MBSさんのちちんぷいぷい木曜日のコーナー、楠雄二朗(くっすん)と河田直也アナが、歩いて歴史ポイントを訪れ、現地の人と触れ合うコーナー『昔の人は偉かった』の第17章『東海道五十三次の旅』3日目~4日目のまとめ。

【3日目】 2019年04月25日(木)放送 

旅の内容:●川崎宿 → 神奈川宿生麦・・・と言えば?■キュウリケチャップ?!★竜馬の妻が働いた旅籠

スタートは神奈川県川崎市・川崎宿。目標地点は神奈川県横浜市・神奈川宿。約11キロのコース。

午前8:00、神奈川県川崎市にある、『東海道 かわさき宿交流館』の前からオープニング。交流館の物陰から、勢いよくくっすん登場。

 朝から快晴で、ロケ日の天気予報も晴れ。3日目にして、テンポよく横浜市へ入るので、「あっという間に京都ですね。」と気の早いくっすん。河田アナも不思議とそんな気持ちになってくる。

 

 のっけから、通勤中の人たちであわただしい中を歩き、

スタートから0.4キロ、川崎宿出身の作詞家・『佐藤惣之助生誕の地』碑の前に到着。佐藤惣之助は、阪神タイガースのテーマ曲・六甲おろしの作詞も手掛けた。河田アナに六甲おろしを知っているのか疑われると、阪神の助っ人外国人・オマリーのモノマネをして歌い出すくっすん。

 

 惣之助は、大正~昭和初期に活躍した詩人で、代表曲に『赤城の子守唄』や『人生劇場』などがある。阪神タイガースに特別なゆかりはなかったが、依頼を受けて『六甲おろし』を作った。

 

 地元の方は惣之助のことを知っているのか、また六甲おろしを作ったことも知っているのか、気になる河田アナ。

 くっすんが通りすがりの川崎市民にインタビューする。惣之助の碑の方を指して、「あの眼鏡の方、六甲おろし書いた人なんです、あの人が。」と教えると、「えっ。

」とビックリされる。阪神ファンかは、聞きそびれた。惣之助さんを地元でも知らない人はいるようで、六甲おろしを書いたことは川崎では知る人ぞ知る

 

午前8:30、再び旧東海道を歩く。横断歩道を渡りながら、『NTTドコモ川崎ビル』を眺めて、川崎の都会っぷりに圧倒される。

 

スタートから2キロ、川崎市と横浜市の市境で、東海道を自転車(ママチャリ)で旅してるおとうさんと邂逅する。事情聴取すると、北地さんというお名前で、大阪在住の歴史大好き。定年を期に、自転車で旧東海道の旅を始めたとのこと。日本橋をスタートして、5日かけて、愛知県豊橋までゆっくりまわるプラン。

 

 河田アナが、自転車での旅は箱根の山で難儀しないか聞いてみると、「地獄ですね。」と笑顔で答える北地さん。でも、「(昔の人が)この場所(旧東海道)歩いていたんやと思ったらワクワクする。

 『ちちんぷいぷい』の大ファンの北地さんのチャリに、番組のステッカーを貼らせてもらった。

 

 再び歩き出すと、今度は地元の方から声をかけてもらう。川崎市に住む伊藤さんは、番組のことは知らなかったけど、菅笠を背負って歩く2人が気になった。天気が良いので趣味のカメラをぶらさげ、何か良い被写体がないか探していたところだった。

 

 せっかくだから、平成最後の被写体として、河田アナとくっすんが東海道を歩く後ろ姿を撮影してもらう。2人に、カメラマンさんや音声さんなどスタッフさんを加えた昔偉御一行を撮った写真を、河田アナがカメラの液晶で確認すると、スタッフさんのかげになって、河田アナの姿はまるで写ってないし、くっすんも小さすぎる。

 河田アナとくっすんだけで歩く後ろ姿で取り直し、2回目は『河』と『く』の菅笠が大きく写り、バッチリ。

 

 京急『鶴見駅』の前を通り、

スタートから6キロ、横浜市鶴見区”生麦”地区界隈にやってくる。河田アナが「

生麦と言えば、くっすん。ピンときませんか?」と質問し、「早口言葉です。」と即答する。正解は、生麦事件

 

 生麦事件は、1862年に生麦村で薩摩藩士らがイギリス人4人を殺傷し、薩英戦争に発展した重大事件のこと。島津久光率いる400人の大名行列と、通訳のいない外国人が出くわし、文化の違いから悲劇が起こった。

 4人のイギリス商人たちは馬に乗っていて、当時の日本の風習では大名行列に頭を下げなければならないが、風習を知らないのでそのまますれ違おうとした。それを見て激オコの薩摩藩士たちは、いきなり刀で切りつけた。

 

 とある民家の外壁に、『生麦事件発生現場』の案内板がある。案内板を設置した方が、20年前に事件現場の近くに資料館を設置したと書いてあったので、訪問してみる。

 

スタートから6.5キロ、『生麦事件参考館』に到着。地元生麦で生まれ育った、浅海館長が自宅の敷地内に作った、私設資料館。館長さんに館内を案内してもらい、お話しをうかがう。

 

 最近横浜市の教育委員会が調べたところ、展示品・所蔵品合わせて約600点の、生麦事件に関する資料がある。館長さん自ら古書店をめぐり、17年かけて収集したとのこと。

 とある観光客に、生麦事件は近代国家成立の発端となった重要な事件なのに、どうして資料を見せるところがないのか、地元の怠慢だと怒られたのを機に、地元として作らなきゃいけないのかなと、資料を集め始めた。

 

 今では日本全国からお客さんが訪れ(要予約)、館長さんに日本各地から講演会の依頼が殺到。2時間の講演を255回行い、生麦事件のことを話しながら横浜市をクローズアップしてくれたと、横浜まちづくり功労者賞を受賞した。

 

 河田アナがくっすんに、何かの資料館を作ってみたいか聞いてみると、嫁さんがくっすんより先に亡くなった場合に、嫁さん妻の服や肌着をを全部部屋に飾ろうと決めているという。くっすん専用の美術館?に、「つまんないもので作んないでください。」とツッコむ館長さんであった。

 

CM明け・・・午前11時30分、神奈川県横浜市。快晴の空の下、順調に歩いていると、くっすんが子安地区内で道端にある『トマトケチャップ発祥の地』碑(ケチャップ色)を発見する。

 

 碑のそばに『西洋野菜栽培とトマトケチャップのふるさと』と題する由緒書きがあったので、さっそく読んでみる。だがしかし、「もう、漢字多いから読むの疲れてきた。」と断念するくっすん。代わりに河田アナが細かい字の長文を読んでいると、おかあさんが通りかかったので、トマトケチャップについて聞いてみる。

 

 明治29年に、清水與助(よすけ)が横浜市子安地区で、日本初のトマトケチャップ製造会社『清水屋』を開業した。

 地元企業が当時のレシピを再現した復刻版の『清水屋ケチャップ』は、今でも横浜の市役所や高島屋などで取り扱っている。普通のケチャップよりコクがあり、きゅうりに付けたらとても美味しいとのこと。

 

 話しを聞いて、トマトケチャップを試食してみたくなったくっすんが、家にとってきてもらっていいですかと大阪のノリでお願いしてみると、快く承諾してくれた。

 

親切が身にしみながら、ケチャップ碑のそばで座って待つこと5分、清水屋ケチャップと、キュウリを一口サイズに切ってのせた皿をもってきてくれる。甘みがありフルーティーなケチャップで、きゅうりの味が引き立つ。キュウリが苦手なスタッフさんでも、美味しくいただけた。

 

 その後、近くでお昼休憩をとり(尺の都合?でカット)、

午後2:00、すでに夏並みの日差しを浴びながら歩き、

スタートから歩くこと約6時間

スタートから11キロ、目標地点の神奈川宿エリアにある、広重が浮世絵で描いた場所に到着。

 

 広重の描いた『神奈川宿』は、右手の坂道にズラッと旅籠が軒を連ねていて、左手に海が広がっている。坂道は当時のまま残っているが、海は埋め立てられている。坂の上に描かれた旅籠屋・『さくらや』は、『たなかや』に名前を変え、現在も営業している。

 

