ベッドに沈んだままの彰。揺れるカーテーの隙間から差し込む光を薄目を開けて見た。
ゆっくりと身体を起こしベッドに腰掛け、右肩から腕を左手で擦りながら暫くじっとしていた。彰は右肩と腕全体に重だるいような痛みと痺れを少し感じていた。
白のシャツに淡いブルーのパンツを履いたまま、一階ダイニングへ降りた。昨晩、寝相でも悪かったのか首を少し左右に回しながらコーヒーを入れ始めた。右腕が少し痛むが、身体はまだ眠っていた。カップを持ったままソファーに深く腰を下ろした。
窓の外に目を向けながらゆっくりとカップを口に運んだ。コーヒーが胃に注がれるのがよく分かる。口に含み飲み込む瞬間、喉が少し唸った。
葵の言葉はいつも彰の心を刺激する。彰は、ただそれを受け止めているだけなのか。彰自身も、葵に言葉を投げ掛けようと思うのだが、彼女が先に言葉を彰に投げ掛ける。
ロートルの弱みなのか、それとも単なる優柔不断なのか彰自身掴めない。ただ、言えるのは葵を愛しく思っている。それだけは確かなのだ。しかし、彼女がなぜこれほど自分に好意を抱いているのか。こんな中年など、誰も好き好んで好きになるはずなどないと。あえて彼女に、その訳を聞くことはナンセンスだろう。彰の心は、彼女の心を包むことができるのか揺れていた。
ソファーに座りコーヒーを飲みながら、葵との帰り道の出来事を繰り返し思い並べていた。暫くして電話が鳴った。柱時計に目をやると、午前10時を過ぎていた。
彰はゆっくりと立ち上がり、受話器を取った。
「はい。松野です」
「おっ、彰か?」
「何だよ、お前か。この家に住んでいるのは俺だけだろう。いちいち聞くな」
「あのな、昨日さぁ千恵美ちゃんと一緒に帰っただろう」
「ああ、知ってるよ」
「それで、あのまま帰るのもちょっと、と思ってもう一軒行こうってことになって」
「はぁ?また、お前まさか?」
「違う違う。それで、飲みに行った店に彼女がいたんだよ」
「だから、千恵美ちゃんとだろう?」
「そうじゃない。“さっちゃん”だよ。彼女がいたんだ」
「えっ?どこの店だよ?お前、それでどうした?」
「だから、受診に来ないから心配していたって」
「そしたら?」
「そしたら彼女、もう痛みが落ち着いたから行かなかったって言うんだ」
「で?」
「で、千恵美ちゃんと少し飲みながら一緒に話したさぁ」
「どんな?」
「まぁ、今までどうしていたのかとか?」
「お前、そんなことすぐ彼女に聞いたのか?デリカシーの無いやつだな!」
「いや、ストレートには聞かないさぁ。俺だってそのくらい気を使うさぁ。さっちゃが自分から話したんだ」
「そこ、なんて店だ?」
「なに?お前行くのか?少し待った方がいいぞ!」
「なんで?」
「彼女、今、色々ゴタゴタしているらしい。はっきりは言わなかったけど、旦那の借金がどうしたとか言ってた。旦那が会社を経営してたけど、不況の煽りで倒産して実家に戻ってきたらしいんだ」
「実家?あれ?彼女転校していっただろう?」
「そうだけど、実家はすぐ近くらしいんだ」
「そうかぁ。んで、お前どうするんだ?また、行くのか?その店に」
「さっちゃんも、落ち着かないようだし、来月でも行こうかと思ってた。お前も、そのとき一緒に行くか?」
「あぁ。じゃ、そうするかな」
「じゃな」
「おいっ!誠司、お前今どこから電話掛けてるんだ?」
「こまった奴だなー」
電話は一方的に切れた。
電話の向こうで艶のある女性の声が小さく聞こえた気がした。誠司にも困ったものだと呟きながらも、内心羨ましく彰は思っていた。彼のように自由奔放、屈託なく過ごせるならと。
しかし、そこには程度の問題がある。何処までが許容できる倫理的・道徳的範囲なのか?人それぞれ異なるだろうが、昔は社会的規範により制約を受けていた。
しかし、現代社会では衝動に突き動かされ揺らいでいる。正直、自分もその一人かもしれないと思った。
彰は、シナリオライターのアレックス・しアラーが書いた「魔法があるなら」を思い出した。The Greatest store in the Worldだ。デパートに住むなんて、彰は本を開く前とてもありえない話だと思っていた。少しばかり能天気な若い母親、そして母を手本にしている子供アンジェリー、その二人をしっかり面倒を見ているビー。
この三人が高級なデパートに住み続けるというストーリーだった。全ては取調室でのリビーの語りというものだが、読みはじめるとなかなかこれが、ありえるかもしれないと思えてきたのだった。しかし、なぜこの本のことを思い出したのだろうと彰は考えた。
人は、まったく関係のないと思われるものどうしを急に近づけることがある。その関係が深いものであると知ったとき感動を覚えるはずだと彰は思っていた。
人間の生活空間など、自然界のごく一部でしかない。しかし、いつのまにか人間が中心で、ネット社会ともなると自分の生活空間が世界の全てになり、自分が世界の中心であるかのように錯覚する者がいる。人間の魂さえ自然の一部でしかなだろう。
その超自然現象と呼ばれるものでさえ、ごく普通に自然界にあるものであって当たり前なことなのかもしれないと。
人が知らないだけか、或いは感じ取れる能力を失っているだけのことかもしれないと彰は考えるようになっていた。デパートに住み続けることなど、不可能ではないのかもしれない。誠司はごく自然にそれをやってのける。
家庭や診療所、支えるものは沢山あるはずだ。社会的地位もある程度築いているように見える。が、しかし、現実はカラフルバカそのまま。それをバカと言えないのようになりつつある自分を感じ始めていたのだ。
“ありえないだろう”と思えることを平然とやってのけることかが良いことだとは言わない。
「魔法があるなら」と誠司の生活を関連付けるには、あまりにも無謀かもしれないが、その自分の思考回路にやや戸惑いと新鮮さを感じていた。
夕方、玄関脇に植えた薄紫の釣鐘水仙が風に揺れ始め、その傍で額紫陽花が静に自分の時を待っていた。
彰は裏木戸へ向かった。
つづく