第二章

  第二祖、阿難陀尊者が、迦葉尊者に質問した。兄弟子は釈尊から金襴の袈裟を頂いたけれど、それ以外には何を戴きましたか。すると迦葉は「阿難よ」と声をかけたので、阿難は返事をしました。そこで迦葉は阿難に命じた。「門の前に立ててある幟(のぼり)を倒してくれ」と。それを聞いて阿難は大悟した。

 

  阿難陀尊者、迦葉尊者に問ふて曰く、師兄、世尊、金襴袈裟を伝ふるの外、別に箇の什麼をか伝へんや。迦葉、阿難と召すに、阿難応諾す。迦葉曰く、門前の刹竿を倒却せよと。阿難大悟す。 {本則} 

 

 それ阿難尊者は王舍城の人也。姓は刹帝利、父は斛飯王。実に世尊の従弟なり。梵語には阿難陀といひ、ここには慶喜といひ、または歓喜といふ。如来成道の夜にうまる。容顏端正にして、十六大国も隣とするなし。みるごとに歓喜す。ゆへに名とす。多聞第一にして。聡明博達なり。佛の侍者として二十年。佛の説法として宣説せざるなく。佛の行儀として学しきたらざることなし。世尊迦葉に正法眼蔵を傳付せしきざみ。おなじく阿難に付囑して曰く。副貳伝化すべしと。これによりて迦葉にしたがふこと亦二十年して。所有正法眼蔵ことごとく通達せずといふことなし。{機縁} 

 

 この段はもともと兄弟弟子であった二人が、お互いの努力で師匠と弟子へと変貌して行く様子が語られます。先ず弟弟子の阿難様は兄弟子の迦葉尊者に質問します。たしかに迦葉様は釈尊から金襴もしくは糞掃の僧伽棃衣を法の継承者の証しとして付与されたが、それだけで兄弟子の価値が上がるのでないと考えたかもしれません。そこで迦葉様は自分には理解できない、「何か特別なものを世尊から受け継いだのではないか」と考えるのも無理がありません。そこでこの質問です。既に阿難様は世尊から「迦葉を支えて法門を広めなさい」と言われました。これも大切な遺言です。しかし「私にも何かすることが有る筈だ。」との思いが、この質問となったと思います。  すると迦葉様が「門の前に立ててある幟を倒してくれ」と答えたので。それを聞いた阿難様は覚りを開きました。昔からお寺の住職が一人前になって、法の指導者となったことを宣言するために、お寺の庭や門前にのぼりを立てました。これを法幢を建てるといいました。ところが、それまでは迦葉様の法幢が立っていたのに、それを倒してくれというのは、迦葉様は「次の法の継承者はお前だ」と委嘱したことになります。これはまごまごできません。自分が責任を負わなければならないからです。その自覚をここでは「大悟」と表現したのです。

 

  語註―阿難 あなん:Ānandaアーナンダの音写略、釈尊十大弟子の一人。釈尊成道の夜に生まれたといわれる。大智度論によると、彼の父である斛飯王(こくぼんのう、ドロノダーナ)が、釈尊の父浄飯王(じょうぼんのう、スッドダーナ)のもとに使者を送り、阿難の誕生を知らせた時、浄飯王は非常に喜んだので「アーナンダ(歓喜)」と名づけられたという。阿難の出家は釈尊五十五歳、阿難二十五歳とされる。出家後、釈尊入滅まで二十五年間常に近侍した。そのため釈尊の弟子の中で教説を最も多く聞きよく記憶していたので「多聞第一」といわれ、第一回の経典結集には彼の参加が望まれたが、阿羅漢果を未だ得ていなかったので摩訶迦葉は、阿難の参加を認めなかった。そのため彼は熱誠を込めて修行を続け、その疲れから寝床に倒れた拍子に忽然と悟り、ついに阿羅漢果に達したという。それが経典結集当日の朝とされる。王舎城・七葉窟ー(畢婆羅窟)にて行われた第一結集に参加した阿難は、記憶に基づいて佛の教えを口述し、経典が編纂されたという。漢訳経典の冒頭の「如是我聞」という定型句の「我」は多くが阿難だとされる。阿難の出身地は仏と同じカピラエ城が正しい。(紀元前428~348頃) 

  