 まあまあ急こう配な坂を登り、『田中屋』に到着。1863年に創業した当時は旅籠だったが、平成2年から料亭として営業している。幕末期には、明治維新の立役者たちが足を運んだ、と語り継がれている。

 

 お店のエントランスにて、若女将(6代目)の晝間さんに詳しいお話しをうかがう。

 二階屋の松の木が目印だった『さくらや』を、156年前に買い取ったとこと。創業当時は、近くの海に多くの外国船が停泊し、多くの見物客で賑わった。

 どんな有名人が泊まったのか聞いてみると、西郷隆盛伊藤博文、さらに横浜の台場を造った勝海舟など、そうそうたる顔ぶれ。そして海舟の紹介で、坂本龍馬の奥さん・お龍が仲居として働いていたと伝わる。

 

 お龍が写っている、従業員たちの集合写真をお部屋にあがり拝見する。女性従業員は襟が汚れないように、白い襟かけを首に巻いている中、お龍とされる女性だけはつけていない。

 旅籠で2・3年しか働いてないと普通は下っ端のはずなのに、お龍はお客さんの部屋に出ていた。目立つ存在であったが、女中さんと喧嘩したり、酒に酔って管を巻いたりもしたとか。そんな逸話から、強いポリシーをもって、襟かけをしていなかったと推察される。

 

 若女将は、歴史ある『さくらや』を切り盛りしているけど、大変と思ったら本当に大変になるので、大変な仕事を楽しむという心持ちでいる。あとは、初代から代ごとのカラーで時代を乗りきっている。

 

 お龍の逸話をうけて、くっすんは「ちなみに女将さんは気の強いタイプですか?」と質問する。気が弱いタイプとの返事に、かぶせていやいやそんなことないでしょう、と否定する河田アナとくっすん。

 スポーツでも守ってばかりでは負けるので、守ってかつ攻めるという、お龍ばりのポリシーの若女将。そんな6代目に神奈川宿の通行手形を書いてもらい、通行許可をいただく。

 こうして、東海道五十三次・3日目の旅を無事終えた。

 

■簡易チャート

スタート:神奈川県川崎市・『東海道 かわさき宿交流館』→ 佐藤惣之助生誕の地 (0.4km) →『生麦事件参考館』(6.5km) → トマトケチャップ発祥の地 →  [昼食] ?→ 目標地点:『神奈川宿』 (11km) →『田中屋

 

 

 

【4日目・前編】 2019年05月02日(木)放送 

旅の内容:●神奈川宿保土ヶ谷宿?キャンペーンガールのはしり■岡蒸気で交通革命?!★メルヘンチックな河田さん

スタートは神奈川県横浜市・神奈川宿。目標地点は神奈川県横浜市・保土ヶ谷宿。約12キロの寄り道コース。

午前8:30、神奈川県横浜市にある、神奈川宿の『田中家』前からオープニング。東海道を通れば4キロだが、外れて観光名所や歴史スポットを寄り道する。

 

 スタートから東海道を外れ、横浜繁華街を目指して南へ歩く。

 

午前8:50、気温18℃の薄曇りで、歩くのにもってこいの天気。

 

スタートから0.5キロ、JR『横浜駅』前を通る。

 『横浜高島屋』の方に、金のオブジェを発見する。万歳している人間の像で、遠目に見て具志堅用高(チャンピオンになったときの)だと言うくっすん。近寄ると女性の像で、『横浜博覧会記念 宇宙と子供たち』と記されている。

 

 さらに、駅前でオブジェを発見。2人の女性が向かい合っている像で、一目見て、井戸端会議だと断定するくっすん。題名を読むと、『あら「今日」は(こんにちは)』で、見事的中。

 奥さん同士が集まると、話の種は芸能情報だと思っているくっすん。河田アナがくっすんに今気になっている芸能情報を聞いてみると、河田アナがぷいぷいで「えぇ、えぇ、えぇ。」と相づちを打つが、たまに「へぇ、へぇ。」と言っているときがあるということが気になっている。全く身に覚えのない河田アナ。

 

午前9:40、スタートから3.5キロ、JR『桜木町駅』前を通る。実はこの駅が、1872年に建設された初代横浜駅で、1915年に桜木町駅に改称された。

 

 駅の南側に歩き、『鉄道創業の地』碑の前に到着。1872年に、日本初の鉄道が作られた。新橋~横浜間の29キロを、約53分かけて運行した。1895年には、『東海道線』と名付けられた。

 

 建設当時、日本人にとってなじみのなかった鉄道は、反対運動が起こって、走行する土地の一部を確保できなかった。

 そこで、陸を走る代わりに、海の堤防の上に線路を作った。開業した後は、鉄道を目の当たりにして、便利で良いものだと広く受け入れられた。

 されど開業当時は、汽車に乗るときに草履を脱いだり、車内で用を足したりする人など、鉄道への知識がなかった。

 

午前10:30、横浜のベイサイドで、大観覧車『コスモクロック21』が見える。水面を見下ろせば、スタンドアップパドルボードに興じる人影を発見する。くっすんは、馴染みある神戸のハーバーランドに来た気分になる。

 

 万国橋を渡りきる手前で、幼児たちとシッターの大人たちとすれ違う。手押しのカートで運ばれる幼児たちを見て、快適そうだと河田アナ。

 

 新港中央広場で、チューリップなどの色とりどりの花々を見て、最近は花を見てすごく癒されると河田アナ。それは歳をとったからだとくっすん。とにかく、今は花が好きだと声を大にする。でも、くっすんは河田アナに対して、「ハイボール。」とか「生中。」とか言っているイメージをもっている。

 

 広場の花々を愛でて癒されつつ、

スタートから5キロ、横浜のシンボル、『横浜赤レンガ倉庫』に到着(くっすんの尺八は不発)。明治から大正時代にかけて建設され、日本初の荷物用エレベーター・スプリンクラー・防火扉などを備えた。

 

 現在は、歴史ある倉庫の中に土産店や飲食店がある。いろいろなお店をのぞき見しながら、横浜のおしゃれな雰囲気を堪能する2人。

 シウマイで名高い『崎陽軒』のお店を発見し、テンションがあがる。くっすんもたまに東京駅で買う、シウマイ弁当の他では麺類が充実している。メニューを見ていると、赤レンガ倉庫限定と書いてある『赤レンガシウマイ』があってそそられる。

 

午前11:05、崎陽軒にて昼食。赤レンガ色の『赤レンガシウマイ』を2人でシェアし、くっすんは『ふんわり天津飯とテリヤキチキン添えシウマイ2個付き』を、河田アナは『サンマーメンシウマイ2個付き』を食べる。

 赤いシウマイは、豚肉にズワイ蟹・赤米を練りこみ、皮にパプリカを使っている。サンマーメンは横浜発祥といわれるラーメン。

 

 お店には、昭和30年ごろに撮られた、シウマイ娘の写真で作られた、大きな看板がある。『一九五〇年八月十五日「シウマイ娘」登場、横浜駅ホームで雨に日も晴れやかなコスチュームにたすきをかけ、かごをさげてシウマイを売り歩く・・・』と文章が添えられている。

 崎陽軒は、1908年に横浜駅ホームに創業し、1950年にはシュウマイ娘が登場し、戦後復興の明るいニュースとして話題になった。

 

 今のキャンペーンガールのはしりであるシウマイ娘に、美女が売り歩くと男性はついつい買ってしまうとくっすん。そして、看板に写っている6人のシウマイ娘の中で、どの方がタイプかと河田アナに聞く。そういう目線で見てなかった河田アナは、結局どの方がタイプか答えない。

 

CM明け・・・。午後0:10分神奈川県横浜市。繁華街を歩き、おしゃれな景観に圧倒される2人。ゆとりのある街並みに、「まさにゆとり世代ですね。」とくっすんがコメント。

 

午後0:35、山下公園に到着。関東大震災の復興事業として、1930年に開園した日本初の臨海公園。震災で出たガレキで埋め立てて作られた。

 平日の昼間なのに、とても人で賑わっている。「メリケンパークもいいけど、山下公園もいいですね。」と神戸大好きのくっすん。

 

 海の方をじっと眺めている、おとうさんに声をかける河田アナ。中国語で返ってきたので、なんとなくの日本語であわせる。

 

 インコ愛好家の方々が、愛鳥たちといっしょに公園内でオフ会をしている。河田アナが「飛んで逃げないんですか?」と質問するが、鳥さんにはリードをつけているから心配ない。

