アメリカ心理学会は神への信仰を精神病に分類する~過ちを繰り返さないために教義の整理が行われる時~ | モトPのありのままの幸せ~♪

アメリカ心理学会は神への信仰を精神病に分類する~過ちを繰り返さないために教義の整理が行われる時~

皆さん ラブラブ こんちゃ~ 音譜



脳科学・・・特に心理学・・・ は。これまで タブーとされていた分野 にようやく 切り込みを入れ始めたようです。 ビックリマーク


それは 人々の心に宿る宗教心 についてです。


人間に与えられた基本的人権の保障の観点から言えば、 『信教の自由』 は 保障されなければなりません。 ビックリマーク つまり、何を信じるのも自由・・・・キスマーク


そのことで 私たちが 幸せを感じることができるのであれば、素晴らしいことです。クラッカー


ところが これがくせ者で、 “自分が信じることは信念に従って行動すべき・・・” となり、結果的に “信じることは何でもやって良い・・・” という おかしな論理 を生み出している場合が多々あります。 


例えば、それを悪用した 宗教ビジネス などですね。叫び


でも これは まだわかりやすい方です。 何かを買わされたり、お金がなくなって騙されたことに気づいたりするので、まだ良いです。 


気づかない場合があります。 それは もっともらしい教義 の中に潜んでいます。


実は、これが原因で人類の精神的な成長が遅れてきた・・・ と いってもいいかもしれません。 叫び


シンプルに言えば、 これが原因でこれまでずーっと戦争が続いてきた ということです。


人類の歴史は まさに戦争の歴史であり、それは殺し合いの歴史でした。

その戦争の背景には宗教があるのは よく言われことですね。


人々を幸せにするはずの宗教が、実は 『大量殺戮』 という 全く逆の結果を生みし出している・・・・。 それが足かせになって、人類の精神的な成長が遅れている・・・・ なんてことでしょうね。叫び 


このことに 全く メスが入れられることがなかったんですね。


今日 ご紹介する記事は、そのことに対して 言及した記事です。

 

以下 ダウン、良かったら一緒に見て 目 みましょう。 では どうぞ~ パー

 


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●アメリカ心理学会は神への信仰を精神病に分類する
American Psychological Association To Classify Belief in God As a Mental Illness :12月26日 英語版配信分)

[source:The  News Nerd



アメリカ心理学会(APA)によれば、神やより強い力を、強く情熱的に信じて、常識的な問題について良心的な決定をする能力を損なうところまで至る場合、精神病に分類されるようになる といいます。


APAによる5年間の調査の結果、信仰心の深い人々が不安、感情的苦痛、幻覚、パラノイアなどに苦しんでいることが判明し、その後APA論争の的になるような決定を下しました。


この研究では、神を懲罰的と認識していた人は、彼らのより貧しい健康状態に直接関係していたのに対し、神を慈愛に満ちた人と見なした人は、精神的問題に悩まされることはありませんでした。


両方のグループの宗教的見解は、しばしばそれらが現実から切り離される結果となりました。


心理学の教授であるLillian Andrews博士は、「毎年何千人もの人々が、宗教上の理由で救命措置を拒否して死にます。


「あなたはこの治療法なしで死んでしまう」と言われても、患者はその考えを拒否し、彼らの神がまだそれらを救うと信じています。 意思決定に精神的に不適切な人たちを分類するだけで、それらの人生を救うことができます。


「エホバの証人はその一例です。」とAndrews博士は続けます。「彼らはどんな状況下でも、血液を受け入れることはできません。彼らは人命救助の献血を受け取るよりもむしろ死を選ぶでしょう。 多くの宗教信者は、彼らが「治癒力」を持っていると信じています。 多くの人は、コミュニケータと神以外の誰にも知られていない(舌で話すこととして知られている)個人的な言葉を使って神とコミュニケートできると信じています。 彼らの多くはよく魂を見たと話しますが これらのすべては、精神疾患や現実との接触の喪失の兆候です。 宗教的信念と怒っている神の現象は何世紀もの間、混沌、破壊、死、そして戦争を引き起こしました。 現代社会に進化し、これらの古代の信念を精神障害として分類する時期は先延ばしされています。 これはポジティブな方向へと向かうための数多くのステップの中の最初の一歩なのです。」


