『瑩山禅師の伝光録に親しむ』目次
はじめに ………………………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 二
首 章 釋迦牟尼佛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・五
第一章 第一祖摩訶迦葉尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 十三
第二章 第二祖阿難陀尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 二四
第三章 第三祖商那和修尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三六
第四章 第四祖優婆毱多尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四九
第五章 第五祖提多迦尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 五八
第六章 第六祖弥遮迦尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 六五
第七章 第七祖婆須密多尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 七六
第八章 第八祖佛陀難提尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 八五
第九章 第九祖伏駄密多尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 九八
第十章 第十祖脇尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一〇七
はじめに
私が總持寺祖院に籍を置いていたのは昭和六十三年(1988)一月から平成八年(1996)九月までの九年間でした。その間に私は講師、単頭として幾多の本講を担当し、もちろんそこには『伝光録』も含まれていました。その後、滋賀県の高島郡向上会、静岡県の可睡斎、福岡市の明光寺、山口市の泰雲寺などでも『伝光録』の提唱をさせて頂いたこともあり、その底本や資料はかなり多く所持しております。 私はこの提唱録を書誌学的なものであったり、僧堂安居者への教育的なものであることよりも、宗門僧侶だけでなく、進んで一般在家者、檀信徒の啓発を主眼とした、平易で分り易く、現代的視野から、誰にでも親しみやすいものとすべきであると考えました。そこで題目を『瑩山禅師の伝光録に親しむ』とさせていただきました。 底本は大正新脩大蔵経のデータベースにより、カタカナ表記をひらがな表記に改め、構成には横関了胤師の『伝光録』の本則・機縁、拈提、頌古を踏襲し、さらに頌古の漢文は原文と書き下し文を加え、本則は現代語訳のみとさせていただきました。また太祖様の「拈提」はこの書の核心部分ですので、全文を掲載し多少の注釈を添えつつ、鋭意親しみやすい話材を取り上げました。また引用文献や祖師名などはあえて説明を省きました。さらに掲載の頂相はすでに先達の勝れた画像が知られているが、袈裟研究者としての筆者には納得がゆかない処が多いので、直接描き改めて掲載した。高学博識の士の御叱正と御寛恕を戴き、円成を待つことといたします。 平成二十九年七月
愛知県一宮市 惠林寺隠居 関口道潤 合掌九拝
伝 光 録 侍者編
師於正安二年正月十二日始請益
首 章 釋迦牟尼佛が明星を見て道を悟って曰われた。「私と大地および生命あるものが同時に道を明らかにした」と。
釋迦牟尼仏、明星を見て悟道して曰く、我と大地、有情、同時に成道す。{本則現代語訳}
