第六章

  第六祖、弥遮迦尊者に、有る時五祖が教えた。佛は言われた、「仙人になろうと修行するのは嫌がる人間を縄で引っ張るようなものだ」と。「だから君は自分自身で気付くべきだ。小川の流れに小舟を浮かべるよりは、広々とした海があることを。自己の生命は自身の思いを超えていることを」と。それを聞いた弥遮迦尊者は初めて気付いた。

 

  第六祖、彌遮迦尊者、五祖因みに示して曰く、佛言く、仙を修し小を学するは、似繩の牽挽するに似たり。汝、自知すべし。若し、小流を棄すれば、頓に大海に帰し、。当に証無生を証すべしと。師、聞て契悟す。(本則及び現代語訳) 

 

 この段は仏道修行とは大小を比較することでなく、自己の物差しで測ることを止めて仏の眼を見開くべきを教える。むかし不老長生の仙術を習得した者が木の上で坐禅をしていた。木の上での修行を続けると二百年の寿命を得られるというのです。そこへインドから来た高僧が、その故を訊ねると彼は、「これは200年の寿命を生きる法だ」と答えると、高僧は「それで201年めはどうなるか」と質問したら、彼は途端に木から落ちて、永遠の寿命の世界に眼を見開いたといいます。これは古来曇鸞上人が菩提流支三蔵に諭されて浄土門に転向した逸話です。ただ曇鸞が木の上で坐禅したという文献は見当たらず、むしろ禪門では鳥窠道林の話が有名です。五祖提多迦尊者までは古来「異世の五師」としてインドの古い文献に繁く登場しますが、この六祖以降は、インドでは専ら『付法蔵因縁伝』のみに記載されます。そこでは弥遮迦尊者について法の系譜だけが述べられその他の記述がありません。太祖様はどこからこの本則を引用したかと言えば、これは恐らく『宗門聯灯会要』という中国南宋の晦翁悟明が、淳熙十年(1183)に編集したものと考えられます。この『会要』も『宝林伝』や『景徳伝灯録』に掲載される記述を継承しています。要約すればこれらはインドの伝承ではなく、中国で成立した説となりそうです。以下に記される太祖の機縁は『景徳伝灯録』によると思われます。内容も仙という不老長生の法を求めるよりは永遠の生命を生きよと諭します。  弥遮迦尊者は中インドの人であり、かつて八千の仙人の統領となった。ある時、仲間を連れて、提多迦尊者にお逢いして言った。「私はむかし貴方と一緒に梵天に生まれました。私は阿私陀仙人にお逢いして仙人の道術を受けましたが、貴方は仏さまにお逢いして禅定を修習しました。これによって果報を異にし、進む道も別となり、既に六劫という長い時間を経過しました。尊者はそれを聞いて語った、「互いに離れ離れになって長い時間を経過しましたが、その因縁は決して空しくはなく、現に君は誤った道を離れ、正しい教えに出逢いました。だから君は今こそ仏の教えに帰依すべきだ」と。弥遮迦が言った、むかし阿私陀仙人が、私に予言して言いました。「君はこれから六劫を経過して、修行の仲間に出逢い最高の悟りを得ることになる」と。いまここで貴方にお逢いできたのは、間違いなく過去のご縁が成就したのだと思います。ですからどうか和尚様、ご慈悲をもって私を解脱させてくださいと。そこで、提多迦尊者は出家得度をゆるした。仲間の仙人たちは、初めは自分の能力を過信して提多迦尊者の言葉を信じなかった。そこで尊者は、神通力を示したので、仙人の仲間達は菩提心を発し、一緒に出家することになった。

 

  師は中印度の人也。八千仙人の長者と為れり。一日衆を率いて、提多迦尊者を瞻礼して曰く、吾れむかし師と同じく梵天に生ずるに、吾れ阿私陀仙人に遇ひて仙法を受く。師は十力弟子に遇ひて禅和を修習せり。是れより報分れ途を殊にし、已に六劫を経たりと。尊者曰く、支離して劫を累ぬ。誠なる哉虚しからず。いま汝邪を捨て正に帰し、以て佛乗に入るべしと。師曰く、むかし阿私陀仙人、授けて我れを記して曰く、汝、却後六劫にして。当に同学に遇いて無漏果を証すべしと。いま也た相遇するは、宿縁に非ざるや。願くは和尚、慈悲をもて我れを解脱せしめよと。尊者、時に出家受具せしむ。余の仙衆、初めは我慢を生じたり。時に尊者、大神通を示すに、仙衆此に倶さに菩提心を発し、一時に出家す。  ゆへに八千仙衆、八千の比丘となりて、相したがひて出家せんとせしきざみ。尊者示して曰く、佛言はく。仙を修するは小を学すと。乃至師、聞いて契悟す。{機縁及び現代語訳} 

 

