姉として
姉として
1
シャベルで泥んこ遊びをしていた純が我にかえったとき、すぐそばにいたはずのはるは、またしても姿を消していた。
ああ、いけない!
いつものこととはいえ、純はようやく事の重大さに気づくのだった。
だいたい、はるという子はいつも何かを探しているのだ。
自宅の小さな庭で遊んでいるときも、兄が野球をしている小学校の校庭にいるときも。
いつだって妹は、お空の遠くの方を一心に見つめて、小さな指でその方向を指し示しながら、純に何かを言おうとするのであった。
そして妹は、言わんとすることが伝わらないと見るや、探し事をまっとうするために、あっという間に小さな旅に出てしまうのだった。
そのことの意味は4歳の純にはさっぱり分からなかったけれども、2歳にも満たない妹が空の向こうに何かを探し求めているということや、そのためにすぐにどこかに行ってしまうということは、そんな純にも何となくは分かるのであった。
そんなわけであるから、今日も純は、妹の動きに十分に注意しながらシャベルを使っていたのだが、いきなり飛び出してきた長くてにょろっとしたおぞましい生物に目を奪われているうちに、姉としての使命をすっかり忘れていたのだった。
その生物をもういちど泥で覆い隠すことにようやく成功した純が後ろを振り返ったとき、その視界には、開けっ放しになった庭戸がからからと虚しい音をたてているだけであった。
2
庭戸を見つめながら、純はとまどった。
自分1人でここから外の世界に出たことはない。
ちいさな妹のことを思った。
自分より言葉も早く、すべてにおいて要領がよく、お着替えも自分より上手な妹。
お風呂からあがっておむつをはかせてもらい、あとの着替えをすませてさっさと先に絵本を読み始めるのは妹のほうだった。
いつまでたっても素っ裸でお歌をうたってニコニコしているだけの純は、お風呂から最後に出てきた母親をいつもあ然とさせた。
嫉妬などという感情が芽生えていない彼女は、そんな妹と自分の違いには当然ながら気づいておらず、ただただ自分の世界を楽しんでいるだけであった。
だからこそ、彼女にとって妹は、ただそこにいるのが当たり前の存在であり、楽しい仲間なのであった。それが普段の純の心持ちだったのだ。
だが、妹がときおり小さな旅に出てしまったときは違う。
当然そこにいるはずの妹がいない。あのちいさな妹が。
この幼い姉は、そのときだけは、説明のつかない喪失感にかられて行動を始めるのだった。
途中で何かに目を奪われなければ・・・の話だが。
3
純は、何の気なしに空を見上げた。
妹がいつも見上げている空がそこにある。
真っ青な空に、やや控えめな雲が浮かんでいる。
空は純にとってのキャンバスのようなものだ。
そこにはコッペパンがあり、ショートケーキがあり、大好きな兄の顔があった。
4歳になっても言葉の遅い彼女は、そこで見つけた素敵なものを母親に伝えるすべがなかった。
ただうれしそうに母親のところに飛んでいき、一生懸命に空を指さしながら「あった、あった」と叫んでは母親の手にしがみつくのであった。
しかし今日のお空にはコッペパンもショーケーキも兄の顔も浮かんでいない。
ただの白いかたまり。
その白いかたまりをじっと見つめながら、純は頭の中でお空に絵を描き始めた。
たった今出会ったばかりの長くておぞましい生き物。
昨日の夜に食べたりんご。
りんごを食べ終わってから兄と遊んだ風船。
そういえば、あとから食べ終わった妹がそれを横取りしにきたのだった。
2歳にも満たない妹にあっという間に風船を奪われ、泣き叫んだときに抱きしめてくれた兄の、あんパンのような顔。
純は今度は兄の顔を描き始めた。
野球をやっている兄のことを思い出しながら、バットとボールもいっしょに描いた。
兄のバットがボールをたたく。
ボールは遙か彼方に飛んでいく。
飛んでいった先におひさまがある。だからおひさまも描く。
おひさまを描いてみて、すぐその近くにある本物の太陽と見比べてみる。
なかなかの出来映えに満足して、純は空に絵を描くのをやめた。
ふと前方の庭戸に目をやると、純はようやく我に返って、今自分がすべきことに思い至った。
「はるちゃん?」と純はつぶやいた。
4
純は口元をきゅっと結んで、庭戸を開けて外に出た。