新しい分類では、APAは、自身の健康に関して精神的に意思決定をすることができないというという事を背景に信仰的な理由から拒絶した人に医師が理由で救命措置を強制する法律を導入するようロビー活動を行います。


アメリカ心理学会(American Psychological Association)は、この研究と新しい分類に関するより多くの情報が、今後の雑誌(8月上旬にリリースされる予定)で公開されると述べています。


  [英語版 元記事]
http://www.thenewsnerd.com/health/apa-to-classify -...
<http://www.thenewsnerd.com/health/apa-to-classify-belief-in-god-as-a-mental-illness/ >


心理学会は ついに 言い切っちゃいましたね。


『精神病』 である と・・・・。


「あ~ 言いっちゃったぁ~」 って 感じです。


「そこまで言うんかい・・・・」 という印象もあるかもしれません。


でも 全くその通りです。 ビックリマーク


と 言わせて頂きますね。


というのは、そのために 人類の戦争の歴史がずーっと 続いてきたのですから。


人の命を奪う・・・ これだけで 既に 完全に狂った行為です。

まさしく、『病気』 と言わずして何と言うのか・・・・ ですね。あせる


それを正当化する教義とは 一体何なのでしょう。


「人殺しはダメ」 と言いながら、いとも簡単にそれをやってしまう、 『大義名分』 とは 何なのでしょうか。


その教義の原理には たいてい 『原罪』 が あることを 忘れてはならないです。ビックリマーク “人は この世界に生まれてきた時点で、既に罪を背負っている” というのです。叫び


なんてことでしょう。 叫び


新生児の赤ちゃんの どこに罪があるというのでしょう。叫び


誰の罪を背負っているのでしょうか。


自分ではよくわからない罪の償いのために、いつも苦しい思いをして、一生を捧げ続けなければならないのでしょうか。 何も悪いことはしていないのに・・・。 そんな中で、罪深さを忘れて日々を楽しく過ごすこと、幸せを感じることいけないのでしょうか。  


それは もう 地獄です。 ドクロ



だから “神を信じろ・・・・” と。 

“神に祈って赦しを請え・・・・”と。

そして ”神が要求なさることを行え・・・・” と。


だから、こうなりますね。ダウン


“神が布教せよ・・・” と言われたら 布教をするし・・・

“神が人を殺せ・・・” と言われたら・・・・・ 

(それを) やるしかない  


神は指示しないので、神の代理人である法王の指示があれば、やってしまう・・・・。


それが 戦争の歴史だったんですね。


『布教』 の名の下に大虐殺が 行われてきました。


原住民の土地を奪い、財産を奪い、文化を破壊し、言葉を奪い、命を奪っていく・・・


ずーっと 続いてきました。


それは 今も続いています。 叫び



こんなことは もうこりごりですね。


こんな歴史に終わりを告げなければ ならないです。ビックリマーク

さもなければ、人類は最後の大きな戦争をしてしまうことになるでしょう。



だからこそ、人類を科学的に創造した宇宙人エロヒムメッセージ『地球人は科学的に創造された』  の中には エロヒムのメッセンジャー・弥勒菩薩ラエル に人類社会の宗教的な問題的について説明になさっているところがあり、特別に 「教会の過ち」 というテーマの箇所で 以下 ダウン のように話をされています。


 教会の誤りは、人間に罪悪感を抱かせ、また彼らに訳も分からずに祈らせたことです。だから福音書には、そのことが書かれているのです。


 また祈る場合は、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられるものと思っている。『マタイによる福音書』6 章7 節

 そして、福音書の中で警告されているにも関わらず、教会はまた、教会自体をあまりにも裕福にさせました。

 あなたがたは、自分のために財宝を地に積んではならない。……誰も、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方に親しんで、他方を疎(うと)んじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。『マタイによる福音書』6 章19〜24節

