第一章 第一祖。
摩訶迦葉尊は、仏陀世尊が一片の花を持ち出し、目を瞬いたところ、尊者が相好を崩して微笑んだ。この様子を見た仏陀世尊が言われた。私には「自己の生命は自己が生きるのみ」という素晴らしい宝物がある。これを摩訶迦葉に授ける」と。{本則現代語訳}
第一祖摩訶迦葉尊者、因みに世尊拈華瞬目するに、迦葉破顔微笑す。世尊曰く、吾に有正法眼蔵涅槃妙心有り、摩訶迦葉に付嘱す。{本則及び機縁の現代語訳}
摩訶迦葉尊者。姓は婆羅門。梵には迦葉波、こヽには飮光勝尊といふ。尊者生るヽとき。金光室にみちて、光りことごとく尊者の口にいる。因て飮光と称す。その身金色にして、三十一相を具足せり。ただ烏瑟、白毫のかげたるのみなり。多子塔前にして、はじめて世尊にあひたてまつる。世尊、善来比丘とのたまふに、鬚髮すみやかにおち、袈裟体にかかる。すなはち正法眼蔵をもて付囑し、十二頭陀を行じて、十二時中むなしくすごさず。たゞ形ちの醜悴し、衣の麁陋なるをみて、一会ことことくあやしむ。これによりて処々の説法の会ごとに。釋尊座をわかち迦葉を居らしむ。然しより衆会の上座たり。ただ釋迦牟尼佛一会の上座たるのみにあらず。過去諸佛の一会にも不退の上座たり。しるべし。
語註―摩訶迦葉(まかかしょう 紀元前448頃~368頃) Mahā-kaśyapa。マガダ国王舎城付近のバラモンの出。二十歳ころ、一旦結婚をするが、十二年後、妻と共に出家し、王舎城の竹林精舎で釋尊に出逢って弟子になった。多子塔―たしとう、『辟支佛因緣論』卷下には王舎城の長者が大勢の娘たちの因縁で出家して辟支佛となり、その滅後、ここに供養塔を建てて、これを「多子塔」と呼び、さらに『聯灯会要卷一』などに「世尊曽て多子塔の前に,迦葉尊者をして分座、伝法せしむ。」とあるのに従ったものか。早くから仏門の附法蔵を記した『阿育王経』、『附法蔵因縁伝』ではそうした説が見られない。また多子塔は『法顕伝』や玄奘の『西域記』では、この塔をガンジス河の北に在るヴェーシャリーの重閣講堂近くとしています。しかしこれは別なもので、迦葉尊者の多子塔前付法の場所は求那跋陀羅譯の『雜阿含經卷』第四十一に 「 尊者摩訶迦葉語阿難言:「我自出家,都不知有異師,闇從出家。我出家已,於王舍城那羅聚落中間多子塔所,遇值世尊正身端坐,相好奇特,諸根寂靜,第一息滅,猶如金山。」と有るので、王舎城からナーランダへ行く途中にあったものと考えられます。烏瑟うしつー仏像の頭頂に一段高く隆起した部分のこと。釈尊の三十二相八十種好の一つ。(梵uṣṇīṣaの音写)「肉髻(にくけい)」に同じ。白毫(びゃくごう)ーは、仏の眉間やや上に生える白く長い毛。三十二相 の三十一番目。十二頭陀(じゅうにずだ)ー 頭陀とは梵語でDhuta、「払いのける」、「捨てさる」という意味。阿蘭若處,常行乞食 次第乞食,受一食法,節量食,午後不得飲漿、著糞掃衣 但三衣,塚間住,樹下止,在露地坐,常坐不臥の十二行。通常の修行より厳しい。霊山会上ーりょうぜんえじょう―マガダ国の首都大舎城から東へ一時間ほど登った所に霊鷲山りょうじゅせんーがあり、頂上には香積台という佛が説法をした場所が残っている。ここを霊山会と呼んだ。山上はそれほど広くなく、精々百人が集まれば満員になりそうで、八万衆は多すぎます。なお麓にビンビサーラ王の牢獄跡があり、ここで幽閉された王は「耳を澄まして仏の説法を聞いた」とガイドが話していました。
いはゆるかの時の拈華は祖祖単伝しきたりて、みだりに外人をしてしらしむることなし。ゆへに経師・論師おおくの禪師のしるべきところにあらず。実にしりぬ、その実処をしらざることを。しかも恁麼なりといへども、恁麼の公案、霊山会上の公案にあらず。多子塔前にして付囑せし時のことばなり。伝灯録・普灯録等にのするところは、これ霊山会上の説といふこと非なり。最初に佛法を付囑せしとき如是の式あり。ゆへに佛心印を伝ふる祖師にあらされば、かの拈華の時節をしらず。またかの拈華をあきらめず。諸禪徳、子細に参到し、子細に見得して、迦葉の迦葉たることをしり、釋迦の釋迦たることをあきらめ、ふかく円明の道を単伝すべし。拈華は暫らくおく、かの瞬目せしところ、人人あきらめきたるべし。汝等よのつね揚眉瞬目すると、またこれ瞿曇の拈華瞬目せしと一毫髮もへだたらず。汝等語話微笑せしと、摩訶迦葉破顏微笑せしと、全く毫髮も異なることなし。然れどもかの揚眉瞬目せしものをあきらめざれば、西天に釋迦あり、迦葉あり。