井上ひさし著 『四千万歩の男』 | TakuとQuiet life

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NHK BSでザ・プロファイラー「地球の円周を測りたかった男 伊能忠敬」を視聴した。以前、井上ひさし著「四千万歩の男」を読んでこの偉人に興味があった。香取市にある伊能忠敬の記念館にはまだ行けていない。

 

 

忠敬は17歳で伊能家へ婿入りして当主に。酒造、廻船業を営む伊能家を再興し、かなりの財産を築いて1794年に50歳で隠居した。この後の人生がすごい。江戸へ出て深川に居を構える。幕府が改暦に取り組み、その任務にあたらせた高橋至時に弟子入りした。

 

忠敬50歳、至時31歳。忠敬は寝る間も惜しんで天体観測をした。「四千万歩の男」でも詳しく書かれている。

 

55歳(1800年)の時、第一次測量で蝦夷へ。幕府は蝦夷の測量を許可したが、期待していなかった。そのためお試し測量として幕府からの資金もわずかなものだった。

 

71歳(1816年)まで10回の測量の旅に出ている。

歩いた距離は35,000Kと言われている。

1間(180㎝)を2歩で歩いた。
 

73歳死去(1818年)

日本地図は、忠敬の死後愛弟子たちが引き継いで、1821年大日本沿海輿地全図(大図214枚・中図8枚・小図3枚)及び大日本沿海実測録(14巻)が完成。

 

忠敬の遺言により、師高橋至時の隣に葬られた(台東区の源空寺)。
墓碑には交友のあった佐藤一斎による忠敬の生涯が刻まれている。

 

文化元(1804)年作
縮尺36,000分の1
東日本の地図をまとめて幕府に献上したときにつくった控図。

 

 

文化元(1804)年作
縮尺36,000分の1
東日本半部沿海図の一部

 

1828年シーボルト事件があった。5年任期を終えて帰国する際、忠敬の日本地図の写しを持ち出そうとした。地図は禁制品。地図を渡した天文方の高橋景保は死罪(判決前に獄死)、シーボルトは国外追放。景保は、至時の息子である。この事件を、源空寺に眠る忠敬・至時は天国からどんな思いで見つめていたか。