 他の箇所でも言っています。

 財布の中に、金・銀、または銭ぜにを入れて行くな。旅行のための袋も、二枚目の下着も、靴も、杖(つえ)も持って行くな。『マタイによる福音書』10章9・10節

 ところが、馬鹿げた規則や、肉断ちの金曜日などと言って、彼らは福音書すらも尊重しないようになっています。


 口に入る物は人を汚けがすことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。『マタイによる福音書』15章11節

 彼らは単なる人間にすぎず、福音書で「金も、また銀のどちらも」所有するな──余分な下着でさえ、と告げている時にどうして、富とバチカン宮殿の贅沢にふけることができるのでしょうか。
 どうして彼らは、善なることについて説教することなどできるのでしょうか。

 それから、イエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が、天国に入るのは難しいものである」『マタイによる福音書』19章23節


 彼らは、重い荷物を括(くく)って人の肩に載せるが、それを動かすために、自分では、指一本も貸そうとはしない。すべてその行うところは、人に見せるためである。……また宴会の上席、……広場で挨あいさつ拶されること……を好む。
 しかし……あなたがたの師は、ただひとりであって、あなたがたは皆、兄弟である。また、地上の誰をも父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち天に在います方である。また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわちキリストである。そこで、あなたがたのうちで最も偉えらい者は、仕つ かえる人でなければならない。『マ タイによる福音書』23章4 〜11節


 このように、福音書にはすべて書かれています。それなのにどうして教会は、道徳と生活様式の考え方が異なるというだけで、人々に原罪を背負わすことなどできるのでしょうか。人々が飢うえで死にかけている時に、バチカンで豪奢(ごうしゃ)暮らしをしながら善なることを口にし、謙虚さを説きながらも招待され名誉となることを求め、それでどうして自分たちのことを、「神父様」とか「猊下(げいか)」「教皇聖下」(訳注:前者は枢機卿(すうききょう)の、後者はローマ教皇の尊称)などと呼ばせることができるのでしょうか。これらのことを、福音書がすべてハッキリと禁止しているのにですよ? 

 もし、明日にでもローマ法王が貧民として巡礼の旅に出るというのであれば、教会は生き返るでしょう。しかし、教会が人々に奉仕するのは、これまでとは全く違った、人道主義者としての目標を持つものになります。今までは、現代における証拠として役立てるべき知識を広めることでしたが、その使命は終わりました。


 それでも教会は、不幸な人々を助けるとか、これまで変形されたり、また秘密にされていた記述の真の姿を広めることに貢献して、再び正しい方向に向かうことができます。多くの聖職者たちの中で度量の大きい人は、このようにして満たされるでしょう。


 そのためには、バチカンは自らの富をすべて売り払って、開発途上国を資金面で助け、そこへ出かけて行って、自分たちの手で人々の進歩を助けるというふうに、「言うだけ」(訳注:『マタイによる福音書』23章3 節)ではなくて模範を示す必要があります。


 結婚や、特に葬式のやり方に、その人の財産に応じて様々な形態があるというのは許し難がたいことです。これも教会の、もう1 つの過あやまちです。
 しかし、今や時期が到来しました。



『原罪』  は 神または 神々のメッセージではありませんね。


過去の預言者たちは そんな事は一言も言っていないことに注意する必要がありますね。


それは 後の人たちが、その悪影響を全く考慮せず、教義に入れてしまったんですね。



宗教のすべてが悪いわけでないです。


それは 人々に平穏を与えるという一定の役割を果たしてきたことも 事実ですから。


信教の自由は保障されなければなりません。


しかし、まだ宗教戦争が 世界中で起こっている以上、過去の預言者たちが、言っていないことを言った事にしてしまって改変が成されている現在の多くの宗教の教義の中身は整理しなければならないです。


それは 脳科学・・特に心理学的に行われる必要 があります。


それが 今やっと始まる段階に来たようです。



皆様今日もご覧頂きありがとうございました。

今日も、脳科学の発達により、人々が幸せで居続けるプログラムが一日も早く開発されますように。愛をこめて ラブラブ