不自由で安心な生き方を選び、それを人が言う幸せだと思い込み始めたのはいつからだろう?
誰かに教えられたのだろうか?子供の頃は創り上げたものを平気で壊し喜んだり出来た。
人間は、自分の生き様しか人に教えることは無い。教育という言葉も幻想に過ぎない。
きっと僕は誰かの生き様を眺めてきたのだろう。
それは、最も近づきたくない世界であり、若い頃は自らを否定するものでしかなかった。
誰しも若い頃は、好きなものより嫌いなものが多かったはず。今でもたまに思うが、若い頃のそ
れよりは少なくなった。人間が丸くなったと言うが、きっとあきらめがほとんどだろう。
納得して大人になった人間などいない。
いったいどこで自由を捨てる人間に成り下がったのだろう。誰かに夢は?と聞かれ素直に答えら
れる人間がいても、誰かの。。。何かの影響を受け答えている。まったく何ものにも影響を受け
ず夢を語る人間がいるだろうか?それも、いないだろう。人間とは、外界との関係でしか自らを
語れず、周囲との関係性の中から逃れることは出来ない。
なんとも窮屈な人間。
僕もその仲間なのだろう。
いまだに仕事至上主義という社会構造の中を漂い"働かざるもの食べるべからず"などという
下品な現実を押し付けられ日々を食らう人間。人間は働くために地上に存在するのか?
こんな義憤に満ちた疑問が沸くことは理解できないと言われるかもしれないが、仕事という言葉
で全てを許しあう社会。card万能の社会の中で全てを貪り、やがて人間の価値すらcardに肩代
わりさせようとでも言うのか。
物欲に明け暮れる人間は声を大にし、生きる力を美しい法則だとでも言うようにmediaから語り
掛ける。しかし、彼らは物質の使者でしかなく、人間だけに唯一備わるべき思考を社会のrule
に当てはめ、その先にShangri-laがあるかのように幻想を抱かせるだけ。
いったい、この社会のどこに真実あり自由があるのだろう?欲望を満たすことが自由ではない。
欲望を削がれることが自由を失うことではない。身体の不自由が自由を奪い取るものでもない。
全ては人間の心の内側と心の外側との関わりで自由が規定されるのかもしれない。今は、そう自
分に問い続けることのできる自由を認めるしか自由は無い。しかし、これは諦めではなく希望で
あり、生きていることを実感できる唯一の方法だと感じる。
今、この自由を言葉にしているだけなのだろう。