 

 2人は手にインコを乗せてもらい、触れ合う。オカメインコという種類は、オウムの仲間。そして、手作りの洋服とリードでおしゃれな小鳥さんたち。

 河田アナの左腕では、鳥さんが顔に近い位置に大集合し、1匹は襟をついばんでいる。

 さらに、2人は頭の上にもインコを乗せてもらい、メルヘンチックな午後のひととき。鳥はカゴの中で飼うものだと思っていた河田アナは、リードをつけてお外で散歩できる楽しみ方もあるのだと体感した。

 

 山下公園内を散策し、『赤い靴をはいてた女の子像』の前に到着。『赤い靴』は、1922年に発表された童謡。その歌詞に登場する女の子をモチーフに、1979年に建てられた、座っている姿の像。

 

 像の前で、像を作った松永さんにお話しをうかがう。

 幼稚園の頃からずっと、公園に像を作ろうと思っていたとのこと。歌の2番に『横浜の埠頭(はとば)』とあるので、横浜に赤い靴の女の子の像がなきゃおかしい、と思いこむようになった。

 

 異人さんにつれられていった女の子は、実在の人物か聞いてみる河田アナ。いろいろな説のあるなか、きみちゃんという女の子だという説が優勢である。

 

赤い靴はいたきみちゃん

 明治時代に、3歳だったきみちゃんは、家庭の事情でアメリカ人宣教師夫妻の養女になった。3年後に夫妻がアメリカに帰国する際、きみちゃんは不治の病・結核にかかっていた。

 船旅の出来ないきみちゃんは、日本で孤児院に預けられ、3年間の闘病生活の末、孤児院で亡くなった。

 

 きみちゃんの物語を聞いて、守口市にも”きみちゃん”がいるとくっすん。くっすんの義母のあだ名がきみちゃんで、共通点を感じるという。最近は足が痛いらしいと聞いて、「お大事に・・・お伝えください。ひざを大切に。」と言うことしかできない河田アナ。

 

 日本で亡くなったきみちゃんを、外国へ行ったと思っていた、本当のお母さん。お母さんは、知り合いだった野口雨情に娘への思いを話す。雨情は母親の愛に感動して、この歌詞を作ったとか。

 

 現在合唱団を運営されている松永さんと、せっかくだから3人で『赤い靴』を合唱する。出だしの『赤い』の歌詞から、くっすんだけ歌が違っていて、ストップ。『リンゴの唄』と勘違いしていたらしく、そっちはくっすんのフェイバリット。

 気を取り直して、松永さんの指揮の下、青空の広がる横浜の埠頭で、1番を熱唱した。

 

午後1:40、目標地点の保土ヶ谷宿まで残り6キロ、寄り道もほどほどにして、宿場に向かう・・・と思いきや・・・。「次は中華街行きましょ。」と提案するくっすん。河田アナも、そんなに距離が離れてないからと乗り気。

 

 スタッフさんが、そろそろ保土ヶ谷宿に行ってほしい旨を伝えると、「まだ行けるでしょ。」と聞く耳を持たない河田アナ。1回の放送に尺が入らないと、さらにスタッフさんが意見すると、「それをなんとかするのが、きみの仕事やんか。大丈夫、何とかなる。何とかなるから。」と、アンストッパブルな河田アナ。

 

案の定、1回分の尺に入らないので・・・後編へ続く。

 

 

 

【4日目・後編】 2019年05月16日(木)放送 

旅の内容:●神奈川宿 → 保土ヶ谷宿▲横浜中華街でモグモグタイム坂の上のくっすん★本陣を守る名家が改名?!

スタートは神奈川県横浜市・神奈川宿。目標地点は神奈川県横浜市・保土ヶ谷宿。約12キロの寄り道コース。

午前1:40、神奈川県横浜市、山下公園から横浜中華街へ向かっている。

 

スタートから6.5キロ、高校生たちで賑わう、横浜中華街へ到着。

崎陽軒の『シウマイBAR』を発見する。

 

 この中華街は、約500メートル四方に600軒以上のお店が建ち並び、神戸の南京町の8倍の広さを誇る。

 幕末のペリー来航を機に、1859年に横浜が開港し、横浜に外国人居留地が設けられた。欧米人との通訳のため、多くの中国人が移り住み、中華街を形成していった。

 

 『中国料理萬鐘楼』の方に、中華街で一番古いお店をうかがうと、広東料理の『聘珍樓(へいちんろう)』とのこと。さっそく行ってみると、本日は休業日でがっかり。

 近代的ビルにある聘珍樓は、1884年に創業した、日本に現存する最古の中国料理店とされる。

 

 引き続き中華街をぶらぶらしていると、店頭で机を出している、手相占い師の方に手招きされるくっすん。机の前まで吸いこまれるように移動し、占ってもらうくっすん。

 手相占いによると、人間関係がちょっと弱いところがあり、感受性の乱れが激しいとのこと。ネガティブな結果に、河田アナがアドバイスをうかがうと、人並みなことではなく、自分独特のものを発揮するべしだって。

 

 ついでに河田アナも占ってもらうと、嬉しいことに人気が出るとのこと。くっすんが、河田アナには悪い吉兆はないのかうかがうと、女性にちょっと弱く、相手のペースにされやすいらしい。

 最後に、東海道の旅という企画が成功するか聞いてみると、「う~ん、行けると思うよ。」とポジティブな結果。

 

午後2:10、さらにぶらぶらする一行。食べることに関して、妥協を許さないくっすん、行列のできる小籠包専門店の『鵬天閣』に河田アナが並び、自分は他の店で何か買って合流して食べよう、と提案する。「すごい仕切るね。」と圧倒される河田アナだが、おとなしく従う。

 

 中華街のベンチに座り、お互いの収穫を確認し、もぐもぐタイム。

 くっすんはワンハンドグルメの『北京ダック』と、パンダの顔を模した『元祖パンダまん』を買ってきた。パンダまんの中身は豚まんかと思いきや、チョコカスタードと聞いて、意表を突かれる河田アナ。

 河田アナは『焼き小籠包』で、普通の味と海鮮の2種類がある。中の汁がこぼれないよう、アツアツの小籠包を一口で食べるくっすん、やっぱり熱さで悶絶する。でも外側カリカリ、中側ジューシーで美味なり。

 

 お食事中、下校中の小学2年生女の子2人に出会う。中華街が賑やかで楽しいところだと伝えると、水色のランドセルの子は中華街に住んでいて、お家の方が熊猫飯店を営んでいるとのこと。

 

午後2:50、横浜中華街を後にし、東海道に向かう。

スタートから7キロ、横浜スタジアムの前を通る。ロケ日は試合のある日だったが、ナイターで人影もまばら。

 

スタートから8.5キロ、全長560メートルの上り坂・『野毛坂』を進む。スイスイ坂を上っていく、電動自転車をうらやむ2人。

 

スタートから9.5キロ、めっちゃ急こう配な『尻こすり坂』を進む。その昔、坂を下るときに、荷車を引く人たちがお尻でブレーキをかけたことから、この名がついた。

 

 嫌なことはすぐ済ませたいがモットー?のくっすん、手相占いの結果が頭をよぎったのか、坂を走って上る。あーと叫びながらヤケクソ気味にダッシュし、河田アナは普通に上る。

 「けっこうキツいぞ、これ。絶対上あがって、バタンってまた倒れてるよ。」と占い師でもないが、予想する河田アナ。坂の上に着くと、やっぱり寝転がっていた。息をゼイゼイ切らしているが、しんどいけど一瞬で終わらせて大成功、と強がる。

 

 坂を下ると、再び坂。

 

CM明け・・・。午後3:50分、神奈川県横浜市。嫌なことは一瞬に済まときたいがモットー?のくっすん、「行くに決まってるじゃないですか。」とヤケクソで坂を猛ダッシュする。「これから上り坂、全部走るつもりなんかな・・・。」と後ろ姿を見送る河田アナ。

 この坂の上では、座りこんで休憩していたくっすん。また大成功と負け惜しむ。結局、体力を大きく消耗した。

 

午後4:30、やっとこさ、旧東海道と合流する。

 

