母が逝去して四十九日が経ちました。

 

 母が亡くなった日の朝、病院から引き揚げた母の手提げ袋のなかに一冊の小さな手帳が入っていました。そこには「十三仏」とよばれる初七日から三十三回忌までの追善法要のご本尊の名とその真言がペン書きの文字で記されていました。

 

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 その時、私の脳裏に15年も前に交わされた母との会話の記憶が甦りました。

 

 

 今日のお経を読む会の話はとても良かったよ。十三仏の話がわかりやすくて面白か  った。

 

 中尊寺では毎月1回、僧侶が交代で誦経と法話を行う「お経を読む会」が開催され、寺の婦人や檀信徒、近隣の住民の方々が聴聞に訪れます。

 

 父が66歳を過ぎて中尊寺の事務局も非常勤となってからは、母もほとんどそうした会に参加しなくなりましたが、以前は御詠歌やお経を読む会などに足を運ぶことが母の日常の一部でした。

 

 母は生前、自分が出会った様々な言葉を「好きな言葉ノート」に綴っており、それを死の病床で私の妹(母の娘)に「これを読んでね。」と托したそうです。やはりそこにも十三仏の真言と仏さまの簡単な説明が記されていました。それは母がかつて聴いた「お経を読む会」の法話に触発されて記したものに違いないと思います。

 

 そのノートから、ふるさと富士山が表紙にデザインされた小さな手帳に真言を書き写して病室に持ち込んでいたのです。病床で真言をお唱えしようとしていたのか、あるいは死出の旅路に携えようとしたのかもしれません。

 

 私は母の弔いの準備に奔走しながら、肺がんの診断後わずか5ヵ月で逝ってしまった母に対する様々な対応が果たして正しかったのか、寝ても覚めても自問自答を続けていました。

 

 しかしその手帳を見たとき、秩父や板東、西国など三十三箇所の観音霊場巡りが好きで、「私が死んだら御朱印帳と金剛杖をお棺に入れてね。」と常々口にしていた母が、初七日、二七日のご本尊様に会うために、楽しげに旅支度をしている姿が想像されて胸が熱くなり、同時に私自身も少し救われたような気持ちになったのです。

 

 15年も前に聴聞した法話が心の中に灯り続け、自らの臨終にはじめて果を顕す。のみならず法話の座にいなかった家族の心にも利益をもたらしてくれたのだと感じました。

 

 時空を超えた仏縁の不思議を感じると共に、亡くなる2日前の病室で私に残してくれた「光聴、本当にありがとうね、さあ、かえりましょう。」という最期の言葉に、54年9ヵ月に及ぶ母の恩愛を深く感受したのです。

 

 羯諦羯諦波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

合掌