第九章 

 第九祖伏駄密多尊者は、佛陀難提が君の言うことは、本心を顕わしている、父母の親密を超えている。君の行いは、道に適っている。それは諸佛の心と言ってよい。もし佛はこれだと決めつけてそれを求めるのは、君らしくない。だから君の本心を知ろうとするならば、求める事も逃げる事もやめなければならない」と説くのを聞いて。伏駄密多は直ちに気が付いた。

 

  第九祖、伏駄密多尊者、佛陀難提の汝が言、心と親し。父母も比すべきに非ず。汝が行と道と合す。諸佛の心即ち是れなり。外に有相の佛を求めば、汝と相似ず。汝が本心を識らんと欲せば、合に非ず、また離に非ずと説くを聞て。師乃ち大悟す。{本則及び現代語訳} 

 

 伏駄密多尊者は提伽国の人、出身は毘舍羅である。佛陀難提が布教のため、提伽国にやって来た。城門内に町民の家があり、その中に白い光が棚引く家を見つけた。そこで門弟に声を掛けた。「この家には必ず聖人がおり、何も語らないが、大乗の法を受け継ぐ器である。足で大地を歩かないが、穢れの何かを知っている。彼こそ私の法を継承する者である」と。そこへ主が出て来て尋ねた。「何にかお役に立てますか」と。尊者が答えた。「私は弟子を探している」と。主が答えた、「私には一人の息子がありますが、五十歳を過ぎたのに、未だ何も喋らないし、自分の足で歩きもしません」と。尊者が言った、「如し貴方が言う通りならば、その子こそは私の弟子にふさわしい」と。その言葉を聞いて息子は、尊者を礼拝し、いきなり詩を作って質問した。「父母は我が親に非ず。誰か是れ最も親しき者なるか。諸佛も我が道に非ず。誰か是れ最も道なる者か」と。尊者はそれに詩を作って答えた。「汝が言と心と親しし、乃至合に非ず、亦た離に非ず」と。その時に息子は尊者の素晴らしい詩を聞いて、直ちに七歩歩いた。尊者が言った、「この子はむかし佛に値て悲願広大となった。しかし父母の愛情を考えて、何も言わず、歩きもしなかっただけなのだ」と。云云 

 

 師は提伽国の人也。姓は毘舍羅。佛陀難提、行化して提伽国城毘舍羅の家に至る。舍上に有白光有り上騰するを見る。その徒に謂く、この家まさに有聖人有るべしと。口に 言説無し、真に大乗の器なり、足、ちを蹈まず。触穢知るのみ。則ち是れ吾が嗣なりと。言訖るに、長者出て投礼して問ふ。何んの須ひる所ぞ。尊者曰く、我れ求侍者を求む。長者曰く、我に一子有り、年すでに五十なるに、口、未だ曽て言はず。足、未だ曽て履かす。尊者曰く、汝の説く所の如くんば、真に吾が弟子ならと。尊者のこれを見、是の如く云ふを聞き、師即ち遽かに起て礼拝す。而も偈を説き相ひ問うて曰く、父母は非我が親に非ず。誰か是れ最も親しき者なるや。諸佛も非我が道に非ず、誰か是れ最も道なる者なりやと。尊者、偈を以て答へて曰く、汝が言と心と親し。乃至、合に非ず、亦、離するに非ず。時に師の妙偈を聞いて即ち行くこと七歩す。尊者曰く、この子むかし、曽佛に値て悲願広大なり。父母の愛情捨て難きを慮るが故に、言はず履まざるのみ。云云{機縁及び現代語訳}  

 

  語註―第九祖伏駄密多尊者(Buddhamitra 20-100頃) 提伽国―不詳。毘舍羅―Vai śya・・四姓の一つ、農牧商に従事する庶民階級。『付法蔵因縁伝』では第七祖仏陀難提の付法となっており、かなり長い記述がありますが、この機縁は『宝林伝』にあり、さらに『景徳伝灯録』にもあります。内容は後者に近い。真諦が翻訳した『婆藪槃豆法師傳』では世親の師が仏陀蜜多羅となっており、当時、阿踰闍国における著名な論者となっている。しかしその時代とこの第九祖伏駄密多では、三百年ほどの隔たりがあるので、別人と見られます。北インドに勢力を持ったグリーク朝のミリンダ王の当時と考えられます。 

 