それ釋迦牟尼佛は西天の日種姓なり。十九歳にして子夜に城をこへ、檀特山にして断髮す。それよりこのかた苦行六年。つひに金剛座上に坐して、蛛網を眉間にいれ、鵲巣を頂上に安じて、葦、坐をとほし。安住不動、六年端坐し、三十歳臘月八日、明星のいでしときたちまち悟道し、最初獅子吼するにこの言あり。しかしよりこのかた、四十九年一日も独居することなく、暫時も衆のために説法せざることなし。一衣一鉢欠ぐことなし。三百六十余会、時時に説法す。つひに正法眼蔵を摩訶迦葉に付囑す。流伝して今におよぶ。実に梵・漢・和の三国に流伝して、正法修行すること、これをもて根本とす。かの一期の行状をもて遺弟の表準たり。設ひ三十二相八十種好を具足するといへども、かならず老比丘のかたちにして。人人にかはることなし。ゆゑに在世よりこのかた、正像末の三時、かの法儀をしたふもの、佛の形儀をかたどり、佛の受用を受用して。行住坐臥、片時も自己をさきとせざることなし。佛佛祖祖、単伝しきたりて、正法断絶せず。今の因縁分明に指説す。たとひ四十九年、三百六十余会、指説すること異なりといへども、種種因縁、譬諭言説、この道理にすぎず。{機縁}
ここは首祖釋迦牟尼佛の悟道とその修行の足跡を述べた導入部分です。仏教の開創者が教える仏教の最重要部分は何かといえば、暁の明星を見て、自分一人の覚りではなく、世界のあらゆる生命、事象とともに開いた覚りであることを示します。またその生涯は独居するのでなく、質素な衣食で常に出逢う者一切への奉仕を貫かれたことを示し、しかもそれを弟子の摩訶迦葉へと継承し、後世の標準となっている事を述べます。ここの伝記は北伝仏教資料に依っていますので、現在とは異なります。現在では南伝説の二十九歳出家、三十五歳成道をとります。釈尊の年代は宇井伯壽博士の説があり、中村元博士はアショーカ王即位年代を基準として紀元前四六三~三八三に修正しました。現在この説が最も有力と見られます。そもそも釈迦牟尼仏とはシャカ族出身の聖者(牟尼)であり、仏陀(覚者)なった人を意味します。釈尊の姓はゴータマ梵:Gautama 、名はシッダールタ(梵;Śiddhārtha)で、漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)。伝説では、王族クシャトリヤとして日種;(梵:;sūryavaṃśa)に属し、甘庶王(かんしょおう)系といわれます。インドの北の果て、現在はネパールのヒマラヤ山麓に位置した小国の王子であった悉達多太子が真夜中にカビラヴァストゥの王城を出て、途中檀特山Daṇḍakaで髪を絶ち、その後苦行六年し、やがてガヤ城郊外ウルヴェーラの菩提樹下に坐禅して、三十五歳の十二月八日、暁の明星を見て覚りを開いて仏陀となり、最初に放ったのがこの言葉です。やがて仏陀世尊は自身の生き方を広く広めるために、出逢うところの一切衆生とともに法筵を開き、それがインド、中国、日本へと伝えられ今日に至っているが、その標準、根本がこの仏陀の覚り、生き方なのだと述べます。
語註・・請益(しんえき)―修行僧が師家に法益を請い、それに応じて師家が説法すること。六日、十一日に行うことが多い。檀特山ー(だんとくせん:梵Daṇḍakaー現在のアフガニスタン)はガンダーラに位置し、弾太落迦(だんだらか)とも称する。かつて釈尊の前身である須大孥太子(しゅたぬたいし)が菩薩行を修めたといい、釈尊も師事したアーラーラ仙人が住んだという。具体的に出家直前の太子がわざわざ北西の遠隔地を経由して南東の王舎城へ行ったとは考えにくい。金剛座―ブッダガヤにある世界遺産大菩提寺菩提樹下の金剛宝座。蛛網ー (ちゅもう、くもの巣)。鵲巣(じゃくそう)ーカササギの巣。獅子吼(ししく)ー獅子が吼えるとは佛の説法をいう。一衣一鉢(いちえいっぱつ)ー一つの袈裟と一つの鉢、転じて最低の生活をすること。三百六十余会―いつでも。正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)ー正法の目の付け所、転じて佛の覚った生き方。三十二相八十種好(さんじゅうにそうはちじゅっしゅごう)ー佛特有の德相。正像末の三時―仏の滅後五百年(または千年)を正法、次の千年を像法、次の万年を末法といい、教行証そなわるを正法、教行を像法、教のみを末法とするが、正像末は時代に有るのでなく、人の心にあるというのが宗門の正儀です。