 語註―弥遮迦尊者(Miccaka 前180頃-100頃)  梵天ー仏教の守護神。古代インドの神ブラマーが仏教に取り入れられたもので、十二天に含まれる。梵はbrahmanの音写。 ブラフマーは、古代インドにおいて万物実存の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。釈尊が悟りを開いた後、その悟りを広めることをためらったが、その悟りを広めるよう勧めたのが梵天と帝釈天で、この伝説は梵天勧請という。天部(六道や十界の一つである天上界)は、さらに細かく分別されるが、色界十八天のうち、初禅三天の最高位(第三天)である大梵天を指して「梵天」と言う場合もある。神としての梵天はこの大梵天に住み、その下の第二天である梵輔天には、梵天の輔相(大臣)が住み、さらにその下の第三天の梵衆天には、梵天の領する天衆が住むという。六劫―劫は仏教用語で、極めて長い宇宙論的な時間の単位。 梵語のカルパ kalpaの音写。阿私陀仙人ー(Asita〕 中インドの仙人。釈尊の誕生に際してその相を占い、家にあれば偉大な帝王となり、出家すれば人類を救う仏陀(覚者)となると予言した。阿私。阿私仙。禅和ー梵語の dhyāna(ディヤーナ/パーリ語 jhāna ジャーナ)の音写、音写である禅那から来る。他に駄衍那・持阿の音写もある。他の訳に思惟修・静慮もある。十力―菩薩が人々を救うために使う十種の力のこと、ここでは仏弟子となった事を言う。

 

  それ仙を学し、寿命長遠なることをゑ、神通妙用をうるといへども、過去八万劫未来八万劫を通理するのみ、前後遠くかんがみることなし。非相・非非想を修して、無心想定に入るといへども、かなしむらくは、非想天に生じ、長寿の天となりて、色体をうしなふことはゑたりといへども、なをこれ業識流注の分あり。佛に参ずることもゑず、道に通ずることもゑず。かの業識の報つくるとき、かへりて無間獄に墮在す。ゆへになはのひきまつうに似たり、つゐに解脱の分なし。小乗学者は初果を証し・二果を証し・三果を証し・四果を証し・独覚を証すといへとも、なをこれ身心中の修習、迷悟中の弁道なり。これによりて初果の聖者、八万劫をへて始めて初心の菩薩となる。二果の聖者は。六万劫をへて始めて初心の菩薩となる。三果の聖者は。四万劫をへて始めて初心の菩薩となる。独覚の聖者は。十千劫をへて菩薩道に入る。善因つゐに帰すといへども、うらむらくは、これによりて輪転の業なをたへず。またこれなはの牽挽するに似たり。本解脱の人にあらず。実にそれ八十八使の見思・塵沙無量の惑を破して。纖塵のとゞむべきなく。一毫の惑なしといへども。徒に有為功業にして。つゐに無漏の佛果にあらず。然れば本にかへり源にかへる。待悟為則の弁道。悉皆これに類す。ゆへに諸人者、無をも要することなかれ。おそらくは落空亡の外道に同ふしつべし。空劫威音にとまるべからず。またこれ魂不散底の死人に似たり。妄法の空華をとヾめて。真実の本性に達せんとおもふことなかれ。却てこれ無明を断じて中道を証するの聖者に類す。雲なきところに雲をおこし。玼なきところに疵を生ず。あだかも他国に伶俜するの窮子なるべし。無明迷醉の貧客なり。おもふべし。汝はこれ誰人なれば。生前ととき・死後ととく。更になんの過・未・今をか存せん。曠劫以来片時もあひあやまることなし。生より死に至る、たヽこれ恁麼なり。然りといへども。一度築著せざれば。徒に根境に迷惑して。自己をしらざるものなるべし。目前をうとくするなり。ゆへに身心の生起するところをもしらず。万法の流出するところをもわきまへず。ゆへなくはらはんとおもひ。ゆへなくもとめんとねごふ。かくのごとくなるゆへに。佛をしてわづらはしく出世せしめ。祖師をしてねんごろに垂誡せしむ。恁麼に垂誡して手をたるといへども。なを自己の知見に迷惑せられて。あるいは不知ととき。あるひは不分ととく。真個無明なるにもあらず。親切函蓋するにもあらず。徒に思量計較の中にありて。正邪を見別し来る。しらずや汝ぢら諸人。呼ぶにしたがひて応じ。指にしたがひていたる。これ擬慮より生ずるにあらず。覚知より起るにあらず。まさしくこれ汝ぢが主人公なり。その主人公面目なく体相なし。然れども動著してやむ時なし。これによりてこの心生じ来る。これを名けて身といふ。この身あらはれてより。然も四大・五蘊・八万四千の毛孔・三百六十の骨節。合成して汝ぢらが一身たり。玉の光りあるに似、声の響を帯するがごとし。ゆへに生来死去。一時もかげたるところなく。一時もあまれるところなし。恁麼の生滅。生ずれども生の始めなく。死すれとも死の跡なし。恰も海中の波浪おこりて痕なきがことく。また波浪の滅せざるがごとし。去り去れどもかつて別処にゆかず。たヾ海の消息として、大波小波起つてきへず。汝ぢらが心もまたかくのごとし。動著してやむ時なし。ゆへに皮肉骨髓とあらはれ来り。四大五蘊と使用し来る。また桃花翠竹とあらはれ来り。得道明心と悟証し来る。声色品分れ。見聞道異なり。著衣喫飯と受用し。言語事業と運用す。分れ分れども差別の法にあらず。あらはしあらはるれども体相にとヾまらず。恰も幻人の諸の幻術をなすがごとく。夢中に諸の形像を出生するがごとし。鏡中に万像千変万化すといへども。只この一面の鏡なり。もしかくのごとくしらざれば。徒に仙を修し小を学し来らば解脱の期なし。諸人ことごとくこれ縛するものなし。なんそ新に脱するあらんや。迷悟もとよりなく。縛脱さきよりはなる。これ無生なるにあらずや。これ大海なるにあらずや。小流いづれのところにかある。塵刹微塵刹ことごとく法界海なり。渓流瀑漲江河旋洄する。みなこれ海上の溌転なるなり。而ふしてすつべき小流なく。とるべき大海なし。恁麼なるゆへに節目おのづから除けり。旧見一度に改まりき。仙を捨て出家す。これすなはち宿縁契発するなり。しかも諸人恁麼に参来参去し。心語即通す。実にこれ親友与親友相見し。自己与自己点頭し来る。ともに性海中に游泳して。片時も隔歴することなし。実に恁麼に感発せば。すなはちこれ宿縁あらはるべきなり。見ずや。馬大師曰く。一切衆生、從無量劫来より、法性三昧を出ず。常に法性三昧の中に在て、著衣喫飯。言談祗対。六根運用。一切施為。尽是法性なりと。かくのごとく云ふをきヽて。法性の中に衆生ありと会すべからず。法性といひ衆生といふ。水と波といはんがごとし。ゆへに言によりて水ととき波ととく。あにこれ多種あらんや。今朝又因縁を説破するに、更に卑頌あり。大衆聞かんと要すや麼 {拈提} 