 内容は提多国を布教した仏陀難提が、ある庶民の家の上に異光があったことから、ここに聖人がいると直感し、尋ねるとそこには五十歳になる息子がおり、何もしゃべらず、歩行もしないことを聞いた仏陀難提が「これこそ私の弟子にふさわしい」と話すと、その息子は直ぐに尊者を禮拜して、その弟子になったのが、この始まりです。そこで「父母は決して私と親しくない。誰が私と親しいのか、佛の教えも私の行く道でない、何が私の行くべき道なのか」という疑問になります。これに対して尊者は自分と最も親しいのは自分以外はないし、もし予め佛はこれだと決めつけてそれを求めるのは、君らしくない。だから君の本心を知ろうとするならば、求める事も逃げる事もやめなければならない」と説くを聞いて。伏駄密多は直ちに気が付きました。そこで、瑩山様の拈提が始まります。

 

 拈提現代語訳―確かに父母は幾ら親しいと言っても私ではない。そこで伏駄密多は仏陀難提尊者の詩を聞いて、忽ち七歩歩いた。尊者は「この子はむかし仏陀に逢って大きな誓願を建てたが、父母の愛情を考えて「諸佛は我が道でない」と述べた。しかし本当に親密なものは父母ではない。やはり父母でもなく諸佛でもないのだ。なぜかと言えば君の見聞きしたものは他人の耳目に依ったわけでない。君の手足は他人が代わってくれるものでもない。これはすべての衆生がそうであり、諸佛も同じことだ。他人が自分を学び、自分が他事を学ぶのでは、真の道ではないことを肝に銘じて生きなければならない。これを実践したのがこの人であり、何もかたらず、歩きもせずして五十年を経過した。この人こそ大乗の器量を具えており、決して穢れの中に住んではいない。父母は自分の親でないと言ったが、これこそ仏陀密多の真実語であり、自分が自分に親しいことを表した。諸仏の自分の道でないとして、その地を踏まなかった。それが他人の評価を待たない君の行いであり、これこそ道と言うべきだ。世間が問題とする仏の姿を求めるのは、結局、真の佛道ではない。 この一連の道理により、達磨祖師の門下では「文字を主体とせず、自己の生き方を師から弟子へと伝え、自己の生命を生き切ることが佛の道と努力してきたのだ。自己が自己を生きる他、誰も代わってくれない人生に気付かせるために、何か特別な入口は存在しない。有るのはただ凡夫的思いをかなぐり捨てて壁に向って坐禅して、何も言わずに五年、十年とひたすらに坐禅に励む。これだけだ。言葉が悪いのでもなく、黙っているのが良いのでもない。人間の本心がそれであることを気付かせるだけだ。例えば清水のようであり、青空のようなものだ。真っ白で清らかだから、自由に混じり合う。それは自己とその出逢う所のすべてが自己の生命そのものであり、生きる自身にさえぎる物がない。本来明るく輝いて、何の宝石と言う名前もない。自己はあくまで自己であり、言葉の巧で表すことができない。自己の耀きとは、他のもので代弁できない。 「人々の耀きの明るさは、太陽をたくさん並べて照らすに似る。暗い者は内に向って求め、明るい者は外に向かっても無駄なことだ。良く考えれば自己の内面が親しいのでもなく、外の世界が疎いでもない。これは昔から将来にわたる原則であるが、自分がどうするということでない。だから仏陀難提尊者が親しくこれを諭し、伏駄密多が素直に認めた。それだけのことだ。そこで私たちはこの一段の物語から学ばなければならない。必ずしも修行や努力で得ることでもなく、禅問答によって明らかになると言っていない。ここの主題は君の心はいかにも君らしい、君は実にそのまま道を歩いていると言っている。この事以外に自分が考えた佛を求めたり、自分の考え以前の物を求めるべきでない。ここではっきりしてくる。君が誰と一つになり、誰と離れることもないのだと。他人が「それは体だ」と言っても何も変わらない。また「それが心だ」と言われてもとくに一つになるわけでもない。そうした一連の覚悟が出来る事は大事だが、この身の他に心はどこにも存在しない。私たちの経験では確かに生れ死に、来たり去ったりするが、これは何も私の体やアタマがそうしているのではない。この事をこのように受け止めて生命の実物と現れ、過去現在未来いつでもそれを行い、インド・中国・日本へと伝えてきたのだ。さあここの修行者諸君、この事だけを大切にしなければならない。だから私たちは二十四時間何の誤りもない、人間としての業相は厭うべきに見えるが、実はそのまま佛の説法そのままなのだ。このように受け止める事が出来れば、凡人の彷徨う五つの世界も、願って飛び込む大乗菩薩の本懐であり、様々な四形態の生き物の生き方も実は自己の生き方怎ものなのだ。思いある物、思い無き物と名前で区別しても、それらは皆、人間が付けた仮の名前に過ぎない。佛と衆生と並べ立ててもアタマやココロの別名なのだ。アタマが勝れ、ココロが劣ることはない。他人の評判を鵜呑みにして、目前の事実を臆断してはならない。だから、ここで私が言いたいのは、見る者と見られるものが別にあるのではない。是非気が付いてほしい、君たち各自すべてが道であり、その出逢うところのものはすべて我が生命の分身だという事を。 今日もこの事を詩に託して言おう。聞いてくれるかな。{拈提私訳} 