いつも母親とそうしているように、まずは左に進路をとる。
ほどなくして左手にコンビニが見えてくる。いつもお菓子を買ってもらう店だ。
純はこのコンビニに入ろうとは思わなかった。はるが、この店をあまりお気に召さないことを知っていたからだ。
ちいさな妹は、生意気にも、この店に置いてあるお菓子には関心を示さなかったのだ。
妹が好きなのは、もう少しはなれたところにある駄菓子屋の麩菓子がなんといってもいちばん。
その次に好きなのは、家を出て反対方向にあるスーパーで売っているぶどう味のゼリーであった。
コンビニをやりすごして、純は進路を右にとる。
そこには横断歩道があった。
青信号と赤信号の違いはまだ分からないが、青になったときの雰囲気を肌で感じて知っていた純は、難なく道路の向こう側までたどり着いた。
5
信号を渡って左に行くと、ほどなくしてバス停が見えてくる。
街に買い物に行くときには、いつもここから母親といっしょにバスに乗る。
純はそのことを想い出し、バスに乗ろうかどうか、しばし考えた。
決めかねているうちにバスはやってきた。
ドアがガラっと開くと、中にいる乗客が見えた。
グローブを左手にはめてポンポンやっている男の子が正面に座っている。
純は、兄がいつもそうしているのを想い出し、思わず歩を進めてバスに乗り込んだ。
ドアが閉まり、バスは動き出す。もう後戻りはできない。
思いもよらないちいさな新客に、入り口付近にいた老婆が驚いて声をかけた。
「おじょうちゃん、ひとりで来たの?」
純は老婆が何を言っているかは分からなかったが、そういうときはいつも首を縦に振って「うん」というそぶりをみせることにしている。
「まあ」と言いながら、こんなちいさな子どもにこういうことをさせる親の顔が見てみたいものだと老婆は思った。そして、純を手招きし、自分の両足の間に抱きとめた。
そしてそんな老婆の文字通りの老婆心とは裏腹に、純は兄のことを想っていた。
6
兄のリュウは、5年生になる。
温厚で気の優しいリュウは、これといった取り柄もなく、したがって、親以外の誰からもほめられることもなく、目立たない子どもであった。
成長期の食べ盛りのせいか、小太りで、あんパンのような顔をしている。
野球が大好きで小学校の野球チームに入っているのだが、練習すれどもすれども上達せず、チームへの貢献度はほとんどなかった。
けれども純は、ふうふう言いながら重い身体をひきずって練習している兄の姿を見るのが好きだったし、何よりも、ときおり兄が見せるパワフルなバッティングが大好きだった。
めったにバットにボールが当たらない兄であるが、いざ当たったときの打球の勢いはすさまじく、そのときだけは周りの選手も感嘆の声をあげるのだった。
純は、そのような瞬間が何よりも好きで、兄のことを誇らしく思うのだった。
練習が終わると兄は真っ先に純とはるのところにやってくる。
抱きしめてくれる順番は自分が先である。必ず兄はそうしてくれるのだ。
家では純とはるのめんどうをみながら、左手にはグローブをはめ、片時も離さない兄なのだった。
7
バスが終点に着いた。
そこは駅のバスターミナルであった。
老婆は純を心配するあまり、そのまま交番に連れて行こうかどうか迷った。
しかしこのとき純は、既に心を決めていた。
グローブをはめた男の子をそのまま追いかけていこうと考えたのである。
この子を追っていけば、同じような野球仲間が何人か集まっているところにたどり着くかもしれない。もしそうなれば、そこには兄や、兄のチームの仲間たちがいるかもしれない。
そうすれば、はるがどこに行ったか分かるかもしれない。
漠然とではあるが、純はそう考えたのである。
心配そうな老婆をよそに、純は男の子の後を追った。
運転手がポカンとそれを見送っている。こんなちいさな子どもから運賃を取ることもできないから、とにかく見送るしかなかったのである。
男の子は、バスを降りてすぐ正面にあるイトーヨーカドーに入っていった。
8
男の子は、手にグローブをはめたままエスカレーターに乗る。
純もすぐに後を追う。
彼は、4階にある通称「プレイランド」に入っていった。
見覚えのある光景が目に飛び込んできた。
家族でここに来たことがある。