いはゆる我といふは釋迦牟尼佛にあらず。釋迦牟尼佛も、この我より出生しきたる。たゞ釋迦牟尼佛出生するのみにあらず、大地有情もみなこれより出生す。大綱をあぐるとき、衆目悉くあがるが如く、釋迦牟尼佛成道するとき、大地有情も成道す。ただ大地有情成道するのみにあらず、三世諸佛もみな成道す。恁麼なりといへども、釋迦牟尼佛において。成道のおもいをなすことなし。大地有情の外に、釋迦牟尼佛をみることなかれ。たとひ山河大地、森羅万像、森森たりといへども、ことごとくこれ瞿曇の眼睛裏をまぬかれず。汝等諸人また瞿曇の眼睛裏に立せり、ただ立せるのみにあらず、いまの諸人に換却しおはれり。また瞿曇の眼睛、肉団子となりて、人々の全身箇箇壁立万仭せり。ゆゑに亙古亙今、明明たる眼睛、歴歴たる諸人とおもふことなかれ。諸人すなはちこれ瞿曇の眼睛なり、瞿曇すなはちこれ諸人の全身なり。もし恁麼ならば、なにをよんでか成道底の道理とせん。
且問す大衆、瞿曇の諸人とともに成道するか、諸人の瞿曇とともに成道するか、もし諸人の瞿曇とともに成道するといひ、瞿曇の諸人とともに成道するといはゞ、全くこれ瞿曇の成道にあらず。因て成道底の道理となすべからず。成道の道理、親切に会せんとおもはゞ、瞿曇、諸人、一時に払却して、はやく我なることをしるべし。我の与なる、大地有情なり。与の我なる、これ瞿曇老漢にあらず。子細に点検し、子細に商量して、我をあきらめ、与をしるべし。たとひ我をあきらめたりといふとも、与をあきらめずんば、また一隻眼を失す。然りといへども、我と與と一般にあらず、両般にあらず、正に汝等の皮肉骨髄、ことごとく与なり。屋裏の主人公、これ我なり。皮肉骨髄を帯せず、四大五蘊を帯せず、畢竟していはゞ、庵中不死の人を識らむと欲せば、あに、而今這の皮袋を離れむや。(欲識庵中不死人。豈離而今這皮袋。) 然れば、大地有情の会をなすべからず。たとひ春夏秋冬に転変しきたりて、山河大地、時とともに異なりといへども、しるべし、これ瞿曇老漢の揚眉瞬目なるゆゑに、万像の中独露身なるなり。撥万像也、不撥万像也。法眼曰く、なんの撥と不撥とを説かむや。(法眼曰、説甚麼撥不撥)。また地蔵曰く、喚んでなんの万像となさむや。(地蔵曰、喚甚麼作万像)。しかあれば横参竪参し、七通八達して、まさに瞿曇の悟処をあきらめ、自己の成道を会すべし。恁麼の公案、子細に見得し、一一に胸襟より流出して、前佛及び今時の人の語句をからず、次の請益の日をもて下語説道理すべし。山僧また、この一則下に卑語をつけんことをおもふ。諸人聞かむと要すや。(諸人要聞麼)。 {拈提}
梅が美しく咲いたとしても、そこには枯れた弦いばらが巻き付いている。
(頌古現代語訳)
この段は瑩山禅師が釈迦牟尼佛成道を提唱、拈提されるわけですが、『伝光録』はこの部分にすべて包含されていると思います。ここはそれほど大切な説示です。「私と大地および生命あるものが同時に道を明らかにした」と「本則」で述べますが、その道を明らかにした「私=我」、つまり自分自身を問題としています。「いはゆる我といふは釋迦牟尼佛にあらず。釋迦牟尼佛も、この我より出生しきたる。」とあります。何となくわかりにくいですが、実は明快です。ここでいう釈迦牟尼仏とは過去の歴史的な仏陀世尊ではなく、「仏の生命とは何か」と提起している、私たち個々人がそれを問題視する所から始まっています。