 それ祖師の道の他家に類せざること、これをもて証本とすべし。阿難すでに多聞第一、広学博達なり。佛まのあたり聴許しましますことおおし。然れどもなほ正法を伝持し、心地を開明することなし。迦葉、畢婆羅窟にして如来の遺教を結集せんとせしとき、阿難未証果なるによりてかの室に入ることをゑず、ゆるさず。時に阿難密に思惟して、すみやかに阿羅漢果を証す。而して入んとするに迦葉のいはく、すでに証果せば神通を現じて入るべしと。時に阿難小身を現じて。かぎの穴よりいる、終に畢婆羅窟にいる。諸弟子ことごとくいはく、阿難は佛の給士として多聞にして広学なり。一器の水を一器に伝ふるがごとし。すこしも遺漏なし、ねがはくは阿難を請して再説せしめん。迦葉阿難につげていはく、衆ことごとく汝ぢをのぞむ、汝ぢふたヽび座にのぼり、請ふ宣説せよ。

  時に阿難密に如来の付囑を護し、また迦葉の所請をうけて、ついに立て衆の足を礼し、座にのぼりて、如是我聞一時佛住と宣説して、一代の聖教ことごとく宣説す。迦葉諸弟子につげて曰く。如來の所説とかわれりやいなやと。諸弟子曰く、如来の所説と一字もかわれるなしと。諸弟子はみなこれ三明六通の大羅漢なり、きヽもらすことなし。異口同音に曰く、しらずこれ如來再来しましますか。これ阿難所説かと疑がふ。「佛法大海の水、流れて阿難身に入る」と讃歎す。  如来の所説いまに流伝す、阿難の所説なり。実にしる。この道は多聞によらす、証果によらざることを。これをもて証据とすべし。然もなお迦葉にしたがふこと二十年。いまの因縁のところにしてはじめて大悟す。すでに如来の成道の夜うまれし人なり、華厳等はきかざる所なり。しかれども佛の覚三昧をゑて。所不聞を宣説す。然れとも祖師道におひて不入なることは。我等が不入と全くもて一同なり。

  抑も阿難は乃往過去のむかし、空王のみもとにして、今の釋迦佛と同時に阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。阿難は多聞をこのむ、ゆへにいまだ正覚を成ぜず。釋迦佛は精進を修しき。これによりて等正覚を成じたまふ。実にしる。多聞は道の障礙たることこれその証据なり。ゆへに華厳経に曰く。「譬へば貧窮人の他の宝を算へて、自ら半錢の分無きが如し。多聞もまた復た是の如し。」と。親切にこの道に訣着せんとおもはヾ、多聞をこのむことなかれ。直に勇猛精進すべし。然るに敢保すらくは、伝衣の外更に事あるべしと。因てある時問曰。師兄。世尊傳金襴袈裟。外別傳箇甚麼。迦葉時いたることをしりて。召阿難。阿難應諾。迦葉こゑに應じていはく。倒却門前刹竿著と。阿難こゑに應じて大悟す。佛衣自然に阿難の頂上に來入す。その金襴の袈裟といふは。まさしく七佛伝持の袈裟なり。

  是より以下十行は注なるべし。一本に有之故に。爰にのせおくなり。

  かの袈裟に三の説ありあり。一つは如来胎内より持すと。一つは浄居天より奉ると。一つは猟師これを奉ると。また外に数品の佛袈裟あり。達磨大師より曹溪所伝の袈裟は。青黒色にて屈眴布なり。唐土にいたりて青きうらをうてり。いま六祖塔頭におさめて国の重寶とす。これ智論にいはゆる、如来著麁布僧伽黎と。これなり。かの金襴は金氎なり。経曰。佛姨母手自紡 金氎袈裟持上佛と、これなり。是多品中の一二のみ。その靈驗のごときは数多の因縁経書にあり。むかし婆舍斯多尊者。悪王の難にあふて火中に五色の光明をはなつ。火滅して後佛袈裟安然たり。佛衣なることを信ず。  上の十行は瑩祖の自注なるべし 慈氏に伝授する。それこれなり。