兄はカードゲームで遊び、純とはるは、幼児の積み木コーナーで遊んだのだ。
純は、男の子がたどり着いた先に兄や野球仲間がいないことを知ってがっかりした。
しかしそれでもはるを見つけなければならない。
何が自分をそうさせているかは分からないけれども、純は無我夢中でフロア中を探し回った。
積み木のところにもいない。ぬいぐるみのところにもいない。
カードゲームのところにも、着せ替え人形のところにもいない。
純は泣きたくなった。
涙が、下まぶたのすぐそこにまで迫っていた。
9
涙をこらえながら、純は、何の気なしに下りのエスカレーターに乗り込んだ。
1階に戻り、外に出ると、ついさっき乗ってきたバスが、折り返しで戻るために出発しようとしているところであった。
これに乗ればおうちに帰れる。
そう直感して、純は再びバスに乗った。
ここでも小さな乗客にまわりの大人たちは驚いて、ひとりの妊婦が純をとなりに座らせた。
純は、ちいさな身体を乗り出して懸命に車窓を眺めた。
自分が降りるべき場所を見逃さないためである。
窓の外の景色はみるみる変わり、左手にファミリーレストランが見えてきた。
これを通り過ぎてもう少し行けばおうちのそばのバス停に着く。
そのとき、純の目に、ちいさなちいさな人影が飛び込んできた。
歩道のはしっこに、妹によく似た女の子がしゃがんで何やら熱心に見ている。
はるだ。
本来降りるべきバス停ではなかったが、ここで降りなければならない。
こういうときはどうすればいいのだろうか。
「や・め・てー!」
純はとっさにそう叫んでいた。
バスに乗っていたありとあらゆる客が振り返って純を見た。
純はありったけの声を絞り出してもう一度叫んだ。
「や・め・てー!」
運転手は、この2回目の叫びを聞いて、訳の分からないまま、反射的に降車側のドアの開閉ボタンを押していた。
純はいちもくさんに駆け出し、ポカンと見送る運転手の横をすりぬけて降車側ドアから外に出た。
10
バスを降りると、そこは大型ドラッグストアの駐車場であった。
ちいさな妹は、その駐車場のコンクリートが割れたわずかな隙間に視線を集中させながらしゃがんでいた。
足音をしのばせながらゆっくりと妹に近づいていく。妹の邪魔をするのがはばかられたからである。
純は、愛しい妹をいまにも抱きしめたくなるのをこらえながら、妹の背後から、妹が熱心に見ているものを覗いた。
あざやかな黄色をしたタンポポが、たった一輪ではあったけれども、生き生きとした姿を見せていた。
そして、声をかけた。
「はるちゃん」
妹は肩をぴくりとさせてこちらを振り返った。
「はるちゃん、はる!」
妹は、自分の視界に入ってきた女の子の顔を見上げ、しばし見入った。
姉は、今度は今までの倍くらい優しい声で、こう言った。
「はるちゃん、あたち、あたち、来たのよ。おねえちゃんよ。」
はるは、いちばん来てほしかった人が来てくれたことをその瞬間に認識した。
そして、思い切り泣き出した。
純はそんな妹を力一杯抱きしめながらこう言った。
「あたちよ。あたち、来たのよ。おねえちゃんなのよ。」
はるは泣きに泣いた。なぜここまで来てしまったのか、そんなことが分かるわけもない。
お空の雲を追いかけているうちに、たかだか100メートルのちいさな冒険ではあるけれど、長い長い旅を続けてきたのだ。
姉の方は、普段の自分からはあり得ないほどの鋭敏さでここまで妹探しの冒険をしてきたけれども、自宅からわずか100メートルのところで妹を発見した今、喜びと安堵感からか、さてこれから自分は妹を連れてどう帰ったらいいものか、まったく分からないのであった。
それでも純は慌てることはなかった。
なぜなら、はるにとっての純がそうであったように、純にとっていちばん来てほしい人物が、すぐそこにまでやってきていることを、なぜだか感じ取っていたからだ。
ほっぺをぷるんぷるんとさせながら、ふうふう息をはきながら、自転車に乗って必死で妹たちを探し回る、あの小太りの人物が、今まさに二人の前に姿を現そうとしている。
純にはなぜだかそれが分かっていたのだ。
1
シャベルで泥んこ遊びをしていた純が我にかえったとき、すぐそばにいたはずのはるは、またしても姿を消していた。
ああ、いけない!