自心に皮肉骨髓あり、許多の眼華、多少の浮塵。無量劫来未曽解脱、未来劫もまた沈淪すべし。もし一度かの主人公を識得せば、摩訶迦葉まさに汝諸人の鞋裏にありて動指することをゑん。しらずや、瞿曇揚眉瞬目せしところに、瞿曇すなはち滅却しおはることを。迦葉破顏せしところに、迦葉すなはち得悟しきたることを。これすなはち吾有にあらずや。正法眼藏却て自己に付囑しおはりぬ。ゆへに喚て迦葉とすべからず、喚て釋迦となすべからず。かつて一法の他にあたふるなく、一法の人にうくるなく。これを喚で正法とす、かれをあらはさんがために、華を拈じ不変なることを知らしめ、破顏して長齡なることをしらしむ。恁麼に師資相見、命脈流通す。円明了知不渉心念。まさしく意根を坐断して鷄足山にいり、はるかに慈氏の下生をまつ、ゆへに摩訶迦葉いまに入滅せず。 諸人もし親く学道して子細に参徹せば、迦葉不滅のみにあらず、釋迦もまた常住なり。ゆへに汝等諸人、未曽生より直指単伝して、亙古亙今、築著磕著す。ゆへに諸人、二千年前の昔を思慕することなかれ。ただ急に今日に辨道せば。迦葉鷄足にいらず。正に扶桑国にありて出世することをゑん。ゆへに釋迦の肉身今猶暖かに、迦葉微笑また更に新たならん。恁麼の田地にいたりゑば。汝ぢら却て迦葉につぎ、迦葉却て汝ぢらにうけん。七佛より汝ぢらにいたるのみにあらず。汝ぢらまさに七佛の祖師たることをゑん。無始無終古来今を絶して。すなはちこれ正法眼蔵付囑有在ならん。これによりて。釋迦も迦葉の付囑を得て。兜卒天に今に有在なり。汝ぢらも霊山会上にして、有在不変易なり。道ふことを見ずや、「常在靈鷲山。及餘諸住處。大火所燒時。我此土安穩。天人常充滿」と。ただ霊山会上のみ所住処といふにあらず、あに梵・漢・本朝もまたもるることあらんや。如来の正法流転して。一毫髮も欠ぐることなし。 もし然れば。この会はこれ霊山会たるべし。霊山はこれこの会たるべし。ただ諸人の精進と不精進とによりて、諸佛頭出頭沒せるのみなり。今日も頻りに辨道し、子細に通徹せば。釋尊直に出世なり。ただ汝ぢら自己不明によりて。釋尊昔日入滅す、汝ぢらすでに佛子たり。なんぞ佛をころすべけんや。ゆへに急に辨道して、すみやかに慈父と相見すべし。よのつね釋迦老漢。汝ぢらとともに行住坐臥し、汝ぢらとともに言語伺候して、一時もあひはなるることなし。 恰も㔁隱峯の洞山の背にあるが如し。一生もしかの老漢をみずんば、諸人悉くみな不孝の人たらん。すでに佛子といひ、もし不孝のものたらば、千佛の手もおよばず。今日大乗の子孫、また恁麼の道理を指説せんとするに卑語あり。諸人聞かんと要すや。{拈提}
知って欲しい、雲がたなびく深く静かな谷に
松の老木が何回も冬の寒さを経てきたことを。(頌古現代語訳}
ところが太祖様の拈提は少し異なっています。場所が霊鷲山ではなく、多子塔前で、一対一の出逢いとしています。これは太祖様の勘違いではなく、『宝慶記』の中でこの事を道元禅師が如淨禅師との有名な問答を太祖様が受け継いでいるのです。それは長らく仏陀世尊の下で修行を積んだ迦葉様が、いよいよ仏の証明を得たということでなく、初対面の刹那、世尊と迦葉様が意気投合したというです。師匠と弟子の機微は第三者から見れば、かなり不可解です。私が初めて京都の師匠の寺に行ったとき、まだ出家得度の式もしていないのに、師匠は「仏道修行というのは、決して他人と競争する事ではなく、自己が自己ぎりの自己を生きればいいのです。譬えていうなら、スミレはスミレの花を咲かせるのが自己の命の発現だし、バラはバラの花を咲かせるのが大切なんです。それをスミレの花がバラになりたいと思っても、バラがタンポポの花を咲かせることもできない。同じように自己の人生の花を咲かせるのが、自己を生きるという事です。」と示されました。私はこの師匠との最初の会話を五十年たった今でも人生の原点として大事にしています。『華厳経』に「初めて志を起したその時、すでに正しい覚りが満ち溢れている」とありますが、世尊の拈華に迦葉尊者が微笑で答えたのは、私のつたない経験とは次元が違うかもしれませんが、似通ったところがあります。 太祖様の言葉は、一字一句私たちの胸に刺さり、意識を覚醒させます。「いはゆるかの時の拈華は祖祖単伝しきたりて、みだりに外人をしてしらしむることなし。」とはよき指導者に就いて真剣に修行した人ならば誰でもこの心を起すと述べます。ただ学問知識のみで修行が満ちる事はない。そこで「実にしりぬ、その実処をしらざることを。」と。
