-小波-
二人はただゆっくりとDIANA KRALLのONLY THE LONELY を聞きながら琥珀を味わっていた。
語ることもせず、ただこのフォリナーの空間に浸り、言葉さえ無意味に感じられる時を琥珀に溶かしているようだった。
暫くして彼女が口を開いた。
「何も聞かないんだね、錬兄ちゃん。なんにも変わって無い」
と微笑んでカウンター奥の飾り棚を見つめていた。
まるで夜月に照らされる海原、その遥か彼方を静かに見つめる瞳のようだった。
その瞳は確かに潤んでいた。
錬太郎は何も聞かず
「うん、何も変わって無いよ。ただ、俺は歳を取ったってこと。恭ちゃんも同じだろう?」
とグラスをゆっくり置いた。
「錬兄ちゃんらしい」
と錬太郎を見て微笑んだ。
「その錬兄ちゃんって言うのはよそう。確かに小さい頃近所で恭ちゃんの子守をして遊んでたけどさぁ」
と錬太郎が頭を掻きながら言った。
「だって、錬兄ちゃんは 錬兄ちゃんなんだもの。。。仕方ないわ。。。じゃ、錬太郎さん?って?。。。でも~やっぱ錬ちゃん♪」
と彼女はマスターに二杯目を頼んだ。
「おいおい。。。ゆっくり味わって飲んだら?」
と錬太郎が俯き頬杖をつく恭子の横顔を心配そうに覗き込んだ。
「あぁぁ。。。覚えてる?錬ちゃん?私が公園で転んでさぁ、足を挫いて錬ちゃんがおんぶして家まで送ってくれたでしょう。あの時錬ちゃんの背中、とっても広くて大きく感じた。その時私が言った言葉。。。覚えてる?」
と彼女が言うと、マスターに曲を頼みかけていた顔を彼女に半分向け
「あぁ、覚えてるよ。忘れないさぁ。俺のお嫁さんになりたいって言ったよね。懐かしいな。。。恭子ちゃん目がくりっとして可愛くてしょうがなかった。。。ハハッ」
と照れもせずに言った。
今の彼女は、全てを優しく包むほどの笑顔を見せ輝く瞳を潤ませていた。
まさに、大人の女性として錬太郎の隣に座っている。
錬太郎は彼女の笑顔の陰に、銀色の水に心を浸しているかのような、張り詰めたもの悲しさを。。。感じていた。
決して人には言わず、でも伝えたい、誰かにわかって欲しい。。。という。
丁字路で出会った瞬間の心の動揺は、まさに恭子の瞳を見たときのものだった。錬太郎は何か忘れかけていたものが水面を広がる波紋のように心の中を広がっていくのを感じていた。
こんなとき彼女の瞳を見つめて心に触れるように答えたら洒落にならない。身体に流し込んだ琥珀が一気に透き通ってしまうほど胸の押さえが利かなくなる。
そう錬太郎は思った。
彼女が歩んで来た人生は、仕事や家庭に日々精一杯生きて来たことは確かだろう。
自分の人生と少し重ねながら思い辿った。
彼女は小さい頃とても我慢強く、辛くても明るく振舞い、周りのみんなをいつも笑顔にしてくれる子だった。小さな妹のように錬太郎は近所の子供たちと遊んだ記憶があった。
錬太郎が大学へ進学してから殆ど会うこともなかったが、あの言葉だけは覚えていた。
今、潤んだ彼女の瞳は過去を、そして今の生活を深く語ることを拒んでいるようにも思えた。
グラスを置いて
「嬉しい。錬兄ちゃん、覚えていてくれたんだ。。。」
と彼女の瞳から一粒の涙が、スローモーションのようにグラスに吸い込まれ、琥珀の水面に小さな波紋を広げた。
彼女のグラスを持つ手に錬太郎はそっと右手を重ね。。。
「そのグラス。。。つらいなら。。。俺が飲もうか」
と言い自分の唇を横に固く閉めた。
「やっぱり、錬兄ちゃんだね。いつもそうやって恭子を包んでくれてた。いまからじゃ。。。遅いもん」
と彼女が言った。錬太郎は彼女の一粒の涙が溶けた琥珀を口に運んだ。
「今日は終電に間に合うようにこの店を出なきゃ。帰るときちゃんと送ってね♪」
と顔を上げ笑顔を作りながら錬太郎を見た。錬太郎はその全てを包みたかった。
彼女の生き方が切ないほど分かるような気がした。
「よし、わかった、わかった。ちゃんと送るから。」
と本当の幼い妹にでも話し掛けるように答えた。
いまさら彼女が自分にどんな用事があったのかなどと、深く聞くような野暮な錬太郎ではないが、彼女の心の葛藤が痛いほど伝わり、明るい話題にしようにも、きっかけが掴めないまま時が過ぎていった。
マスターは何も言わず、カウンターの奥でレコードのジャケットを眺めタバコを燻らしていた。
今夜の選曲は、マスターも少し戸惑っているようであった。。。と。。。しばらくするとDiana Krall- almost blue が流れ始めていた。
フォリナーの夜は洒落気を忘れかけていた。
つづく