ですから「たゞ釋迦牟尼佛出生するのみにあらず、大地有情もみなこれより出生す。」となります。そして極めつけが「、釋迦牟尼佛成道するとき、大地有情も成道す。ただ大地有情成道するのみにあらず、三世諸佛もみな成道す。」なのです。 ですから、さらに私たちの視点を転換させることが可能です。暁の明星を見て、大地有情同時成道と覚りを開き、それでいて「自分は覚りを開いたという成道のおもいをなすことなく、大地有情の外に、釋迦牟尼佛をみることなかれ。」と瑩山様が言われるのは、通常私たちが考える悟りの世界とは全く別物のようです。むしろここは、仏陀世尊が開いた覚りとは、従来迷っていたのは釋迦世尊ただ一人であり、世界のあらゆるものが覚りであり、自覚の世界だったことに始めて気が付いたと言ったらよいでしょう。そうだとすれば、すべてが自己の思惑を超えた自覚の世界なのに、自分だけが迷っていたことに反省することになります。学者の先生は別な意見をお持ちかもしれませんが、私はこの様に受け止めます。
私の出家修行した京都のお寺でほぼ毎月五日間の無言摂心という、坐禅の集中期間を持ちました。十二月の臘八摂心も同じ日程でした。五日目の午後五時に大開静という終了を迎えます。ある年の大開静後、私の師匠は「五日間坐ったけれど、やっぱり覚りは開けなかった。でも今朝の明星はキレイだったね」と語りかけました。この言葉はあれから五十年経過した今でも私は鮮明に覚えています。それは仏の覚りとは、限界ある自分一人の覚りと迷いをすべて、遠く乗り越えた物であり、いやもう少し別な言葉で言い表せば、従来迷っていたのは、たった一人の自分だけだったと気が付いたことになるでしょう。 むかし松尾芭蕉はいつも歩いてゆく道端に白い小さな花が咲いているのを、ただ何となく見過ごしていたと言います。ところがある日、「なんだこんな所にナズナの花が咲いていたのか。!私は迂闊にも、ここに命の発現があり、掛け替えのない生命があったことを見落としていた。なんと愚かな事か!!、なんと恐ろしい事か!!」と驚いて詠んだのがあの よく見ればナズナ花さく垣根かな の句であったと思います。仏教や哲学、文学を習うのも悪くないが、大切なのは、自分の言葉として受け止めた生命の耀きであり、生命の脆さを知ることではないでしょうか。太祖様は見事に指摘します。「一一に胸襟より流出して。前佛及び今時の人の語句をからず。」と。
一枝秀出す老梅樹 荊棘、時とともに築着し来る。(一枝秀出老梅樹 荊棘與時築著来)。{頌古}
『瑩山禅師の伝光録に親しむ』目次
はじめに ………………………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 二
首 章 釋迦牟尼佛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・五
第一章 第一祖摩訶迦葉尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 十三
第二章 第二祖阿難陀尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 二四
第三章 第三祖商那和修尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三六
第四章 第四祖優婆毱多尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四九
第五章 第五祖提多迦尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 五八
第六章 第六祖弥遮迦尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 六五
第七章 第七祖婆須密多尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 七六
第八章 第八祖佛陀難提尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 八五
第九章 第九祖伏駄密多尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 九八
第十章 第十祖脇尊者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一〇七
はじめに
