金字宝塔曼荼羅の経意絵を中心に『金光明最勝王経』をかいつまんで読んできました。
古来から聖武天皇や光明皇后、奥州藤原氏や伊達綱村・万寿寺殿仙姫夫妻など多くの為政者に読誦され信仰されてきた『金光明経』。
その教えは、まず自らがいまだ熟さざる存在であることを自覚し、日々内省する「懺悔(悔過)」の行から始まります。過去から現在に至る自分の罪を悔い改め、未来の罪を犯さぬよう願うことで業障が滅除され、自らの感受性が清められてくる。(六根清浄)
清らかな感受性によって偏りのない世界を感得すると、正しい法を請い求めるようになる。(勧請)
正しい行いの輪が広がってゆくことに心から喜びを感じるようになる。(随喜)
正しい法を求め、行うによって生まれた功徳を、他者や自分を取り巻く環境に廻らせ、還元したいと願うようになる。(廻向)
そのような自らの行いが他者や環境の側から讃歎され、世の中が平和となってゆくのです。そこに暮らす生き物たちも安楽に、大地も豊かになってゆきます。
さらにはそれらを繰り返し実践する先に、たどり着くべき目標、願いが見えてくるのです。(発願)
「護国」とは為政者が国を護るということではなく、自分自身、そして他者・環境と真摯に向き合い、仏道を歩み続けることによって、それら自分を取り巻く他者や環境の側から認められ、擁護されるということなのです。仏・菩薩・四天王や天地の神々は自分を取り巻くあらゆる存在を表します。仏教では、自分は救う側ではなく救われる側であり、利他とはともに救われることを願うということなのです。
自分自身と向き合うことをせず、他者や環境を破壊することは自分自身を毀損することに他ならず、そこには決して天地の祝福は訪れないことは言うまでもありません。
またこの経には梵天・帝釈天や四天王、薬叉大将といった勇猛な男形神のみならず、多くの女人や女形神が登場します。
釈迦の前世である「福宝光明女」、
同じく釈迦の前世である「流水」が渇魚を救うのを助けた「天自在光王」を前世とする「菩提樹神善女天」、
釈迦の説く空の理によって男身、女身を超え菩薩となった「如意宝光耀善女天」、
『金光明経』を護持する者に弁舌の智慧を与え、薬草による除災を誓う「弁才天」、
財物の施与を誓い、また釈迦より諸天・薬叉大将が持経者を護持することを対告(語りかけ)される「吉祥天」、
大地の豊穣、説法者への擁護と接足礼を誓い、同時に釈迦に王法の正論を説くことを請う「堅牢地神」、
これらの女性たちは、男形の神将が猛々しく国王や持経者を擁護するのに対して、言葉や健康、生活の資材や大地の豊穣など、身心の内側から生ける者たちを豊かにしてゆくのです。
堅牢地神(地天女)に両足を支持される「兜跋毘沙門天」像は花巻市の成島毘沙門堂をはじめ東北地方にも伝承される像容ですが、この男神と女神の姿には天神と地祇、護国と豊穣、天の智慧と地の恵みといったイメージが投影されているようにも思われます。また釈迦が『金光明経』を聴聞し供養する者は毘沙門天の住処を含む六欲天に往生すると対告したのも堅牢地神でした。
そして釈迦も前世において女性だったように、一度男身に変成するという時代の制約を受けながらも女人成仏を説いていることは、『法華経』の「龍女成仏」や『阿弥陀経』の「第三十五願」と同様です。
このことは『金光明経』が古来より女性の信仰を集めた要因になっていると思われます。
そして、経中に多く説かれる前生譚は、個人が現世を越えて、過去世から未来世まで法界(宇宙)全体として継続している、長い継続としての自己を説いたものです。その意味では他者も環境も自分自身と異ならない、時間と空間のすべてを包摂する「法身」そのものなのです。
つまりは自分自身の懺悔の行が仏国土を浄めることとなり、その行いが「浄土(浄仏国土)」なのです。それは時間と空間を超えて継続、精進されていきます。
聖武天皇、奥州藤原氏、あるいは伊達公が信仰した『金光明経』。そこに説かれる「護国」には、四悔(懺悔・勧請・随喜・廻向)の行と王法正論の矜恃という明確な方法論がありました。それは仏道に通有するものであると同時に、多くの生命の命運を左右する為政者、人件を管掌する者にとっても大切な意味を持つものではないかと思います。
(おわり)