂げたと伝えられ、遺骨は当地の舎利塚に埋葬されたのです。
屋外に寂然と光る金色堂や毛越寺の壮麗な伽藍など平泉の浄土を実見した阿波介は平泉を阿弥陀来迎の地と見定めて逗留し、法然や金光の志を受け継ぎながら近隣の村々を巡り専修念仏を勧めたのではないでしょうか。
法然上人をして「あの阿波介」と言わせるほど放逸で悪事を尽くした前半生を経て、念仏に出会い人生を一変させた阿波介。その念仏一行の日々は当地方の多くの人々の心をも動かしたはずです。現在浄土宗で用いられる二連の数珠は阿波介によって考案されたと伝えられ、六万遍もの念仏を数えることができるのです。阿波介がいかに念仏に精進していた想像するに堅くありません。
遷化の後鄭重に供養され、浄土に最も近いその場所に舎利塚が護持されているのは故あることでしょう。
浄土宗が昭和34年に建碑した「阿波之介舎利冢の記」