私が總持寺祖院に籍を置いていたのは昭和六十三年(1988)一月から平成八年(1996)九月までの九年間でした。その間に私は講師、単頭として幾多の本講を担当し、もちろんそこには『伝光録』も含まれていました。その後、滋賀県の高島郡向上会、静岡県の可睡斎、福岡市の明光寺、山口市の泰雲寺などでも『伝光録』の提唱をさせて頂いたこともあり、その底本や資料はかなり多く所持しております。 私はこの提唱録を書誌学的なものであったり、僧堂安居者への教育的なものであることよりも、宗門僧侶だけでなく、進んで一般在家者、檀信徒の啓発を主眼とした、平易で分り易く、現代的視野から、誰にでも親しみやすいものとすべきであると考えました。そこで題目を『瑩山禅師の伝光録に親しむ』とさせていただきました。 底本は大正新脩大蔵経のデータベースにより、カタカナ表記をひらがな表記に改め、構成には横関了胤師の『伝光録』の本則・機縁、拈提、頌古を踏襲し、さらに頌古の漢文は原文と書き下し文を加え、本則は現代語訳のみとさせていただきました。また太祖様の「拈提」はこの書の核心部分ですので、全文を掲載し多少の注釈を添えつつ、鋭意親しみやすい話材を取り上げました。また引用文献や祖師名などはあえて説明を省きました。さらに掲載の頂相はすでに先達の勝れた画像が知られているが、袈裟研究者としての筆者には納得がゆかない処が多いので、直接描き改めて掲載した。高学博識の士の御叱正と御寛恕を戴き、円成を待つことといたします。 平成二十九年七月
愛知県一宮市 惠林寺隠居 関口道潤 合掌九拝
伝 光 録 侍者編
師於正安二年正月十二日始請益
首 章 釋迦牟尼佛が明星を見て道を悟って曰われた。「私と大地および生命あるものが同時に道を明らかにした」と。
釋迦牟尼仏、明星を見て悟道して曰く、我と大地、有情、同時に成道す。{本則現代語訳}
それ釋迦牟尼佛は西天の日種姓なり。十九歳にして子夜に城をこへ、檀特山にして断髮す。それよりこのかた苦行六年。つひに金剛座上に坐して、蛛網を眉間にいれ、鵲巣を頂上に安じて、葦、坐をとほし。安住不動、六年端坐し、三十歳臘月八日、明星のいでしときたちまち悟道し、最初獅子吼するにこの言あり。しかしよりこのかた、四十九年一日も独居することなく、暫時も衆のために説法せざることなし。一衣一鉢欠ぐことなし。三百六十余会、時時に説法す。つひに正法眼蔵を摩訶迦葉に付囑す。流伝して今におよぶ。実に梵・漢・和の三国に流伝して、正法修行すること、これをもて根本とす。かの一期の行状をもて遺弟の表準たり。設ひ三十二相八十種好を具足するといへども、かならず老比丘のかたちにして。人人にかはることなし。ゆゑに在世よりこのかた、正像末の三時、かの法儀をしたふもの、佛の形儀をかたどり、佛の受用を受用して。行住坐臥、片時も自己をさきとせざることなし。佛佛祖祖、単伝しきたりて、正法断絶せず。今の因縁分明に指説す。たとひ四十九年、三百六十余会、指説すること異なりといへども、種種因縁、譬諭言説、この道理にすぎず。{機縁}
ここは首祖釋迦牟尼佛の悟道とその修行の足跡を述べた導入部分です。仏教の開創者が教える仏教の最重要部分は何かといえば、暁の明星を見て、自分一人の覚りではなく、世界のあらゆる生命、事象とともに開いた覚りであることを示します。またその生涯は独居するのでなく、質素な衣食で常に出逢う者一切への奉仕を貫かれたことを示し、しかもそれを弟子の摩訶迦葉へと継承し、後世の標準となっている事を述べます。ここの伝記は北伝仏教資料に依っていますので、現在とは異なります。現在では南伝説の二十九歳出家、三十五歳成道をとります。釈尊の年代は宇井伯壽博士の説があり、中村元博士はアショーカ王即位年代を基準として紀元前四六三~三八三に修正しました。現在この説が最も有力と見られます。そもそも釈迦牟尼仏とはシャカ族出身の聖者(牟尼)であり、仏陀(覚者)なった人を意味します。釈尊の姓はゴータマ梵:Gautama 、名はシッダールタ(梵;Śiddhārtha)で、漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)。