  二祖阿難章の主題は兄弟子の迦葉尊者が仏から金襴のお袈裟を伝承した以外に「何か伝承したものはないか」と迦葉尊者に質問する所から始まります。しかし迦葉尊者からの答は「門前の幟はたを倒してくれ」でした。しかしよく考えてみると阿難は仏の侍者として二十五年もそば近く仕えた弟子ですから、仏の教えは何でも理解しているはずだけれども、仏滅後に及び、仏に代わって教団を統率するといことは、全く考えていなかったわけです。そこで太祖様は「実にしる。この道は多聞によらす、証果によらざることを。これをもて証据とすべし。然もなお迦葉にしたがふこと二十年。いまの因縁のところにしてはじめて大悟す。」と述べ、仏道修行は決して博識多聞やら、一時的な覚醒省悟の問題ではなく、全く本人の自覚以外にないことを指摘します。  これに関連して太祖様は『法華経授無学人記品第九』を引用し、「抑も阿難は乃往過去のむかし、空王のみもとにして、今の釋迦佛と同時に阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。阿難は多聞をこのむ、ゆへにいまだ正覚を成ぜず。釋迦佛は精進を修しき。これによりて等正覚を成じたまふ。実にしる。多聞は道の障礙たることこれその証据なり。」と述べています。そこで更に「ゆへに華厳経に曰く。「譬へば貧窮人の他の宝を算へて、自ら半錢の分無きが如し。多聞もまた復た是の如し。」と。親切にこの道に訣着せんとおもはヾ、多聞をこのむことなかれ。直に勇猛精進すべし。」と拈提します。私たちはよくよく、師匠からの形見分けの物品以外の「師と弟子」との掛け替えのない出逢いを大切にせざるを得ないのです。それに気が付いた阿難様には迦葉様が仏から伝承した金襴のお袈裟が自然と覆いかぶされたとされます。これは兄弟子の厚遇を羨む事でなく、自身の法門継承の覚悟そのものなのです。それだからこれは釈尊以前に出られた毘婆尸仏から迦葉仏に到る過去仏からの伝承のお袈裟を頂いたことになります。そこで「敢保すらくは、伝衣の外更に事あるべしと。因てある時問曰。師兄。世尊傳金襴袈裟・・・・大悟す。佛衣自然に阿難の頂上に來入す。その金襴の袈裟といふは。まさしく七佛伝持の袈裟なり」とつながるわけです。

   次の数行は瑩山様がお袈裟に就いて自身で補注をしています。

  お袈裟については三点が言われます。一つは仏が生まれた時からもってきたもの。 次は天人が授けた物、もう一つは猟師が供養したものです。あその他幾つかのお袈裟があります。達磨大師がインドから持ってきて、曹溪六祖の道場に伝えられたもの。これは靑みがかった黒色の木綿でできており、中国に伝えられてから青色の裏衣をそえた。現在では六祖の塔におさめて国宝となっています。先ほどの金襴衣とは野蚕や綿布に金糸などで模様を現わした織物だが、『賢愚経』巻十二には「仏の姨母マハーパジャパティーが、仏すでに出家したので、自分で糸を紡ぎ、布に織り上げ、縫い上げたお袈裟を差し上げた」と出ている。

  これらはたくさんの前例の一二であり、その霊験は数多く経書に出ています。

  むかし婆舎斯多尊者が悪王のために得法の信衣を焼かれたとき、五色の光を放ち、袈裟は元のままだったので、王は仏の法を敬った。  以上の十行は瑩山禅師の自註です。  これらの袈裟は自分が搭けるのでなく、未来仏の弥勒菩薩に伝授するものです。

  正法眼蔵両人に付囑なし。たヾ迦葉一人如来の付囑をうる。また阿難二十年給士して正法を伝持す。然ればこの宗教外別伝あることをしりぬべし。然るに近来おろそかにして一同とす。もし一同ならば。阿難はすなはち三明六通の羅漢。如来の付囑をうけて。第二祖阿難といはん。いま経教を会せんこと、阿難にまさる人あらんや。もし阿難に超過する人あらばゆるすべし、教意一なりと。もしたヾに、一なりといはば、なんぞ煩らはしく二十年給士し、いま倒却刹竿著のところにしてあきらめん。しるべし、経意・教意もとより祖師の道とすべからず。佛の佛ならざるにあらず。給士してたとひ侍者たりといへども、佛心に通処なくんば、いかでかその心印を伝ん。多聞広学によらざることしるべし。たとひ心さとく耳ときによりて、諸々の書藉聖教をもて、一字も遺落するところなく聞持すといへども、心もし通ぜずんば、徒にとなりの宝らを算ふるがごとし。うらむらくは経教にそのこヽろなきにはあらず。然れども阿難未通によりてなり。なにいはんや、東土日本依文解義。経のこヽろをゑざるをや。更にしるべし、佛道ゆるかせならざることを。一代聖教に通ずる阿難、如來の弟子として宣説せんに、たれかしたがはざらん。然れども迦葉に給士し、したがひて大悟の後、再び宣説せしことを。しるべし。恰も火の火に合するがごとく。明かに実道に参ぜんとおもはヾ。己見旧情憍慢我慢をすて、初心を迴し、佛智を会すべし。いはゆるいまの因縁、ひごろは金襴の袈裟を伝へて。佛弟子たるの外さらに別なしとおもへり。然れども迦葉にしたがひて。したしく給士してのち、さらに通ずることあることを。迦葉時すでにあひかなふことをしりて阿難を召す。あだかも谷神のよぶにしたかひ響をなすがごとし。阿難すなはち応ず、石火の石をはなれて出るがごとし。

