『()()(きょう)』「序品(じょほん)」にみられる「人中尊」とは何か、その前後の内容を略述してみます。

 

〜釈迦( しゃか)は『(かん)()(りょう)()(きょう)』を説いた後、()(りょう)()(しょ)(ざん)(まい)という瞑想(めいそう)に入り身心(しんじん)不動(ふどう)となった。すると天より美しく(かぐわ)しい花弁(はなびら)が釈迦とその説法を聴聞(ちょうもん)する大衆の上に降りそそぎ、大地が揺れ動いた。釈迦の()(けん)から大いなる光が発せられ、(とう)(ほう)(まん)(はっ)(せん)の世界のあらゆる(しゅ)(じょう)(ほとけ)の様子が(ことごと)く照らし出された。このような未曾有(みぞう)瑞相(ずいそう)を目の当たりにして聴衆は歓喜し一心に合掌して世尊を仰ぎ見た。()(ろく)()(さつ)がこの希有(けう)なる瑞相の意味について智慧(ちえ)第一と(うた)われる(もん)(じゅ)()(さつ)()うた。文殊は「今釈迦()(そん)は、大いなる法を説き、大いなる法の雨を雨らし、大いなる法の(ほら)を立て、大いなる法の(つづみ)()ち、大いなる法の()()べようととされているのであろう。」と答え、語り始める。

 

 中尊寺経蔵の現本尊・文殊菩薩

「私が限りない過去(かこ)()のことを念想(ねんそう)するに、仏・(にん)(ちゅうの)(そん)、すなわち人々の中にあって最も(とうと)いお方がおられた。(にち)(がつ)(とう)(みょう)というご尊号(そんごう)であった」と。(にち)(がつ)(とう)(みょう)(ぶつ)とは同じ尊号で2万回も世に出現し数多(あまた)の衆生、菩薩を(さと)りに(みちび)いた仏である。文殊は、最後の日月燈明仏が『()()(きょう)』を説いたときの瑞相が、まさに今現前(げんぜん)しているものと同じであり、その時()(ちゅう)にいた20億の菩薩の中の(みょう)(こう)()(さつ)が文殊の過去世の姿であり、妙光の800人の弟子の中の()(みょう)()(さつ)が弥勒の過去世であると明かし、次の様に(けつ)()した。「このことから今の仏・釈迦世尊も『法華経』をお説きになろうとしていると知ることができる。今、目にしている瑞相(ずいそう)は日月燈明仏が『法華経』をお説きになった時の相と同じである。そしてそれは諸仏がこれから真実の法を説かれることを知らせる方便(ほうべん)なのだ。今、釈迦世尊が眉間から光明を放たれるのも真実の教えを発せられようとしているしるしに違いない。諸人(もろびと)よ、まさに知るがよい。合掌(がっしょう)して一心に待ちたてまつれ。仏は今から法の雨を雨らして仏道を求める者を(じゅう)(そく)してくださるであろう。仏からそれぞれ異なった教えを受け、異なった教えを求めている者で、もし疑問や後悔があれば、仏はまさにそれらを断ち切って真実の教えを余すことなく説き尽くしてくださるであろう。」〜

 

 「人中尊」とは過去世より(げん)()に至るまで(いく)()もこの世界の中に(あらわ)れて教えを説く仏の(そん)(しょう)であり、『法華経』がまさにこれから説かれんとする象徴的な場面の中心におられる尊者なのです。

(次回「中尊寺の本尊」に続く)

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