伝説では、王族クシャトリヤとして日種;(梵:;sūryavaṃśa)に属し、甘庶王(かんしょおう)系といわれます。インドの北の果て、現在はネパールのヒマラヤ山麓に位置した小国の王子であった悉達多太子が真夜中にカビラヴァストゥの王城を出て、途中檀特山Daṇḍakaで髪を絶ち、その後苦行六年し、やがてガヤ城郊外ウルヴェーラの菩提樹下に坐禅して、三十五歳の十二月八日、暁の明星を見て覚りを開いて仏陀となり、最初に放ったのがこの言葉です。やがて仏陀世尊は自身の生き方を広く広めるために、出逢うところの一切衆生とともに法筵を開き、それがインド、中国、日本へと伝えられ今日に至っているが、その標準、根本がこの仏陀の覚り、生き方なのだと述べます。
語註・・請益(しんえき)―修行僧が師家に法益を請い、それに応じて師家が説法すること。六日、十一日に行うことが多い。檀特山ー(だんとくせん:梵Daṇḍakaー現在のアフガニスタン)はガンダーラに位置し、弾太落迦(だんだらか)とも称する。かつて釈尊の前身である須大孥太子(しゅたぬたいし)が菩薩行を修めたといい、釈尊も師事したアーラーラ仙人が住んだという。具体的に出家直前の太子がわざわざ北西の遠隔地を経由して南東の王舎城へ行ったとは考えにくい。金剛座―ブッダガヤにある世界遺産大菩提寺菩提樹下の金剛宝座。蛛網ー (ちゅもう、くもの巣)。鵲巣(じゃくそう)ーカササギの巣。獅子吼(ししく)ー獅子が吼えるとは佛の説法をいう。一衣一鉢(いちえいっぱつ)ー一つの袈裟と一つの鉢、転じて最低の生活をすること。三百六十余会―いつでも。正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)ー正法の目の付け所、転じて佛の覚った生き方。三十二相八十種好(さんじゅうにそうはちじゅっしゅごう)ー佛特有の德相。正像末の三時―仏の滅後五百年(または千年)を正法、次の千年を像法、次の万年を末法といい、教行証そなわるを正法、教行を像法、教のみを末法とするが、正像末は時代に有るのでなく、人の心にあるというのが宗門の正儀です。
いはゆる我といふは釋迦牟尼佛にあらず。釋迦牟尼佛も、この我より出生しきたる。たゞ釋迦牟尼佛出生するのみにあらず、大地有情もみなこれより出生す。大綱をあぐるとき、衆目悉くあがるが如く、釋迦牟尼佛成道するとき、大地有情も成道す。ただ大地有情成道するのみにあらず、三世諸佛もみな成道す。恁麼なりといへども、釋迦牟尼佛において。成道のおもいをなすことなし。大地有情の外に、釋迦牟尼佛をみることなかれ。たとひ山河大地、森羅万像、森森たりといへども、ことごとくこれ瞿曇の眼睛裏をまぬかれず。汝等諸人また瞿曇の眼睛裏に立せり、ただ立せるのみにあらず、いまの諸人に換却しおはれり。また瞿曇の眼睛、肉団子となりて、人々の全身箇箇壁立万仭せり。ゆゑに亙古亙今、明明たる眼睛、歴歴たる諸人とおもふことなかれ。諸人すなはちこれ瞿曇の眼睛なり、瞿曇すなはちこれ諸人の全身なり。もし恁麼ならば、なにをよんでか成道底の道理とせん。
且問す大衆、瞿曇の諸人とともに成道するか、諸人の瞿曇とともに成道するか、もし諸人の瞿曇とともに成道するといひ、瞿曇の諸人とともに成道するといはゞ、全くこれ瞿曇の成道にあらず。因て成道底の道理となすべからず。成道の道理、親切に会せんとおもはゞ、瞿曇、諸人、一時に払却して、はやく我なることをしるべし。我の与なる、大地有情なり。与の我なる、これ瞿曇老漢にあらず。子細に点検し、子細に商量して、我をあきらめ、与をしるべし。たとひ我をあきらめたりといふとも、与をあきらめずんば、また一隻眼を失す。然りといへども、我と與と一般にあらず、両般にあらず、正に汝等の皮肉骨髄、ことごとく与なり。屋裏の主人公、これ我なり。皮肉骨髄を帯せず、四大五蘊を帯せず、畢竟していはゞ、庵中不死の人を識らむと欲せば、あに、而今這の皮袋を離れむや。(欲識庵中不死人。豈離而今這皮袋。) 