いつものこととはいえ、純はようやく事の重大さに気づくのだった。
だいたい、はるという子はいつも何かを探しているのだ。
自宅の小さな庭で遊んでいるときも、兄が野球をしている小学校の校庭にいるときも。
いつだって妹は、お空の遠くの方を一心に見つめて、小さな指でその方向を指し示しながら、純に何かを言おうとするのであった。
そして妹は、言わんとすることが伝わらないと見るや、探し事をまっとうするために、あっという間に小さな旅に出てしまうのだった。
そのことの意味は4歳の純にはさっぱり分からなかったけれども、2歳にも満たない妹が空の向こうに何かを探し求めているということや、そのためにすぐにどこかに行ってしまうということは、そんな純にも何となくは分かるのであった。
そんなわけであるから、今日も純は、妹の動きに十分に注意しながらシャベルを使っていたのだが、いきなり飛び出してきた長くてにょろっとしたおぞましい生物に目を奪われているうちに、姉としての使命をすっかり忘れていたのだった。
その生物をもういちど泥で覆い隠すことにようやく成功した純が後ろを振り返ったとき、その視界には、開けっ放しになった庭戸がからからと虚しい音をたてているだけであった。
2
庭戸を見つめながら、純はとまどった。
自分1人でここから外の世界に出たことはない。
ちいさな妹のことを思った。
自分より言葉も早く、すべてにおいて要領がよく、お着替えも自分より上手な妹。
お風呂からあがっておむつをはかせてもらい、あとの着替えをすませてさっさと先に絵本を読み始めるのは妹のほうだった。
いつまでたっても素っ裸でお歌をうたってニコニコしているだけの純は、お風呂から最後に出てきた母親をいつもあ然とさせた。
嫉妬などという感情が芽生えていない彼女は、そんな妹と自分の違いには当然ながら気づいておらず、ただただ自分の世界を楽しんでいるだけであった。
だからこそ、彼女にとって妹は、ただそこにいるのが当たり前の存在であり、楽しい仲間なのであった。それが普段の純の心持ちだったのだ。
だが、妹がときおり小さな旅に出てしまったときは違う。
当然そこにいるはずの妹がいない。あのちいさな妹が。
この幼い姉は、そのときだけは、説明のつかない喪失感にかられて行動を始めるのだった。
途中で何かに目を奪われなければ・・・の話だが。
3
純は、何の気なしに空を見上げた。
妹がいつも見上げている空がそこにある。
真っ青な空に、やや控えめな雲が浮かんでいる。
空は純にとってのキャンバスのようなものだ。
そこにはコッペパンがあり、ショートケーキがあり、大好きな兄の顔があった。
4歳になっても言葉の遅い彼女は、そこで見つけた素敵なものを母親に伝えるすべがなかった。
ただうれしそうに母親のところに飛んでいき、一生懸命に空を指さしながら「あった、あった」と叫んでは母親の手にしがみつくのであった。
しかし今日のお空にはコッペパンもショーケーキも兄の顔も浮かんでいない。
ただの白いかたまり。
その白いかたまりをじっと見つめながら、純は頭の中でお空に絵を描き始めた。
たった今出会ったばかりの長くておぞましい生き物。
昨日の夜に食べたりんご。
りんごを食べ終わってから兄と遊んだ風船。
そういえば、あとから食べ終わった妹がそれを横取りしにきたのだった。
2歳にも満たない妹にあっという間に風船を奪われ、泣き叫んだときに抱きしめてくれた兄の、あんパンのような顔。
純は今度は兄の顔を描き始めた。
野球をやっている兄のことを思い出しながら、バットとボールもいっしょに描いた。
兄のバットがボールをたたく。
ボールは遙か彼方に飛んでいく。
飛んでいった先におひさまがある。だからおひさまも描く。
おひさまを描いてみて、すぐその近くにある本物の太陽と見比べてみる。
なかなかの出来映えに満足して、純は空に絵を描くのをやめた。
ふと前方の庭戸に目をやると、純はようやく我に返って、今自分がすべきことに思い至った。
「はるちゃん?」と純はつぶやいた。
4
純は口元をきゅっと結んで、庭戸を開けて外に出た。
いつも母親とそうしているように、まずは左に進路をとる。
