今日、7月17日は中尊寺を造立した奥州藤原氏初代、清衡公のご命日です。中尊寺本堂では藤原清衡公御月忌(ごがっき)・胎蔵界曼荼羅供(たいぞうかいまんだらく)の法要が行われました。

 

 

 清衡公が幼少期を過ごした平安時代後期の東北地方は、朝廷と蝦夷(えみし)の軍事的・政治的緊張状態が続いていました。

清衡公は蝦夷の俘囚長(ふしゅうちょう)・安倍頼時(あべのよりとき)の娘を母に、都の貴族・藤原氏一族に連なる陸奥国の在庁官人・藤原経清(ふじわらのつねきよ)を父として天喜4年(1056)に生を受けます。それは中宮彰子の病気平癒祈願の大赦で停戦となっていた前九年の戦いが、阿久利川事件によって頼時の子・貞任に夜討ちの嫌疑がかけられて再燃した年のことでした。陸奥国司鎮守府将軍・源頼義との戦いで、安倍方に走った父の斬首と安倍氏の敗北、敵方であった出羽の豪族・淸原氏のもとに母と共に預けられるという憂き目に遭われました。清衡公ときに7歳。

 

 その後、28歳のとき身を寄せた清原氏の内紛と陸奥守・源義家の介入による後三年の戦いが勃発し、異父弟によって妻子を殺められ、自身もその弟を攻め滅ぼしています。清衡公の体に流れる貴族と蝦夷という2つの血。それが離反して最愛の者を奪い、自らも他を殺めてしまうという苦しみ。後三年の戦いは朝廷より私戦とみなされ、源義家をはじめ勝者への論功行賞はなく、安倍・清原の系譜を継ぐ清衡公が陸奥国の奥六郡を伝領することとなります。時に完治元年(1087)、清衡公32歳。

 

 その後藤原摂関家への貢馬等によって中央との安定的関係を築きながら、平泉に居を移した清衡公はみちのくの平和と安定のためにその後半生を捧げました。長治2年(1105)より中尊寺の堂塔造立に着手し、天治元年(1124)には金色堂を建立、2年後の大治元年(1126)3月24日には「鎮護国家大伽藍(ちんごこっかだいがらん」の落慶供養が行われたのです。

 

 戦乱で故なく命を落とした「官軍(かんぐん)・夷虜(いりょ)」、「毛(もう)・羽(う)・鱗(りん)・介(水陸に棲む動物たち)にいたる冤霊(えんれい・つみなく命をおとした者の霊)を浄土に導きたいと願って建立された中尊寺。七宝荘厳(しっぽうしょうごん)と表現された金色堂の内陣は、みちのくの漆や金とともに、南洋産の夜光貝を用いた螺鈿(らでん)細工や紫檀(したん)材、象牙、瑠璃石(るりいし・ガラス玉)など様々な産地、様々な輝きの素材で荘厳されています。異なった素材が固有の光を発して照らし合い、調和することこそが清衡公の願われた浄土だったのかもしれません。

 

 伽藍落慶に際して経蔵に奉納された、およそ5300巻に及ぶ金銀字交書一切経(きんぎんじこうしょいっさいきょう)について、「金銀和光(わこう)して弟子の中誠(ちゅうせい)を照らす」と願文に述べられています。

 仏の説法を「()()(こんく)」というように金は仏を示し、銀は菩薩道を行じる衆生を示し、この金銀が相照らし一切経(仏法)が護持される。三宝に対する帰依を荘厳であらわしたのが金銀を交書(まぜがき)した一切経といえるでしょう。

 しかし清衡公にとって、金と銀の光にはもうひとつの意味があったのではないかと感じます。貴族と蝦夷、京とみちのく、2つの異なった光の融和こそ、2つの血を身に宿す清衡公の切実な願いであり、恩讐を越え、朝廷も蝦夷もそれぞれの光を発しながら照らし会う世界を願っての作善が金銀の写経業だったのではないでしょうか。

 

 様々なありようを越えて皆が本来の善なる存在に帰り「界内の仏土」(かいだいのぶつど・迷いの世界の中にある浄土)に行きついて諸仏に頭をなでて頂けるような場所・中尊寺。多様性を包み込むその見方は、今の社会に対しても大きな示唆を含んでいると思います。