 

  語註 有頂天―梵Bhavāgra)は、仏教の世界観の一つであり、天上界における最高の天をいう。非想非非想天、あるいは非想非非想処とも言う。有(Bhava=存在)の頂(agra)を意味している。下から欲界・色界・無色界の三界のうち、無色界の最高の処を指す。『倶舎論』では、三界の中で最上の場所である無色界の最高天、非想非非想天が、全ての世界の中で最上の場所にあることから、有頂天と言う。非想非非想処天とは、この天に生じる者は、下地の如き麁想なきを以て「非想」、または「非有想」といい、しかも、なお細想なきに非ざるを以て「非非想」、または「非無想」という。非有想なるが為に外道は、この天処を以て真の涅槃処とし、非無想なるが為に内道を説く仏教では、これを生死の境とする。漢訳の『法華経』では、三界の第二位に位置する色界の第十八最高の天である色究竟天、梵語:Akanistha、音訳:阿迦尼咤天を「有頂」と訳したことから、これを有頂天とし、仏教一般の説とは異なる。他国に伶俜するの窮子―「法華経信解品」による。家出をして長い間放浪し、困窮した窮子を、父親である長者が見つけ、彼を賤業に使い次第に後継者としてふさわしい者にしたてたのち、父であることを明かし財宝を譲る。仏が機の熟するのを待って衆生に教えを説いて救うに譬えた。馬大師曰くー『古尊宿語録』一、馬祖の語 。

 

 太祖様の提唱は「諸人ことごとくこれ縛するものなし。なんそ新に脱するあらんや。迷悟もとよりなく。縛脱さきよりはなる。これ無生なるにあらずや。これ大海なるにあらずや。小流いづれのところにかある」という言葉に集約されます。そのことを教えるために、この段の冒頭に「それ仙を学し、寿命長遠なることをゑ、神通妙用をうるといへども、過去八万劫・未来八万劫を通理するのみ」と説破されます。色々な専門用語を用い、漸教による修行の階梯を説いて、それらがすべて仮の教えであることを悟らせようとしています。この事を馬祖道一禅師の言葉を挙げて具体的に示します。「一切衆生は、無量劫のむかしより、法性の働きをはみ出る事がない。常に法性の働きの中に在て、袈裟を掛け食事を摂り、周囲に語り掛ける。このようにすべての生命活動がすべて法性という佛の生命の発現なのだ」と。この段はあまりにも長い説示のために、どうかすると太祖の教える「諸人ことごとくこれ縛するものなし。なんそ新に脱するあらんや。迷悟もとよりなく。縛脱さきよりはなる。これ無生なるにあらずや。これ大海なるにあらずや。小流いづれのところにかある」を見失いがちです。そこで末尾に「今朝はこの昔話のまとめとして拙い詩を述べよう。諸君、聞いてくれるかな!」 

     たとえ大空が秋の谷川の水が澄んで清らに見えても、どうして春の夜の朧月夜にはかなわない。

     人はよく清廉潔白を望むが、身の穢れ心の闇を除こうとすればするほどに返ってそれらが際立つことになる。

         縱ひ連天秋水の潔き有るも、何ぞ春夜、月の朦朧たるに如かん。

        人家多くは是れ清白を要す。掃ひ去り掃ひ来て、心未だ空ならず。            

               (縱有連天秋水潔 何如春夜月朦朧 人家多是要清白 掃去掃來心未空) {頌古及び現代語訳}