葵が焼きうどんを食べ終わり、お茶をすすりはじめた。
「そろそろ帰らないと。可愛いお子さんはもう夢の中でしょう。明日はしっかり子供孝行しなきゃ。葵さん」
「はい♪」
「色々つらいことあると思うけど、たまにここで吐き出したら少し楽になるんじゃない?」
「はい。また寄ります♪結局、今夜も皆さんに救われたみたいです。私って駄目ですね♪」
「人間なんて弱いものです。強いと思っている人より、自分の弱さを知っている人間の方がずっと強い。私は、葵さんは強い人だと思います。女性として、そして母としてもね」
「ありがとうございます。でも、私そんな強くないですよ♪ほら」
そう言って葵は袖をまくり、力こぶを見せた。細くしなやかな腕に精一杯の小さな力こぶだった。その腕で、その身体で精一杯日々の生活を踏ん張って生きている。愛しくさえ思える小さな力こぶ。
「ほほう。すごい。頑張って♪じゃ、タクシーを拾えるところまでごお送りしますか?」
「夜は物騒だから、葵さん!そうしてもらったら?彰さんでも少しは役に立つわよ♪」
「女将、それはないだろう。俺でもって。。。」
「あら、ごめんなさい。あっ、でも彰さんが危険かしら?♪フフッ」
「女将。。。もう、よしてくれよ♪」
「はいはい♪」
「女将さん、今夜も楽しく過ごせました。また、寄らせて下さい。女将さん、おやすみなさい♪」
「女将ご馳走様。明日また寄るから」
「はい。じゃ、気をつけてお帰り下さい。おやすみなさい♪」
二人は引き戸を開け店の前に立った。彰は駄菓子屋で貰った傘を、錆び付いた音を軋ませながら開き葵に差し掛けた。彰と葵は互いに身体を斜めにし、顔が向き合うくらい身体を寄せ一つ傘の下夜道を歩き始めた。肩口や裾、裾は雨で濡れて始めたが、二人の心は雨音にかき消されることは無かった。
葵は、彰が持つ傘の柄に左手をそっと重ねた。葵の右手は彰の腰に自然に回り、彰は葵の肩に左腕を回し強く引き寄せた。もう、この夜道に言葉はいらなかった。
二人は暫く無言のまま、互いの身体の温もりだけを感じながら歩いた。降りしきる雨。夜道に二人だけのsecret gardenが広がっていた。
道に降り注ぐ雨が川のように流れビルの明かりが濡れた道面に反射していた。弾ける雨粒は星にも似て光はじめ、二人は天の川の上を歩いているかのようにさえ見えた。雨降る夜道、天の川。。。そんな二人を街灯は暖かく見守っていた。
タクシーが拾える大通りに差し掛かった。その時、葵は彰の正面に立ち前を塞ぎ彰に顔を近づけその耳元で囁いた。
「彰さん。お願いが一つだけあります。。。貴方を好きでいさせてください。。。それだけが、唯一今の私の心を生き返らせるように思います。もう。。。誰にも駄目だなんて言って欲しくない。。。私を見て下さい。。。お願い。。。」
二人は立ち止まったまま、葵は彰の胸に額を付け顔を埋めた。大通りを行きかうクルマのライトを彰は見ながら口を開き言葉を出そうとした。
「だけと。。。君。。。」
そう言いかける彰の顔に、葵の顔が重なり彰の言葉を呑み込んだ。葵の涙が溢れ、雨のように頬を零れ落ちた。彰の傘を握る手から傘の柄が離れ、傘はアスファルトの上を舞っていた。クルマのライトとクラクションが二人を通り過ぎた。
もう。。。周囲を気にする心の余裕は二人にない。
雨に濡れた二人は顔を静に見合い、彰は葵の肩を包み葵の濡れた前髪を右手でそっと分けた。その瞼に静かに唇を寄せ、
「帰らなきゃ。。。」
「はい。。。でも、もう一度だけキスして。。。お願い。。。」
二人の顔は重なったまま、雨の夜は止まった。
遅すぎた約束の時を、二人はまき戻すかのように。
静かに時は流れた。。。互いの心を感じ取るためだけにその空間があった。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
互いに離れるのを惜しむかのように静にゆっくりと身体を離した。
彰は傘を拾いなおし、二人は大通りに出た。
タクシーが滑るように二人に近づき停車した。葵はタクシーに乗り込み、雨が流れる窓を少し開け隙間から彰の顔を覗いた。
「おやすみなさい」
彰は傘の下から顔をはずし葵の顔を見て言った。
「おやすみなさい」
タクシーは水しぶきを上げながら、油絵の夜の街に消えていった。
彰は暫くその場に立っていた。
雨は降り続いていた。
つづく