帷子川(かたびらがわ)を渡り、

スタートから12キロ、目標地点の『保土ヶ谷宿』に到着。今は、『天王町駅前公園』となっている。

 広重の描いた『保土ヶ谷宿』は、旅人たちが橋を渡って宿場へ入る様子が描かれている。

 

 宿場町を盛り上げるため、『宿場を愛する本物のじじい』方が『保土ヶ谷宿名物会』で活動している。構成員は、和菓子屋・せんべい屋・ソバ屋さんなど。

 

 『宿場そば 桑名屋』の店主・近藤さんに、公園内でお話しをうかがう。

 広重の絵の保土ヶ谷宿では、帷子川とその上に架かる橋が描かれている。昭和39年に、川の流れを変える工事を行い、帷子川は150メートルほど北に移された。今は公園となっている、もともと川が流れていた場所に、保土ヶ谷宿名物会の提案で橋が再現された。

 今は東海道を歩く人が多くなっているので、名物会の皆さんも元気づけられるとのこと。

 

 2人が近藤さんに通行手形にサインして頼むと、本陣の軽部さんに書いてもらったらと紹介してもらう。本陣は、江戸時代に大名などが宿泊するため設置された施設。

 

午後5:10、天王町駅前公園から本陣跡へ向かう。

目標地点から1キロ、『保土ヶ谷本陣跡』に到着。敷地の外には、『歴史の道 本陣跡』と立て看板があり、本陣の由緒と復元イメージが載っている。

 

 江戸時代から本陣を代々管理してきた、軽部家の16代目に立て看板の前でお話しをうかがう。

 本陣の建物は関東大震災で全壊し、今は16代目の祖父母が住んでいた建物が残っている。

 

 本陣跡の隣りにある軽部さんのお宅へ移動し、貴重な資料を拝見する。大豪邸でとても広いお庭があり、ヘーベルハウスとのこと。

 

 応接間で、額縁に保存されている、徳川家康伝馬朱印状を見せてもらう。『此御朱印なくして 伝馬不可出者也仍 如何 慶長六年(1601年)  ほとかや』と書かれている。要約すると、この印をもってないと、伝馬を貸してはいけない。

 宿場では馬を36頭準備する決まりがあり、その馬をつかって公用の書状や荷物をリレー方式で運んだ。軽部家は、保土ヶ谷宿の本陣・馬の管理を担っていた。

 

 伝馬朱印状の現物が残っているのは珍しいそうで、ゼニ大好きのくっすんは「ちょっと、鑑定に出したいですね。」とコメント。「出したら、恥かいちゃいます。」と応える16代目に、海外に出したら値打ちが上がるとアドバイス。

 

 また、軽部家は明治天皇とのゆかりがある。かつて、明治天皇が保土ヶ谷本陣で休憩したとき、休憩のお代を入れた袋に軽部と書いてあった。それまでは苅部姓であったが、それを機に軽部に改名したとのこと。そんな16代目に保土ヶ谷宿の通行手形を書いてもらい、通行許可をいただく。

 こうして、東海道五十三次・4日目の旅を無事終えた。

 

■簡易チャート

スタート:神奈川県横浜市・『田中屋』→ JR『横浜駅』前 (0.5km) →JR『桜木町駅』前 (3.5km) →『横浜赤レンガ倉庫』(5km) →昼食:倉庫内 『崎陽軒』→ 山下公園 → 園内『赤い靴をはいてた女の子像』→ [後編] → 横浜中華街 (6.5km) → 横浜スタジアム (7km) → 『野毛坂』(8.5km) → 『尻こすり坂』(9.5km) →目標地点:『保土ヶ谷宿』(12km) →『天王町駅前公園』→ 『保土ヶ谷本陣跡』(13km) → 軽部さんち

MBSさんのちちんぷいぷい木曜日のコーナー、楠雄二朗(くっすん)と河田直也アナが、歩いて歴史ポイントを訪れ、現地の人と触れ合うコーナー『昔の人は偉かった』の第17章『東海道五十三次の旅』1日目~2日目のまとめ。

【1日目】 2019年04月04日(木)放送 

旅の内容:●日本橋 → 品川宿広重の絵を広めた会社を訪問■め組の喧嘩の首謀者を島流し?!★江戸の粋な下駄屋さん

スタートは東京都中央区・日本橋。目標地点は東京都・品川宿。約10キロのコース。

午前8:00、東京都中央区にある、日本橋で桜の木をバックにオープニング。『東海道五十三次の旅』では基本的に、1回のロケで次の宿場まで目指す、という分かりやすいルール設定。しかし、うまくいくかは、やってみないと分からない。

 

 歌川広重が江戸時代に描いた55枚の浮世絵・『東海道五十三次』を、現在の場所と照らし合わせながら京都を目指す。

 

 前もって昔偉コーナー当てに御便りを募集したところ、たくさんのハガキとメールが届き、「よっしゃあぁ~、ありがとうございます。」と喜びと感謝を示すくっすん。

 さっそく御便りを読む河田アナ。「河田さん、グッさん。このコーナーとても大好きで・・・」と書いてあり、くっ・すんと訂正するくっすん。気を取り直して読むと、出発点の日本橋の橋に描かれている『日本橋』の漢字は、徳川最後の将軍・徳川慶喜が書いたもの、という情報。日本橋のプレートを見ると、もっと崩した字を想像していたが、とても読みやすいキレイな字だと河田アナ。

 

 御便りの内容は、東海道中の名所・名物の情報などの他に、くっすんの尺八が下手だという苦情もある。「上手ならまだしも、スースーと気持ち悪い音を聞くと、イライラします。」というご意見を聞いて、ぐうの音も出ないくっすん。

 

 2人は歩きながら、昔の人が何日かけて東海道を歩いたかを話題にする。江戸時代の旅人は、15日前後で歩いたといわれ、飛脚に至っては、3~4日で走ったとか。

 

 そして、江戸時代の旅人は、自由に旅ができるとは限らなかった。関所を越えるには、通行手形が必要だった。

 というワケで、河田アナはスタッフさんから、昔偉版の『通行手形』を手渡される。今シリーズでは、53の各宿場を通行する際、その宿場の地元の方や、道中お世話になった方から、手形にサインを書いてもらう

 

午前9:30、東京都港区へ入る。

 

 東海道を少し外れ、

スタートから3.5キロ、『永谷園 本社』を取材する。永谷園は、創業者のご先祖が宇治でお茶の製造を開発していたことをルーツに、昭和28年に創業した。

 

 お茶漬けの素に封入されていた東海道五十三次カードについて、広報の小川さんにお話しをうかがう。

 くっすんも家に何枚かあって、お茶漬けといったら永谷園しか食べたことないと言い張る。その魂胆は、関西限定のCMなんぞあったら出してほしい、という算段。

 

 昭和40年から愛されている永谷園の東海道五十三次カードは、集める楽しみに、応募すればフルセットのカードがもらえることから、大人気となった。

 五十三次のカードのヒットを皮切りに、浮世絵シリーズ・海外の名画シリーズなど、封入されるカードの種類が入10種類まで増えていった。

 

 昔はお茶漬けの素を手作業に近い状態で作っていて、中身の確認したしるしに検印紙を入れていた。どうせ検印紙を入れるのであれば、その裏面を何か有効活用できないかと考え、和風な浮世絵を印刷したのが、永谷園の絵カードのはじまりとのこと。

 平成9年にカードの封入は終了したものの、お客さんからの問い合わせが多く、平成28年に東海道シリーズのカードが復活した。

 

午前10:20、永谷園の本社を後にして歩いていると、東京タワーが近くにみえる。スカイツリーもいいけど、東京タワーも味があるとしみじみ思う2人。

 

スタートから5キロ、旧東海道に戻り、芝大神宮に到着。1005年に創建された神社で、歌舞伎の演目でも有名な『め組の喧嘩』の舞台として知られる。

 め組は、今で言う消防団のことで、団員のことを鳶と呼んだ。1805年に、め組の鳶衆と力士たちとの大喧嘩が勃発した。

 

め組の喧嘩と首謀者

 喧嘩の発端は、芝大神宮で行われた相撲の春場所で、め組の数人がお金を払わずに観戦したことから。め組の鳶は、火事の時につかう半鐘をカンカン鳴らし、仲間を呼び集めて大乱闘となった。

 喧嘩を町の奉行所が裁くことになり、め組サイドも力士サイドも悪いが、一番悪いのは『め組の半鐘』だと判決を下した。そして、奉行所は半鐘を島流しにした。めでたし、めでたし?