 

 実に父母は我に非ず、非合非離なりと。時に師、妙偈を聞て。即ち行くこと七歩す。尊者曰く、此の子昔曽て佛に値て悲願広大なり。父母の愛情親しきを慮り、諸佛は我道に非ずと。故に正く親きことをしらんと思はば、父母に比すべきにあらず。正く道なることをしらんとをもはば、諸佛に学すべきにあらず。所以者何となれば、汝が見聞卒に他の耳目をからず、汝が手足他の動静を用ひず。衆生も恁麼なり、諸佛も恁麼なり。かれ是れを学び、是れかれを学ぶは、卒に是れ親きにあらず。あに道とすべけんや。恁麼の道理を護持保任する。 故に口にものいはず。足ふまず。やヽ五十年をへたり。実に是れ大乗の器。触穢中にあらざらまくのみ。父母我親にあらずといふ、即是れ汝が言なり。これまさに汝が心としたしし。諸佛吾が道にあらずといひて、足遂にふまず。即汝が行なり、道に合す。然れば外に有相の佛を求むる、卒に是れ非行。此れによりて祖師門下。不立文字直指単伝して、見性成佛しもてゆく故に。人をして直指なることをしらしめんとして、単伝せしむるに他の榜樣なし。ただ人をして直に意根下を坐断して、口辺に白醭を生ぜしめもてゆく。是れ言を忌むにあらず、默をよみするにあらず。汝が心恁麼なることをしらしめんとなり。清水の如く虚空の如し。純白清潔にして和融無礙也。故に自心の外にあらはるヽ一物なく、己霊の上に纖塵の遮るべきなし。全体明瑩にして珠玉に列せず。日月の光明をもて自己の光明に比することなかれ。火珠の光明をもて自己の眼睛に比することなかれ。道ふことを見ずや、人々一段の光明あきらかなること、千日並び照すが如し。くらきものは内に向ひて覓め。明かなるものは外に向ひて存せず。しづかにをもふべし、内をもて親きとすることなく、外をもて疎とすることなしと。古往今来如是なりといへとも、自倒自起し来ることなかれ。故に祖師親切に相見す。只恁麼に相ひ逢ふ、更に多子無し。適来の因縁をもてあきらめつべし。必ずしも修証によりていたるべしといはず、参学によりて窮むべしといはず。只汝が心全く汝と親し、汝まさにこれ道なりといふ。此の外に有相の佛も求めず、無相の佛も求めず。実にしりぬ。汝ぢ誰れにか合せん、誰とか離せん。卒に合にあらず離にあらず。たとひ是れ身と説もこれ離にあらず。たとひ是れ心と説も亦これ合にあらず。恁麼の田地に到るといへども。身の外に心を覓むることなかれ。たとひ生死去来すれども。身心の作にあらず。諸佛も恁麼に保任して。三世に常に証し。諸祖も恁麼に保任して、三国にあらはれきたる。諸人者も恁麼に保任して、更に分外にすることなかれ。十二時中卒にいまだ相錯ることなし。十二因縁却てこれ転法輪なり。此の田地にいたる時。五道の輪転自ら大乗の翻軸なり、四生の受業まさに是れ自己の活計。たとひ情と説き非情と説くも、恰も眼目の異名なり。たとひ衆生といふとも、心意の別称也。心を勝れたりとして意を劣れりとすることなかれ。あに眼をいやしみて目を貴とせんや。這箇の田地卒に根塵の境界なく。心法の所見なし。故に人人悉く是れ道なり。事事すべて心ならざることなし 今朝又此の因縁を指説せんとするに。卑語あり。大衆要聞麼{拈提} 

   黙っていれば、すべてが自分とそれ以外は関係ないとか、 

   自分の思いを超えていると言ってはならない。 

   思っても思わなくてもある自己の生命に気が付かなければならない。

   言ふこと莫れ、語默は離微に渉ると、 豈に根塵の自性を染すること有らむや。  

                            (莫言語默渉離微 豈有根塵染自性){頌古}