今日10月28日は藤原秀衡公のご命日です。(注1)中尊寺本堂では秀衡公御月忌(ごがっき)・金剛界曼荼羅供(こんごうかいまんだらく)の法要が営まれました。

 

 

 秀衡公は奥州藤原氏3代。『吾妻鏡(あづまかがみ)』によると「父(基衡公)の譲りを得、絶えたるを継ぎ、廃れたるを興し、(鎮守府)将軍宣旨(せんじ)を蒙(こうむ)りて以降、官禄(かんろく・朝廷からの俸給)は父祖を越え、栄耀(えいよう)は子弟に及」んだといいます。(注2)

 清衡公が江刺郡(えさしぐん)豊田館(とよだのたち・現在の岩手県奥州市)から平泉に居館を移したのが嘉保~康和年間(1094-1103)のこと。(注3)基衡公が亡くなり秀衡公がその跡を継いだ保元2年(1157)には50年ほどの月日が経過していました。

 平泉内の遺跡を見ても中尊寺の大池伽藍(おおいけがらん)の園池は秀衡公の時代に再整備されており、また柳之御所(やなぎのごしょ)遺跡においても100年間の奥州藤原氏治世において一貫して機能しながら、秀衡公の時代にあたる12世紀後半、近接する高館(たかだち)や猫間ケ淵(ねこまがふち)跡、無量光院(むりょうこういん)やその西方に位置する金鶏山(きんけいさん)との関連性をもって機能し、遺跡の堀内部も内容が最も充実していたことが調査の結果指摘されています。(注4)

 父・基衡公の遺志を継承して完成させた毛越寺の嘉祥寺(かしょうじ・吾妻鏡では嘉勝寺)伽藍や紺紙金字一切経(こんしきんじいっさいきょう)。そして、宇治・平等院鳳凰堂(ほうおうどう)を凌駕(りょうが)する浄土景観を現出させた無量光院の建立をみても、秀衡公が「継承・護持」と「創造・発展」という2つのバランスを巧妙に取りながら治世を行っていたことがうかがえます。

 

 平氏政権下において鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に任ぜられ(注5)、その後奥州に下向した源氏の御曹司(おんぞうし)・義経(よしつね)を庇護しました。義経が秀衡公の「猛勢を恃(たの)んで」下向したと『吾妻鏡』には表現されています。(注6)

 源平の争乱(治承・寿永の乱)においては平清盛(たいらのきよもり)の命によって頼朝追討を秀衡公が承諾したとの風聞が京に流れるほど秀衡公の動向が注目されています。(注7)その後、頼朝追討の宣下を受け、平知盛(とももり)から後白河院(ごしらかわいん)への示し送りによって陸奥守(むつのかみ)に任ぜられます。(注8)こうした状勢に頼朝も江ノ島に弁財天(べんざいてん)を勧請して秀衡調伏を祈願しています。(注9)時の右大臣・九条兼実(くじょうかねざね・のちの関白・太政大臣)は平家による秀衡公恃みの動きを「乱世の基(もとい)」「天下の恥」としつつも、「陸奥国は大略秀衡に掠(かす)め取られているのだから国司任用もさしたることではない」と諦めの心境を吐露しています。

 義経は壇ノ浦の戦いで平家を倒した後、次第に頼朝と不和を生じます。後白河院より頼朝追討の院宣(いんぜん・通達文書)を得る(注10)も兵は集まらず、ひと月後には一転して義経追討の院宣が下されます。(注11)その権勢を恃んで再び奥州を目指した義経を秀衡公は再び迎え入れるのです。

 この間、頼朝は平泉に対して圧力をかけ続けます。鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀事件(注12)の嫌疑で平清盛によって奥州に配流となっていた院近臣(いんのきんしん)・中原基兼(なかはらのもとかね)の上洛を促したり、東大寺大仏滅金料(めっきんりょう)をはじめとする貢金や貢馬などを鎌倉の管領下で行うことを要求します。(注13)後白河院をはじめとする京と平泉のホットラインを遮断し、自らが差配を主導するという狙いがあってのことでしょう。なんといってもそれ以前、頼朝が施入した大仏滅金料が1,000両だったのに対し、秀衡公は5,000両に及んでいたのです。(注14)故清盛や後白河院からも一目置かれ、陸奥守・鎮守府将軍に任じて権勢を誇った秀衡公。頼朝も「御館(みたち・秀衡公)は奥六郡(おくろくぐん)の主、予(よ・頼朝)は東海道の惣官(そうかん)なり。尤(もっと)も魚水(ぎょすい)の思を成すべきなり。」と自らの優位性を確認しつつも、「上所・奥御館(じょうしょ・おくのみたち)」と敬意を表しながらコンタクトを取らざるを得なかったのです。(注15)

 

 平重衡(しげひら)によって焼き討ちされた奈良東大寺再建の大勧進職(だいかんじんしき)にあった重源(ちょうげん)の依頼により奥州藤原氏と同族の西行(さいぎょう)が沙金(さきん)勧進のために平泉を訪れたのもこの頃のことです。(注16)重源と頼朝、西行と秀衡という2つの線が交差したのです。よしみの西行の足労に答えてか重源と頼朝の思惑に従い秀衡公は金450両を鎌倉に送り、頼朝がそれを伝進しています。(注17)生涯に2度平泉を訪れた西行がみちのくを詠んだ歌が『山家集(さんかしゅう)』にいくつか残されています。そのうち