然れば、大地有情の会をなすべからず。たとひ春夏秋冬に転変しきたりて、山河大地、時とともに異なりといへども、しるべし、これ瞿曇老漢の揚眉瞬目なるゆゑに、万像の中独露身なるなり。撥万像也、不撥万像也。法眼曰く、なんの撥と不撥とを説かむや。(法眼曰、説甚麼撥不撥)。また地蔵曰く、喚んでなんの万像となさむや。(地蔵曰、喚甚麼作万像)。しかあれば横参竪参し、七通八達して、まさに瞿曇の悟処をあきらめ、自己の成道を会すべし。恁麼の公案、子細に見得し、一一に胸襟より流出して、前佛及び今時の人の語句をからず、次の請益の日をもて下語説道理すべし。山僧また、この一則下に卑語をつけんことをおもふ。諸人聞かむと要すや。(諸人要聞麼)。 {拈提}
梅が美しく咲いたとしても、そこには枯れた弦いばらが巻き付いている。
(頌古現代語訳)
この段は瑩山禅師が釈迦牟尼佛成道を提唱、拈提されるわけですが、『伝光録』はこの部分にすべて包含されていると思います。ここはそれほど大切な説示です。「私と大地および生命あるものが同時に道を明らかにした」と「本則」で述べますが、その道を明らかにした「私=我」、つまり自分自身を問題としています。「いはゆる我といふは釋迦牟尼佛にあらず。釋迦牟尼佛も、この我より出生しきたる。」とあります。何となくわかりにくいですが、実は明快です。ここでいう釈迦牟尼仏とは過去の歴史的な仏陀世尊ではなく、「仏の生命とは何か」と提起している、私たち個々人がそれを問題視する所から始まっています。
ですから「たゞ釋迦牟尼佛出生するのみにあらず、大地有情もみなこれより出生す。」となります。そして極めつけが「、釋迦牟尼佛成道するとき、大地有情も成道す。ただ大地有情成道するのみにあらず、三世諸佛もみな成道す。」なのです。 ですから、さらに私たちの視点を転換させることが可能です。暁の明星を見て、大地有情同時成道と覚りを開き、それでいて「自分は覚りを開いたという成道のおもいをなすことなく、大地有情の外に、釋迦牟尼佛をみることなかれ。」と瑩山様が言われるのは、通常私たちが考える悟りの世界とは全く別物のようです。むしろここは、仏陀世尊が開いた覚りとは、従来迷っていたのは釋迦世尊ただ一人であり、世界のあらゆるものが覚りであり、自覚の世界だったことに始めて気が付いたと言ったらよいでしょう。そうだとすれば、すべてが自己の思惑を超えた自覚の世界なのに、自分だけが迷っていたことに反省することになります。学者の先生は別な意見をお持ちかもしれませんが、私はこの様に受け止めます。
私の出家修行した京都のお寺でほぼ毎月五日間の無言摂心という、坐禅の集中期間を持ちました。十二月の臘八摂心も同じ日程でした。五日目の午後五時に大開静という終了を迎えます。ある年の大開静後、私の師匠は「五日間坐ったけれど、やっぱり覚りは開けなかった。でも今朝の明星はキレイだったね」と語りかけました。この言葉はあれから五十年経過した今でも私は鮮明に覚えています。それは仏の覚りとは、限界ある自分一人の覚りと迷いをすべて、遠く乗り越えた物であり、いやもう少し別な言葉で言い表せば、従来迷っていたのは、たった一人の自分だけだったと気が付いたことになるでしょう。 むかし松尾芭蕉はいつも歩いてゆく道端に白い小さな花が咲いているのを、ただ何となく見過ごしていたと言います。ところがある日、「なんだこんな所にナズナの花が咲いていたのか。!私は迂闊にも、ここに命の発現があり、掛け替えのない生命があったことを見落としていた。なんと愚かな事か!!、なんと恐ろしい事か!!」と驚いて詠んだのがあの よく見ればナズナ花さく垣根かな の句であったと思います。仏教や哲学、文学を習うのも悪くないが、大切なのは、自分の言葉として受け止めた生命の耀きであり、生命の脆さを知ることではないでしょうか。太祖様は見事に指摘します。「一一に胸襟より流出して。前佛及び今時の人の語句をからず。」と。
一枝秀出す老梅樹 荊棘、時とともに築着し来る。(一枝秀出老梅樹 荊棘與時築著来)。{頌古}
