古代を通して朝廷は「蝦夷征討」を掲げ、国土の拡張を国策としてきました。そのため、みちのくには戦が絶えることがありませんでした。
清衡公の生きた時代を見ても、幼年期には陸奥国府と母方の実家にあたる安倍氏との間で前九年の戦いが起こって父・経清は斬首され、青年期に起こった後三年の戦いでは身を寄せていた清原氏の内紛に陸奥守・源義家が介入して骨肉の争いを強いられ、多くの肉親眷属が命を落としました。
戦によって、朝廷から派兵された「官軍」。「夷虜」と呼ばれたみちのくの人々。共に多くの命が失われました。それは人間だけではなく、「毛羽」(陸と空に棲む生命)、「鱗介」(水中に棲む生命)に及んだのです。
清衡公は願文の中で、梵鐘の音が地に響くごと遠い過去から現在に至るまで失われていった幾多の冤霊(罪なく死した霊魂)を等しく浄土へ導きたいと述べられています。
「過現(過去と現在)」の冤霊への祈りは、昔と今という時間軸を越えて、六道を輪廻し続ける長い過去世に対する省察のまなざしとも感じられます。
「官軍夷虜の死事、古来幾多なり。毛・羽・鱗・介の屠を受くるもの、過現無量なり。・・・鐘声の地を動かす毎に、冤霊をして浄刹に導かしめん。」
中尊寺旧鐘楼の梵鐘(南北朝時代)
次回「中尊寺落慶900年 ⑨現世へのまなざし」へ続く。