 

 ききもせずたはしね山の桜花吉野の外にかかるべしとは

 

の歌碑が束稲山(たばしねやま)と衣川、北上川を眼下に眺望する中尊寺の望古台(ぼうこだい)に建てられています。

 

 

 義経が奥州に潜伏していることが知れると頼朝の訴えによって後白河院も院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)を陸奥国に発し義経追捕を命じるのです。(注18)

 秀衡公はただ異心なきことを述べ、決して応じようとはしません。安倍氏、清原氏と源氏との往古からの因縁、源頼義(よりよし)、義家(よしいえ)がみちのくを舞台に武家の棟梁としての地位を確立した歴史に自らをなぞらえようとする頼朝の宿意を見抜いていたのでしょう。

 病床に伏した秀衡公は最期にあたり子の国衡(くにひら)・泰衡(やすひら)公と義経を呼び、義経を主君と仰ぎ三人一味となって国務にあたるよう遺言して卒去します。(注19)初代清衡公以来、腐心を重ねて築いてきた京との共栄関係、京から弾き出されたキーパーソンを包み込む力、常に移ろう局面を見る洞察眼があれば情勢を転じることは出来る。秀衡公が死の床で起請(きしょう・誓約)の祭文(さいもん・神仏に捧げる文章)を書かせてまで子息と義経に伝えようとした願いは叶いませんでした。

 

 みちのくに君臨しながら摂関(せっかん)家、平氏、源氏、そして後白河院と、めまぐるしい権勢の浮沈を見つめながら、父祖の築いた平泉を護持し、さらに発展させた秀衡公。初代・清衡公の発願(ほつがん)した「諸仏摩頂場(しょぶつまちょうのにわ)(注20)は安倍氏、清原氏の時代から数多の抗争によって科(とが)を受け、配流にあった人々をも包容しながら平泉の地に築かれてきました。秀衡公は最期までそれを貫いたのです。

 

 中尊寺・春の祭礼で一山僧侶により奉演される神事能(じんじのう)に「秀衡」があります。

 秀衡公亡き後、鎌倉方の圧力に風雲急を告げる平泉、義経の身に危険が迫ります。金色堂に参詣した義経、弁慶主従の前に秀衡公の亡霊があらわれ、「判官(ほうがん)義経を迎え奉って秀衡亡後の大将軍と頼みしものを」とその心情を吐露し、やがて「山を越え海をも越えて志を伸べ給ふべし、われ先導の路(みち)を啓(ひら)かん」」と橋掛かりの彼方に去って行く。

 能舞台の橋掛かりは鬼門にあたる北東の方角、シテが勤める亡霊や精霊はみな異界から鬼門を通ってあらわれ、また去って行く。(注21)

 中尊寺能舞台の橋掛かりはちょうど安倍氏、清原氏、奥州藤原氏が伝領(でんりょう)した故地・奥六郡に向かって開いています。秀衡公も義経も、そこから舞台に来現(らいげん)し、そして去ってゆくのです。

 

 みちのく人の地と王土とのかけ橋を築いた奥州藤原氏。平泉とは奥六郡からこぼれ落ち、みちのくの100年を照らした一滴の精華(せいか)といえるのかもしれません。

 

1.『玉葉』、『吾妻鏡』には秀衡公の没年を文治3年(1187)10月29日と記すが中尊寺では現在10月28日を御忌日とする。なお『中尊寺史稿』所収の文政5年(1822)「年中行状記」、天保3年(1833)「関山中尊寺歳中行事」および経蔵奉安の位牌には秀衡公の忌日を12月28日としており、毛越寺では現今も12月28日に供養会を執行している。

2.『吾妻鏡』文治5年9月23日条

3.『吾妻鏡』に「康保年中」(964-968)とあるのは嘉保もしくは康和の誤りであると推定されている。

4.及川司編『平泉の文化史1・平泉を掘る 寺院庭園・柳之御所・平泉遺跡群』参照

5.『玉葉』嘉応2年5月27日条

6.『吾妻鏡』治承4年10月21日条

7.『玉葉』治承4年12月4日条、同5年3月1日条

8.『吾妻鏡』養和元年8月13日条、『玉葉』養和元年8月15日条、『吉記』同日条

9.『吾妻鏡』養和2年4月5日条

10.『同上』文治元年10月18日条

11.『同上』文治元年11月11日条

12.安元3年(1177)、京都東山の鹿ヶ谷で行われたとされる平家打倒の謀議

13.『玉葉』文治3年9月29日条、『吾妻鏡』文治2年4月24日条、同5月10日条、同10月1日条

14.『玉葉』元暦元年6月23日条

15.『吾妻鏡』文治2年4月24日条

16.『同上』文治2年8月16日条

17.『同上』文治2年10月1日条

18.『同上』文治3年9月4日条

19.『同上』文治3年10月29日条、『玉葉』文治4年正月9日条

20.「中尊寺建立供養願文」の句。『大般涅槃經』「遺教品」に「諸仏摩頂」、『妙法蓮華経』「法師品」及び「普賢菩薩勧発品」に「手摩其頭」の語句があり、仏が弟子の菩提 を証してその頭をなでること。清衡公は皆が平等に仏恩に浴することのできる場所として中尊寺を建立した。

21.『陰陽五行と日本の文化』(吉野裕子・大和書房)参照