 

 明治時代になって、半鐘は島流しを許され、三宅島から戻り、芝大神宮に保管されている。

 

 普段は非公開の半鐘、毎年2月の節分祭で、公開され鳴らされる。特別に、ウワサの半鐘を拝見させてもらい、宮司の勝田さんにお話しをうかがう。 

 力士の後ろには大名、鳶の後ろには町人がついているので、どちらの味方にもならないよう、半鐘を悪者にした。くっすんが「いわゆる忖度ってやつですか?」とコメント。

 

 芝大神宮には、昔上方の方から縁起物を求めて東海道を上ってきた人もいるとのこと。その縁起物とは、千木筥(ちぎばこ)。木=着に読みかえて、千着の衣装がたまる、つまり良いところにお嫁にいける・玉の輿にのれると、江戸時代に町娘たちがこぞってゲットした。

 

 最後は、はなむけに半鐘を鳴らしてもらう。

 

午後11:50、お昼ご飯を食べる店を探しにかかる。地元のお母さんと坊ちゃんに、オススメのお店をうかがう。お母さんのオススメは、『たぬき寿司』というお店で、坊ちゃんはちがう方向を指さし、美味しいお店があると教えてくれる。何屋さんか聞いてみると、「忘れた。」というのでズッコケリアクションする河田アナ。

 せっかくだから、坊ちゃんにインタビュー。この春からピカピカの小学1年生で、春休みの一番の楽しみは、一人で野球できること。でも将来の夢は、空手の日本一。それを聞いて、ウケる2人であった。

 

 近くにあるたぬき寿司に行ってみると、スーツ姿のビジネスマンさんで行列ができている。諦めて歩き出すと、すぐに青魚専門のお店を発見。

 くっすんが単身で取材交渉すると、オッケー。でも、ピリッとした感じで、「東京の方、怖いんですよー。」と及び腰になる。

 

 『産直青魚専門 御厨(みくりや)』にて昼食。河田アナは『アジフライ定食』を、くっすんは『ミックスフライ定食』を食べる。肉厚なアジフライはふかふか、カキフライはオーシャンって感じなアジ。

 

 CM明け・・・午後1:10、東京都港区。通行手形のことをうっかり忘れていたくっすん。品川宿まで残り3キロ地点。

 

午後1:40、東京都港区高輪。

スタートから8キロ、高輪大木戸跡に到着。1710年に江戸の南の入口に作られた。当時の同じ場所を描いた『東海道高輪風景』を見ると、大きな石垣が2つあり、その1つが今に残されている。

 また、絵では海が広がっていたが、今歩いてみればすっかり埋められて跡形もない。

 

 JR『品川駅』の前を通り、「ああ、このまま大阪に帰りたい。」とぼやく、はやくもホームシックなくっすん。

 

午後2:20、スタートから10キロ、京急線の線路にある踏切の南側に、『従是南 品川宿 地内』の傍示杭(ぼうじぐい)がある。品川宿だった踏切の北側は、今は商店街になっている。

 

品川宿

 東海道五十三次の、江戸から数えて1つ目の宿場。江戸時代には、約2キロの宿場に100軒を越える旅籠が連なっていた。

 

 元・品川宿で古書店を営む、田中さんにお話しをうかがう。今現在、商店街の入り口に復元されている傍示杭は、昔は100メートルほど手前に設置されていたとのこと。その場所まで案内してもらい、『品川宿』の浮世絵と見比べると、面影が全然残っていない。

 

 田中さんが持ってきてくれた本に掲載されている、大正時代の写真を見ると、面影がまあまあ残っている。大正の中頃から、品川宿辺りの海の埋め立てが始まった。現在周辺のほとんどが埋め立て地となったが、商店街から50メートルほど東に行くと、『品川浦 舟だまり』が残っている。

 

 江戸時代から残っているお店はとても少なくなっているが、昔ながらの草履や下駄を扱っている、履物屋さんがあると教えてもらう。

 

 せっかくだから、品川商店街にある履物屋さん・『丸屋履物店』をアポなし取材する。お店には、草鞋や下駄がところ狭しと陳列されている。

 カウンターの向こうに座っている、5代目と6代目にお話しをうかがう。お店の創業は、江戸時代の末期・慶応元年(1865年)。

 

 江戸時代の品川宿は、今でいう竹下通りの賑わいだったとのこと。京都から江戸へ上ってきた旅人は、品川宿で着物や履物を整えた。

 料理屋にいる下足番は、旅人の足元を見て、通す部屋を決めていた。良いモノを履いていれば、「ふところが温かいだろう。」と判断する。

 

 現在では、出来上がった靴を購入するのが当たり前だけど、昔は台と鼻緒を選び、足の形・大きさに合わせてその場ですげるのが一般的だった。丸屋履物店では、その販売方法を続けている。

 2人も店頭で、台(約40種類)と鼻緒(1,000種類)の組み合わせを考えてみる。

 

 草履は、かかとを出して履くものだと教わる。「台より中へかかとが入っているようじゃ、粋じゃない。」、と5代目。つまり体が弱いとみなされ、お相撲さんでいえばかかとに泥がついているようじゃ、最初から負け。

 そんな含蓄あるお話しを聞いて、なるほどと感心する河田アナ、それをよそに下駄の台を選んでいるくっすん。

 

 好みの台と鼻緒を選べば、その人の足に合うように、微調整をしてくれる。河田アナは下駄、くっすんは草履を、5代目と6代目に調整してもらい、約10分で完成。

 江戸流の草履の粋な履き方は、かかとを持ち上げて引きずって歩く。その音で、「俺が来たぞ。」と知らせる。河田アナもオリジナル草履でやってみるが、ちょっと恰好悪いと5代目に言われる。

 

 昔の日本人の、履物に対するこだわりを知った2人は、最後に履物屋さんの仕事を体験させてもらう。下駄の台には、砥石を切りだしたときの粉末・『砥の粉』が塗られていて、それを道具でこすってツヤを出し、木目をはっきりさせる。

 河田アナがやると、五代目に「うまい、うまい、うまい、うまい。たいしたもんだね・・・。下駄屋になれるわ。」とめっちゃ褒められる。くっすんがやると、「まぁまぁだね。」とそこそこ褒められる。

 

 様々な江戸の『粋』を教えてくれた5代目に、品川宿の通行手形を書いてもらう。手形の裏には、「がんばって下さいね。」と有り難いお言葉をいただく。

 こうして、東海道五十三次・初日の旅を無事終えた。

 

■簡易チャート

スタート:東京都中央区・日本橋 →『永谷園 本社』(3.5km) → 芝大神宮 (5km) → [昼食] :『産直青魚専門 御厨』→ 高輪大木戸跡 (8km)  目標地点:『品川宿』 (10km) → 『丸屋履物店

 

 

 

【2日目】 2019年04月11日(木)放送 

旅の内容:●品川宿 → 川崎宿八百屋お七の悲恋■大森で海苔作りを体験★蒲田発祥のご当地グルメ

スタートは東京都品川区・北品川商店街。目標地点は神奈川県・川崎宿。約12キロのコース。

午前7:00、東京都品川区にある、北品川商店街からオープニング。「てぇへんだ、てぇへんだ。てぇへんだ。寒いです。」と物陰から飛び出すくっすん。お天気は快晴なのに、朝の気温は6℃。

 

 

午前7:15、北品川商店街を抜け、目黒川の川岸に桜がちょっと咲いている、品川橋を渡る。そこで、河田アナからくっすんへ、クイズ。『品川の地名の由来は?』という問題に、「川に・・・、品物。品、落とした。」と答えるくっすん。惜しいかな、目黒川に諸国からたくさんの品物が集まってきたことから、品の集まる川=品川となった。

 

スタートから1キロ、青物横丁近辺を通る。

 ここで、奈良県の女性からのお便りを、河田アナが紹介。

 「今は奈良 橿原に住んでおりますが、3年前まで品川『青物横丁』旧東海道近くに住んでおりました。毎日 旧東海道を歩いて、目黒川沿いの職場に向かっていました。とても面白い街道ですよ。また是非とも住みたいと希望しております。」

 