  それ阿難と召すも阿難をよぶにあらず。ひヾき応じ答ふるにあらず。倒却門前刹竿着といふは。西天の法に。佛弟子および外道等論義せんとするとき、両方にはたをたて。もし一方まくるとき。すなはちこのはたをおりたおす。まくるとき鼓鐘をならさずしてまくるを表す。いはゆる今の因縁も、迦葉と阿難とあひならんではたをたてるがごとし。こヽにいたりて阿難すでに出身すれば、迦葉はたをまくべし。一出一沒なり。然れども今の因縁しかにあらず。迦葉もこれ刹竿、阿難もこれ刹竿。もし刹竿ならばこの理あらはるべからず。刹竿一度倒るヽとき、刹竿すなはちあらはるべし。迦葉倒却門前刹竿着と、指説するに、阿難師資の道通ずるによりて、言下に大悟す。大悟ののち。迦葉もすなはち倒却し。山河みな崩壞す。これによりて、佛衣自然に阿難の頂上に来入す。然れどもこの因縁をもて、赤肉團上壁立千仭にとヾむることなかれ。淨潔にとヾまることなかれ。すヽんで以て谷神のあることをしるべし。諸佛番々出世し。祖師代々指説す。たヾこれこの事なり。心をもて心をつとふ。ついに人のしるところにあらず。たとひあらわれたる赤肉團。迦葉・阿難もこれ那人の一面。両面に出世するなりといへども。迦葉・阿難をもて那人とすることなかれ。いま汝等諸人箇々壁立萬仭せる。かの那人の千變萬化なり。もし那人を識得せば。諸人一時に埋却せん。もししからば。倒却刹竿を我外に求むべからず。

  今日大乘子孫また著語せんとおもふ。諸人要聞麼 {拈提} 

 

 以上の拈提はほぼ理解できたますが、瑩山禅師が最も強調するのは、「諸佛番々出世し。祖師代々指説す。たヾこれこの事なり。心をもて心をつとふ。ついに人のしるところにあらず。たとひあらわれたる赤肉團。迦葉・阿難もこれ那人の一面、兩面に出世するなりといへども。迦葉・阿難をもて那人とすることなかれ。いま汝等諸人箇々壁立萬仭せる。かの那人の千変万化なり。もし那人を識得せば。諸人一時に埋却せん。もししからば。倒却刹竿を我外に求むべからず。」にあります。ここにきて初めて佛道修行、参師聞法が成立します。私の師匠は「仏道修行とは不完全な師匠と弟子が、いかにして完全な出逢いが出来るかを極めあう事です。」と教えましたが、この瑩山様の言葉でいまさら少し腑に落ちました。私もまだまだ弟子のため、自身の修行のために努力しなければなりません。  ここで瑩山様も参師聞法の締め括りとして一句を出します。お聞きしよう。

    藤の花は枯れ、蔓も倒れれば山肌も崩れ    谷川の水は急流となって火打石のように光っている 

      藤枯れ樹倒れて山崩れ去る。 溪水の瀑漲て石火に流る。(藤枯樹倒山崩去 溪水瀑漲石火流{頌古} 

 

  語註―十六大国ー、経典に記されたブッダ時代のインド諸国の総称。経典によって若干の相違があるが,パーリ語原始仏教経典によれば,アンガ,マガダ,カーシ,コーサラ,バッジ,マッラ,チェーティ,バンサ,クル,パンチャーラ,マッチャ,スーラセーナ,アッサカ,アバンティ,ガンダーラ,カンボージャである。畢婆羅窟ーピッパラくつ、七葉窟ひちようくつ 王舎城北西側の山頂を少し下った洞窟。仏滅後、五百人の阿羅漢に阿難尊者を加えて、第一結集ー「第一回仏典結集」が行われた。「如是我聞」ではじまるお経が誕生した聖地。ヒンズー教徒が湯浴みする温泉精舎から階段と参道を辿って訪れる。登り口から直線で約一㎞だが、登り口から一気に150m程を階段で上るため、通常往路に約一時間を要する。阿羅漢果ーあらかんか 仏教における修行の階位で、預流果、、一来果、、不還果、、阿羅漢果をいう。これを「向」とは修行の目標、「果」は到達した境地を示す。八種の段階にある。 預流とは聖者の流れに入ることで、最大七回欲界と天の間を生れかわってれ開く位。一来は一回人と天の間を往来して至る位。不還は欲界には再び還らず色界に至る位。阿羅漢は今生の終りに涅槃に至り再び三界には生れない位。三明六通ーさんみょうろくつうー神足通、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、漏尽通。この中、天眼通・宿命通・漏尽通を三明という。阿耨多羅三藐三菩提心ーあのくたらさんみゃくさんぼだい 〔梵 anuttarasamyaksaṃ bodhi無上正等正覚、正覚などと訳す〕 仏の悟り。一切の真理を正しく知る仏の智慧。内山興正老師は「行き着く所へ行き着いた生き方」と言った。