ほどなくして左手にコンビニが見えてくる。いつもお菓子を買ってもらう店だ。
純はこのコンビニに入ろうとは思わなかった。はるが、この店をあまりお気に召さないことを知っていたからだ。
ちいさな妹は、生意気にも、この店に置いてあるお菓子には関心を示さなかったのだ。
妹が好きなのは、もう少しはなれたところにある駄菓子屋の麩菓子がなんといってもいちばん。
その次に好きなのは、家を出て反対方向にあるスーパーで売っているぶどう味のゼリーであった。
コンビニをやりすごして、純は進路を右にとる。
そこには横断歩道があった。
青信号と赤信号の違いはまだ分からないが、青になったときの雰囲気を肌で感じて知っていた純は、難なく道路の向こう側までたどり着いた。
5
信号を渡って左に行くと、ほどなくしてバス停が見えてくる。
街に買い物に行くときには、いつもここから母親といっしょにバスに乗る。
純はそのことを想い出し、バスに乗ろうかどうか、しばし考えた。
決めかねているうちにバスはやってきた。
ドアがガラっと開くと、中にいる乗客が見えた。
グローブを左手にはめてポンポンやっている男の子が正面に座っている。
純は、兄がいつもそうしているのを想い出し、思わず歩を進めてバスに乗り込んだ。
ドアが閉まり、バスは動き出す。もう後戻りはできない。
思いもよらないちいさな新客に、入り口付近にいた老婆が驚いて声をかけた。
「おじょうちゃん、ひとりで来たの?」
純は老婆が何を言っているかは分からなかったが、そういうときはいつも首を縦に振って「うん」というそぶりをみせることにしている。
「まあ」と言いながら、こんなちいさな子どもにこういうことをさせる親の顔が見てみたいものだと老婆は思った。そして、純を手招きし、自分の両足の間に抱きとめた。
そしてそんな老婆の文字通りの老婆心とは裏腹に、純は兄のことを想っていた。
6
兄のリュウは、5年生になる。
温厚で気の優しいリュウは、これといった取り柄もなく、したがって、親以外の誰からもほめられることもなく、目立たない子どもであった。
成長期の食べ盛りのせいか、小太りで、あんパンのような顔をしている。
野球が大好きで小学校の野球チームに入っているのだが、練習すれどもすれども上達せず、チームへの貢献度はほとんどなかった。
けれども純は、ふうふう言いながら重い身体をひきずって練習している兄の姿を見るのが好きだったし、何よりも、ときおり兄が見せるパワフルなバッティングが大好きだった。
めったにバットにボールが当たらない兄であるが、いざ当たったときの打球の勢いはすさまじく、そのときだけは周りの選手も感嘆の声をあげるのだった。
純は、そのような瞬間が何よりも好きで、兄のことを誇らしく思うのだった。
練習が終わると兄は真っ先に純とはるのところにやってくる。
抱きしめてくれる順番は自分が先である。必ず兄はそうしてくれるのだ。
家では純とはるのめんどうをみながら、左手にはグローブをはめ、片時も離さない兄なのだった。
7
バスが終点に着いた。
そこは駅のバスターミナルであった。
老婆は純を心配するあまり、そのまま交番に連れて行こうかどうか迷った。
しかしこのとき純は、既に心を決めていた。
グローブをはめた男の子をそのまま追いかけていこうと考えたのである。
この子を追っていけば、同じような野球仲間が何人か集まっているところにたどり着くかもしれない。もしそうなれば、そこには兄や、兄のチームの仲間たちがいるかもしれない。
そうすれば、はるがどこに行ったか分かるかもしれない。
漠然とではあるが、純はそう考えたのである。
心配そうな老婆をよそに、純は男の子の後を追った。
運転手がポカンとそれを見送っている。こんなちいさな子どもから運賃を取ることもできないから、とにかく見送るしかなかったのである。
男の子は、バスを降りてすぐ正面にあるイトーヨーカドーに入っていった。
8
男の子は、手にグローブをはめたままエスカレーターに乗る。
純もすぐに後を追う。
彼は、4階にある通称「プレイランド」に入っていった。
見覚えのある光景が目に飛び込んできた。