 メッセージ紹介者には、昔偉手ぬぐいをプレゼント。その見本品を広げるのに、もたもたするくっすん。『どしどし応募してね』、とのこと。

 

午前7:45、青物横丁商店街を抜け、旧東海道を南へ歩くこと3キロ、

スタートから3キロ、『鈴ヶ森刑場遺跡』に到着。刑場とは、死刑を執行する場所。江戸の町では、浪人が増えて浪人による犯罪が多発した。そのため、江戸の入口に刑場を構えることで、江戸に入る浪人に『悪いことしちゃダメよ』と警告する目的があった。

 かつて約1,500坪の広さがあった刑場は、みせしめのための死刑は野蛮だと、明治4年に廃止となった。処刑者を供養するため、跡地に大経寺が建てられた。

 

 遺跡の火炙台石(ひあぶりだいいし)の前で、大経寺のご住職の小越さんにお話しをうかがう。

 この刑場では、磔(はりつけ)と火炙りの刑を中心に行ったとのこと。時代劇ファンの方はよくご存じでしょうが、江戸時代には罪の重さによって死刑の方法が異なった。なかでも、最も罪の思い刑が火炙り。

 

 江戸時代には、何度となく大火が起こり、その被害は江戸の3分の1・半分を焼くほど甚大であった。だから、放火は最も重い罪とされ、犯人も焼き殺された。放火犯は、火炙台石の穴に立てられた鉄柱に縛りつけられ、火を点けられた。

 というような凄惨な死刑の話しを聞いて、眉根を寄せる河田アナ。

 

 文学作品や歌舞伎の題材にもなった、『八百屋お七』が火炙りの刑に処せられたのも、鈴ヶ森刑場。

 

うら若き八百屋お七の悲恋

 八百屋の娘・お七は、1683年の『天和の大火事』で、家から焼け出された。家族とともにお寺に避難し、寺の小姓に恋をした。

 やがて家が再建され、お寺を後にして帰った。しかし、恋の炎は消えず、もう一度家が燃えれば、『また恋する相手といっしょにお寺で暮らすことができる』と考えた。

 思いを抑えられず、ついに自宅に放火してしまい、火炙りになった。

 

 お七が享年14歳だったらしい聞いて、いっそう切なくなる河田アナとくっすん。くっすんは、同い年の娘さんが、嵐の大野君に夢中になって、周りが見えてないと心配する。ご住職に妙案がないか聞いてみるが、「まーあ、無理でしょ。」とのこと。大人になる通過儀礼なもので、周りがどうかこうかするものでなく、温かく見守るべし。

 

 供養塔に手を合わせ、次の目的地を目指す。

 

午前9:10、お七さんの悲劇を、語り合いながら歩く2人。くっすんは、ヨメさんにお七さんぐらい自分に夢中になってほしいという。

 この間、ヨメさんが短パンをはいてすごく似合っていたのに、「いやでもこんな私おばさんやから、短パンなんかはかれへん。」とか言うので、僕より世間かと思った。

 

 くっすんの独特な言い回しに、笑ってしまう河田アナ。河田家ではコスプレとかしないが、くっすん家では何ぞのコスプレをしているらしい(短パンでコスプレ?)。河田アナが何のコスプレをしているか話の流れで聞いてみたが、「それは言えません。」と秘密。くっすん夫婦の秘密を垣間見て、ほとんど使えない話しだと、河田アナ。

 あれこれ話している間に、東京都品川区から大田区へ入る。

 

 旧東海道を少し離れて、寄り道。

午前9:45、ほぼ満開の桜並木を歩き、

スタートから5キロ、『大森 海苔のふるさと館』を取材する。大森は江戸時代から海苔の養殖が盛んで、御膳海苔と呼ばれて将軍に献上されていた。しかし、昭和37年に東京湾が埋め立てられ、海苔の養殖は幕を閉じた。

 地元の伝統産業だった海苔作りの歴史を次の世代へ伝えるため、平成20年に海苔のふるさと館がオープンした。

 

 11月下旬~4月上旬まで、海苔を作る、海苔つけ体験を無料で開催している。2人も特別に、海苔作りを体験させてもらう。かつて大森で海苔を生産していた、田中さんに作り方を教わる。

 

 お手本として、田中さんの海苔の作り方を拝見。

 まずは、刻んだ海苔を水に溶かして薄める。次に、海苔簀(のりす)の上に木の枠を置く。そして、水に溶いた海苔を升に入れて、木の枠の中へ海苔を流しこむ。と同時に、作業している台を揺らして、海苔の厚さを均等にする。すると、見事シート状になった海苔が出来上がる。

 

 プロの技を見たところで、河田アナから海苔作りに挑戦。見守るくっすんの方が緊張するなか、躊躇することなく木の枠へ海苔を流しこみ、間髪を入れずの作業台揺らしもタイミングばっちり。初めてにしては上出来で、均一な厚さの板海苔ができた。

 

 下手そうなくっすんは、やってもいないのに、初心者向けのプラスチック海苔簀で挑戦する。升をひっくり返して海苔を流しこむ作業がたどたどしく、作業台を揺らす作業もすっかり忘れている。河田アナが「全然揺らさへんやん。」とツッコんでから揺らしたが、時すでに遅し。できた板海苔は、向こうが透けて見える部分があるので、「ダメってこと。」と田中さん。くっすんが、「嬉しそうに言う。」とツッコむ。

 

 できた板海苔は、直接日に当たらないよう、半日かけて天日干しする。河田アナ・くっすん作の板海苔も、天日干し。完成した板海苔は、後日、自宅まで郵送してくれる。

 

 さらに、以前作った板海苔を、試食させてもらう。火で炙ったばかりの板海苔は、食感も風味も抜群。河田アナが真面目に食レポしていると、となりでバリバリ焼き海苔をむざぼり、邪魔するくっすんであった。

 

午前11:00、人懐っこいトイプードルのくぅちゃんが近寄ってくる。すかさず、しゃがみこんで戯れるくっすん。生後6ヶ月で元気ハツラツ、立ちっぱなしの河田アナの足にもじゃれつく。

 くぅちゃんにバイバイした後、「年とったらやっぱり、犬・・・とか猫とか飼いたくなるやろな・・・。」と考える河田アナ。動物は苦手ではなく、さっきも膝でくぅちゃんを感じたとのこと(確かにいつもより距離が近かった)。

 

スタートから8キロ、スタートから5時間半、旧東海道へ戻ってくる。

 

午前11:50、京急『蒲田駅』前を通る。

 

CM明け・・・。東京都大田区・蒲田でお昼ご飯の聞き込み。くっすんが地元の女性から、『ニイハオ』というお店を教えてもらう。

 羽根付餃子発祥のお店・『你好本店』で、くっすんが単独で取材交渉すると、すぐ近くに住む社長さん直々に、お孫さんと来てくれた。

 お店の前で羽根付餃子についてうかがうと、35年前に、見た目で美味しそう、食べても他のところにないぐらいのものを作ろうと思って、研究を重ねて開発したという。

 

午後0:30、你好本店にて昼食。社長さん自ら、2人のテーブルに羽根付餃子をもってきてくれた。河田アナ・くっすんともに、『羽根付餃子(10個) チャーハン (汁物付)』を食べる。羽根付餃子を噛めば、小籠包みたいにすっごい(野菜由来の)汁が溢れ出る。

 

午後1:00、羽根付餃子でお腹満腹の2人、後はゴールを目指すのみ。ただ、お天気が悪くなってくる。

 

スタートから11キロ、多摩川のリバーサイドへ到着。歌川広重の浮世絵・『東海道五十三次』では、2人のいる岸から、多摩川と向こう岸にある川崎宿を描いている。

 かわさき歴史ガイド協会の中村さんに、その場所へ案内してもらう。多摩川に架かる橋へ上がると、その橋は車の往来の絶えない六郷橋。

 

 広重の時代にこの場所に橋はなく、『六郷の渡し』から渡し船で対岸の川崎宿へ渡っていた。

 橋のない時代、明治天皇が東京へ行幸されたときには、23艘の船を横に並べ、その上に板を敷いて作った、橋を渡った。

 

 また、たくさん建っているビルの谷間から富士山が見える・・・はずだが、今日は曇りであいにく見えない。現在は、富士山だけが当時の面影を残している。

 

