中尊寺においては毎年の修正会を始めとする諸法会に供する料田を経蔵別当領骨寺村の田畠から募るよう記された大治元年(1126)の文書が残されています。後世の作成とされる文書ですが、年記や署名、奥州藤原氏からの現物支給はともかく、料田の内容や用途については少なくとも文書が作成されたと思われる鎌倉期当時の伝承と実状を反映したものといえるでしょう。(注1)
骨寺村は中世を通して経蔵別当領として中尊寺(経蔵)の法灯を支えました。現在は「骨寺村荘園遺跡」として国指定史跡、「一関本寺の農村景観」として重要文化的景観に指定され、現地の方々により守り伝えられています。平成18年(2006)には荘園米の「中尊寺米納め式」も復興し、骨寺村荘園米が中尊寺修正会の供米となっています。
骨寺村の田地に実った米は中尊寺修正会の宝前に供えられ、礼仏懺悔の行儀によって三世(過去世・現世・未来世)の罪業を浄め、国家安穏と五穀豊穣が祈願されます。それは吉祥天が『金光明最勝王経』を読誦し供養する者に対し「是の如く能く経を持つに由るが故に、(中略)能く地味をして常に増長せしむ、諸天は雨を降らして時節に随い、諸天衆をして咸く歓悦せしむ、及以、園林穀果の神、叢林果樹並びに滋栄し、所有苗稼咸く成就し、(中略)其の心を遂げさしむ。」と釈迦に誓ったことに由来します。骨寺村の米が修正会に供えられ、結願に当たって散供として道場の内に降りそそぐそのたびに、その地味は増し、豊穣が約束されるのです。
骨寺村の田地は単なる圃場ではない、吉祥天と釈迦によって約束された浄土となるのです。遠い岸の向こうにある世界、あるいは堂塔の中にある世界だけが「平泉」の目指した浄土ではない。「浄土」とは浄らかな土地というのみならず、「浄仏国土」、つまり仏国土を浄めるという仏道の営み(道心)そのものを示す言葉でもあります。
『妙法蓮華経』に「我が此の土は安穏なり」とあるように、此土(この世)の中に仏は常住し、此土にこそ浄土があるのです。此土が浄土であることを悟るための大乗仏教の営みが浄仏国土なのです。
農衣という袈裟を纏って礼拝行のごとく福田(注2)を耕し、仏種を植え、たわわなる功徳の穂を神仏と衆生に回向する。
藤原清衡公は奥羽両国の村ごとに伽藍を建て、「仏性燈油田」を寄附したと伝えられます。(注3)日々の営みが神仏への祈りと密接につながっていた時代の貴重な遺例が骨寺村です。
浄土とは有形・無形の垣根を越えて存在するものであり、そうであるからこそ「平泉の文化遺産」がほんとうの浄土であるといえるのです。
(おわり)
注
1.「藤原清衡中尊寺経蔵別当職補任状案」(『平泉町史・史料編一』12号)について堀裕「「偽文書」からみた中尊寺経蔵別当職」(吉川弘文館『平泉の仏教史 歴史・仏教・建築』)等の考察がある。
『吾妻鏡』文治5年9月17日条(「寺塔已下注文」)の年中恒例法会の中に修正会の記載はないが、修正会の料田として建治2年(1276)から応永28年(1421)までの間に「光勝寺修□□[正田]ヵ」「大堂修正田」「愛染明王修正田」「大長壽院修正田」「白山修正田」「常住院修正田」(それぞれ『平泉町史・史料編一』30・33・33・53・68・91)がみえ、「所領骨寺」というような村としての規模ではないが修正会の用途に供される免田畠が見られる。また天正19年(1591)の奥書のある修正会法則本が伝存している(『平泉町史・史料編一』127)ことから、連綿として修正会が厳修されてきたものと考えられる。
2.『金光明最勝王経』に「諸の国人、正法を修行して、病なく安楽にして、抂死者なく、諸の福田に於て、悉く皆修立せん。」「此の舎利は(中略)最上の福田にして極めて逢遇し難し。」とあるように福果を育む因となるものを田にたとえている。
3. 『吾妻鏡』文治5年9月23日条