家族でここに来たことがある。
兄はカードゲームで遊び、純とはるは、幼児の積み木コーナーで遊んだのだ。
純は、男の子がたどり着いた先に兄や野球仲間がいないことを知ってがっかりした。
しかしそれでもはるを見つけなければならない。
何が自分をそうさせているかは分からないけれども、純は無我夢中でフロア中を探し回った。
積み木のところにもいない。ぬいぐるみのところにもいない。
カードゲームのところにも、着せ替え人形のところにもいない。
純は泣きたくなった。
涙が、下まぶたのすぐそこにまで迫っていた。
9
涙をこらえながら、純は、何の気なしに下りのエスカレーターに乗り込んだ。
1階に戻り、外に出ると、ついさっき乗ってきたバスが、折り返しで戻るために出発しようとしているところであった。
これに乗ればおうちに帰れる。
そう直感して、純は再びバスに乗った。
ここでも小さな乗客にまわりの大人たちは驚いて、ひとりの妊婦が純をとなりに座らせた。
純は、ちいさな身体を乗り出して懸命に車窓を眺めた。
自分が降りるべき場所を見逃さないためである。
窓の外の景色はみるみる変わり、左手にファミリーレストランが見えてきた。
これを通り過ぎてもう少し行けばおうちのそばのバス停に着く。
そのとき、純の目に、ちいさなちいさな人影が飛び込んできた。
歩道のはしっこに、妹によく似た女の子がしゃがんで何やら熱心に見ている。
はるだ。
本来降りるべきバス停ではなかったが、ここで降りなければならない。
こういうときはどうすればいいのだろうか。
「や・め・てー!」
純はとっさにそう叫んでいた。
バスに乗っていたありとあらゆる客が振り返って純を見た。
純はありったけの声を絞り出してもう一度叫んだ。
「や・め・てー!」
運転手は、この2回目の叫びを聞いて、訳の分からないまま、反射的に降車側のドアの開閉ボタンを押していた。
純はいちもくさんに駆け出し、ポカンと見送る運転手の横をすりぬけて降車側ドアから外に出た。
10
バスを降りると、そこは大型ドラッグストアの駐車場であった。
ちいさな妹は、その駐車場のコンクリートが割れたわずかな隙間に視線を集中させながらしゃがんでいた。
足音をしのばせながらゆっくりと妹に近づいていく。妹の邪魔をするのがはばかられたからである。
純は、愛しい妹をいまにも抱きしめたくなるのをこらえながら、妹の背後から、妹が熱心に見ているものを覗いた。
あざやかな黄色をしたタンポポが、たった一輪ではあったけれども、生き生きとした姿を見せていた。
そして、声をかけた。
「はるちゃん」
妹は肩をぴくりとさせてこちらを振り返った。
「はるちゃん、はる!」
妹は、自分の視界に入ってきた女の子の顔を見上げ、しばし見入った。
姉は、今度は今までの倍くらい優しい声で、こう言った。
「はるちゃん、あたち、あたち、来たのよ。おねえちゃんよ。」
はるは、いちばん来てほしかった人が来てくれたことをその瞬間に認識した。
そして、思い切り泣き出した。
純はそんな妹を力一杯抱きしめながらこう言った。
「あたちよ。あたち、来たのよ。おねえちゃんなのよ。」
はるは泣きに泣いた。なぜここまで来てしまったのか、そんなことが分かるわけもない。
お空の雲を追いかけているうちに、たかだか100メートルのちいさな冒険ではあるけれど、長い長い旅を続けてきたのだ。
姉の方は、普段の自分からはあり得ないほどの鋭敏さでここまで妹探しの冒険をしてきたけれども、自宅からわずか100メートルのところで妹を発見した今、喜びと安堵感からか、さてこれから自分は妹を連れてどう帰ったらいいものか、まったく分からないのであった。
それでも純は慌てることはなかった。
なぜなら、はるにとっての純がそうであったように、純にとっていちばん来てほしい人物が、すぐそこにまでやってきていることを、なぜだか感じ取っていたからだ。
ほっぺをぷるんぷるんとさせながら、ふうふう息をはきながら、自転車に乗って必死で妹たちを探し回る、あの小太りの人物が、今まさに二人の前に姿を現そうとしている。
純にはなぜだかそれが分かっていたのだ。