 雨がパラつき強い風も吹くなか、六郷橋を歩いて多摩川を渡る。

午後2:30、スタートから12キロ、東京都から神奈川県川崎市へ入る。そして、目標地点の川崎宿に到着。

 

川崎宿

 東海道五十三次の、江戸から数えて2つ目の宿場。江戸時代には、約2キロの宿場に70軒を越える旅籠が連なっていた。

 

 せっかくだから、江戸時代の川崎宿について知ることのできる、『東海道 かわさき宿交流館』を取材する。職員の伊藤さんに、館内を案内してもらう。

 当時の川崎宿を再現したジオラマを拝見。川崎宿は東海道の宿場の中で、最後の方にできた。品川宿から神奈川宿まで40キロもあったので、1623年に川崎宿が設けられた。

 江戸時代には、川崎大師を詣でる日帰り旅行が流行った。

 

 交流館には、広重の『川崎宿・六郷の渡し』の顔出しパネルがあり、写真撮影用の衣装やカツラまで用意してある。撮影・衣裳の貸し出し無料なので、2人はスタッフさんといっしょに写真をとる。

 くっすんは町娘、河田アナはお殿様の衣装とズラに着替える。河田アナの恰好を見て、「・・・どうみても東海道旅してないですよ。あの、お城にいそうです。」とくっすんにツッコまれる。自然に選んでしまっていたとのこと。

 

 町娘とお殿様が手前の舟に乗りこみ、奥の舟の船頭さんと乗客の顔出しパネルから、スタッフさんは顔を出す。伊藤さんに写真をとってもらい、良い記念になった。

 

 せっかくなので、交流館で開催される落語会のビラ配りをする、町娘とお殿様。落語家と間違われるお殿様。2人が懸命に配るビラを、川崎の人たちは快く受け取ってくれる。

 

 ビラを配り終え、川崎宿の歴史を今に伝える、伊藤さんに通行手形を書いてもらう。手形の裏には、「ビラくばり手伝ってくれてありがとうございます。」と有り難いお言葉をいただく。

 こうして、東海道五十三次・2日目の旅を無事終えた。

 

■簡易チャート

スタート:東京都品川区・北品川商店街 → 青物横丁 (1km) →『鈴ヶ森刑場遺跡』(3km) → 『大森 海苔のふるさと館』(5km) → 京急『蒲田駅』前 → [昼食] :『你好本店』→『六郷の渡し』→ 目標地点:『川崎宿』 (12km) →『東海道 かわさき宿交流館

MBSさんのちちんぷいぷい木曜日のコーナー、楠雄二朗(くっすん)と河田直也アナが、歩いて歴史ポイントを訪れ、現地の人と触れ合うコーナー『昔の人は偉かった』の『東海道五十三次 特別編 歌川広重ゆかりの地めぐり』のまとめ。

 

2018年03月21日(木)放送 

 

旅の内容:●歌川広重ゆかりの地めぐり▲広重にパクリ疑惑?!■砂場で食べるお蕎麦?!★外国人に学ぶ浮世絵の魅力◆2人の船出を占う偶然の出会い

 

スタートは東京都足立区・東岳寺。目標地点は東京都中央区・日本橋。約16キロのコース。

 

午前8:00、東京都足立区にある、東岳寺の門前からオープニング。「まだいるよ。」とフェードインするくっすん。昔偉をクビになるのでは、といろんな人から心配されていたので、新章に続投のご報告。東京の日本橋から東海道五十三次を通って、京都の三条大橋を目指す、涙あり笑いありの一大スペクタクル浪漫・・・になるはず。「良かった~、まだ仕事ある。」とホクホクのくっすんであった。

 

 東岳寺の境内には、歌川広重の100回忌の記念碑とお墓がある。広重は江戸時代末期の浮世絵師で、現在の千代田区・丸の内付近で生まれた。東岳寺は、広重が晩年を過ごした浅草にあったが、昭和36年に足立区へ移った。

 

 記念碑の前で、東岳寺でのイベントの解説を行っている、浮世絵評論家の稲垣さんにお話しをうかがう。

 広重の浮世絵は、鳥瞰図的な景色な描き方に遠近法をプラスして、あたかもその場所にいるような景色を描いている。さらに、自然の風景、雨・雪・風も盛りこみ、独特の世界を作りあげた。

 

 あのゴッホが、広重の描いた『名所江戸百景』を模写した・・・というのは有名な話しとのこと。2人が両者の絵を見比べると、ほぼいっしょに見える。手前のモノを大きく、奥にあるモノを小さく描く、遠近法を駆使してゴッホを驚かせた。

 

 ちなみに、日本の浮世絵が世界に広まったのは、江戸時代に陶器や磁器の緩衝材として使われて海を渡り、それを見た西洋人が感激したのがきっかけとされる。

 世界的にも有名な広重、その出世作が37歳のときに完成させた、『東海道五十三次。しかし、最近の研究で、実際には東海道を歩いていなかったのではないか、といわれている。

 

 広重が『東海道五十三次』を描いた、60年も前に『東海道名所図会(とうかいどうめいしょずえ)』という絵本があった。その挿絵を元に描いたという。2人が両者の絵を比べると、よく似ている。

 江戸から箱根辺りまでは、広重も行っていたのではないか、と稲垣さんの見解。

 

 稲垣さんも、昔『東海道五十三次』の解説を書くために、車と足を使って歩いた。そのときの、由比の薩埵峠(さったとうげ)から見る富士山が、いまだに印象に残っている。それも今から楽しみにしてがんばって歩きます、と河田アナ。

 

スタートから4キロ、荒川を渡っていると、スカイツリーがひょっこり見える。くっすんは初めて、スカイツリーを肉眼で見た。

 

スタートから5.5キロ、午前10:20、隅田川に架かる千住大橋を渡る。千住の大はしは、広重の『名所江戸百景』に描かれた、江戸の名所のひとつ。

 

午前11:10、東京都足立区から荒川区へ入る。

 

スタートから8キロ、商店街『ジョイフル三ノ輪』の中にある、『砂場 総本家』にて昼食。店の前で尺八の効果音を吹くくっすん、カスカスでなかなか音は出ない。砂場とは、江戸時代に『江戸三大暖簾』と称された蕎麦のうちのひとつ。

 

 まずはお店の中で店主さんに、お店の歴史についてうかがう。砂場の起源は古く、創業約400年。大阪城築城の頃、元々は『いづみや』の屋号で大阪に蕎麦屋を構えていた。

 大阪城築城に使う木材は、乾燥させるために砂場に置かれた。その隣にあった『づみや』は、いつしか砂場と呼ばれるようになり、屋号も改めた。元あった場所の大阪西区の公園には、『ここに砂場ありき』と石碑がある。

 

 実は大阪にあったとき、お店の2階にある隠し部屋を利用して、秘密裏に行われる会合で得た情報を、砂場は隠密として徳川家へ流していた。徳川家に貢献したことから、江戸に下ることを許された。

 それを聞いた豊臣秀吉大好き・大阪城大好きのくっすん、「うわー、許されへんわー。」と怒る。「じゃあ~。今日はじゃ、(くっすんは)蕎麦なしで・・・。」と河田アナ。

 

 砂場について学んだ後は、実食。河田アナ・くっすんともに『天ざる』を食べる。お蕎麦を見て、「つぶつぶが入ってない、バニラビーンズみたいな入ってるじゃないですか。」とくっすん。砂場のおソバはそば殻が入ってなくて、せっかち?な江戸っ子向きに、噛まずにつるつるノドを通る。関西のおソバばかり食べている2人には、食感・味が新鮮なおソバと天ぷらであった。

 

午後0:40、東京都台東区を歩く。

 

 スカイツリーをチラ見しつつ、

スタートから10キロ、老舗のゆうえんち・『浅草 花やしき』の前に到着。絶叫アトラクションがチラチラ見え、街中にあることに驚く2人。

 

 入口に『おかげさまで開園165周年』のノボリがあり、さらに驚く。2019年の165年前は1854年で、「江戸時代ですやん。」と河田アナ。日本に初めてペリーが来航したのが、1853年と覚えていた。「(花やしきに)ペリー来てるかも?」というにくっすんに、ちょっと間をとり「ペリーは来てへんやろぉ。」とツッコむ。

 ノボリは2018年のモノで、花やしきはペリー来航と同じ年、1853年に植物園としてオープンした。

 

スタートから10.5キロ、浮世絵の技術を今に伝える、『木版館』を見学&取材する。2018年7月にオープンし、江戸時代~現代までの木版画を販売している。

 お客さんの9割が外国人で、お店のオーナー兼職人さんも外国人の方。流ちょうな日本語を話す、カナダ出身の彫師・デービッドさんは、34年前に浮世絵に魅了され、単身日本へ渡ってきた。

 

 江戸時代の木版画技術で面白いのは、一見印刷物みたいにみえる絵が、絵を動かして光の当たる向きを調節すると、見えなかった部分が浮かび上がり、立体的に見えるところ。鶴の絵では体の羽・毛、桜の絵では背景に模様が浮かぶ。

 現代は電気が多すぎて、日本人は浮世絵の面白さを忘れてしまった、と憂うデービッドさん。江戸時代の人は机の上で絵を見て、障子や行灯などで明かりが横から入ってきたので、自然と浮世絵の情緒を味わうことができた。和紙+職人の力+光=浮世絵となる。

 

 日本の木版画は、彫った板に絵の具を塗り、色の数だけ摺る。北斎・広重などの絵師が原画を描き、デービッドさんのような彫師が原画をもとに木版を彫り、木版を使って摺師が色を摺る。摺る色の数だけ木版が必要で、職人技が求められる同じ色でも濃淡や線の太さのよって、さらに木版が増える。

 

 花と和服の女性の絵は、約23回くらい摺っているとのことで、河田アナがその多さに驚く。しかし、デービッドさんにとってはまだ少ない方で、店のカウンター横に飾ってある美人画は69回96回摺った。

 

 2人は摺り師の作業を勉強し、体験する。

 木版の左右の下隅には、紙をのせるときに位置がずれないよう、木のふちを作っている。これを見当といい、紙の角を合わせることで、たくさんの色を摺っても、色をのせる場所がずれない。木版の見当が、見当ハズレや見当違いの語源といわれる。

 

 まずは、デービッドさんの摺る作業を見学。絵の具を木版に塗り、見当に合わせて和紙を置き、バレンで均等に力がいきわたるよう摺る。和紙の裏面に、絵の具が浮かんでくる。木版から和紙をのけると、水色の波が転写されている。

 ここで、デービッドさんから2人にクイズ。摺ったばかりの和紙の、絵の具部分に触ってもオーケーか?河田アナはにじんじゃうので触らない方がいいと答え、くっすんはもう大丈夫だと反対の意見。正解は・・・、触ってもオーケーで、グッドボーイと褒められるくっすん。何故かというと、絵の具がバレンの力で、和紙の中に吸いこまれたから。

 

 説明の終わったところで、今度は2人が摺る番。

 2人は協力して、5色刷りの木版画に挑戦。河田アナが1色目の青色を摺り、続いてくっすんは2色目に黄色を摺る。さらに、グレー色・黒色と重ね、仕上げの5色目をくっすんが摺って、北斎の『神奈川沖浪裏』を完成させる。

 上々の出来に満足する2人は、「悪くはないデスネ。」と褒めてもらう。手間暇はかかるけど、「やっぱり昔の人が考えたものって、すごいですね。」と河田アナ。

 

 最後に、デービッドさんが一番気にいっている、広重の作品を拝見する。1970年代に復刻された、『近江八景』の木版画で、「これより美しい浮世絵はない。」と惚れ込んでいる。

 浮世絵は、広重や北斎だけで作ったのではなく、teamworkの賜物。腕利きの彫師や摺師がいて、初めて完成する。

 

 CM明け・・・午後3:10、東京都台東区。だんだん大きくみえるスカイツリーに、デカさを実感する2人。

 

スタートから11キロ、観光客でごった返す、浅草寺に到着。浅草寺の総門・雷門は、正式には風雷神門と呼ぶ。現在の門は、昭和35年に松下幸之助の寄進によって建てられた。

 

 浮世絵に詳しい太田記念美術館学芸員の渡邊さんに、雷門の前でお話しをうかがう。

 広重の浮世絵・『名所江戸百景』に描かれている浅草寺の、雷門のでっかい提灯を見ると、『雷門』と違う文字が書いてあることに気づくくっすん。書かれている文字は『橋』の文字で、提灯全体には『志ん橋』と書いてある。

 実は、浅草寺の本堂にある、平成16年に再建されたでっかい提灯に『志ん橋』と書いてある。

 

 また浅草寺の浮世絵は夏に出た絵だが、雪が降っているのでどうみても冬の情景。絵の出る前年の1855年に、安政の大地震が起こり、浅草寺の五重塔のてっぺんの屋根が壊れた。

 絵の出る少し前に五重塔が修復され、大地震から復興したことも合わせて、浅草寺の建物に紅色、積もる雪に白色をつかって、おめでたい絵に仕上げたという説がある。洒落た演出が好きな、広重らしいエピソードとのこと。

 

 2人は雷門をくぐって、浅草寺の本堂へ向かう。約250メートルある参道の左右に建ち並ぶ出店は、仲見世と呼ばれ、89軒のお店がある。

 お祭り騒ぎの仲見世を歩ていると、浮世絵関連グッズを扱うお店を発見する。『酒井好古堂』でぶらり立ち寄れば、店主の酒井さんが超大物。

 

 長野県松本市出身で、「北斎とか広重が遊びにきて、うちがスポンサーになって・・・。」とスケールがちがう。お店の外に貼ってある掲示物には、広重の描いた、酒井さんのご先祖さんの絵がひっそり載っている。

 酒井家は江戸時代より長野県松本市で、紙問屋などを営み、広重などを支援した豪商である。なんと松本市には、35年前に建てた日本浮世絵博物館があり、今は酒井さんの息子さんが理事長を務める。

 

 あまりのスケールの大きさに、ちょっと信じがたいくっすん。河田アナが東海道五十三次の旅で、博物館に寄っていいか、聞いてみると、「全然いいですよ。」とのこと。博物館の所在地を長野県松本市と確認し、「通ったら・・・、えらいことになる。」と冷静に分析する河田アナ。おみやげに、広重の五十三次の絵が全て載っている、メモ帳をもらった。

 

 本堂で東海道の旅の安全を祈願して、浅草寺を後にする。後は、ゴールの日本橋を目指すのみ。

 

午後4:40、神田川を渡り、「あなたは、もう、忘れたかしら~。」と口ずさむ2人。水の汚さを残念がる河田アナ。

 

スタートから15キロ、東京上野にある、博物館を観賞された帰り道で、天皇皇后両陛下の乗ったお車が、2人の目の前を通過する。先頭の白バイの後、2代目のお車の後部座席に、天皇皇后両陛下のお姿を確認した。天皇陛下のお顔がこちらに向いていたようにみえたと河田アナ。

 偶然にも陛下に出会った2人は、こんなこともあるんやあと、まさに狐につままれたような気分になる。「新コーナーがスタートするとともに、幸先いいスタートですね。」と感激しきりのくっすん。そういえば、警察の方が多く見かけるなあ、と予兆はあったのだ。

 

スタートから16キロ、午後5:30、目標地点の日本橋に到着。日本橋は東海道の起点で、現在の橋は明治44年に完成した、20代目。

 

 今の日本橋と、広重が描いた東海道五十三次の1枚目、『日本橋』の絵を見比べると、「名残はないですね~。」とくっすん。昔の絵では、木造の橋の奥から、参勤交代の大名行列がやってくるところで、橋の手前では庶民がせわしく働いている。

 河田アナは、大名行列と今しがたの天皇皇后両陛下の車列が重なるような気がする。くっすんも言われてみれば、そんな気がする。

 

 新年度4月から、いよいよ江戸・日本橋をスタートして、ゴールの京都三条大橋を目指す。一体どれくらいかかるか見当もつかないけど、日本で一番有名な街道をなんとか歩ききれるようにがんばります、と決意表明。応援しましょう。

 

■簡易チャート

スタート:東京都足立区・東岳寺 → 千住大橋 (5.5km) → [昼食]:『砂場 総本家』 (8km) →『浅草 花やしき』の前 (10km) → 『木版館』(10.5km) → 浅草寺 (11km) → 酒井好古堂』→ 目標地点:日本橋 (16km)