彰は、芯火を無理やり消し去るかのように仕事に没頭していた。葵も、暫く女将の店に訪れなかった。彰の心にとっては落ち着いた日々だった。中学時代の憧れの君である加納幸子も誠司の整形外科クリニックに通院している様子もないと聞いていた。ここ2週間ばかりは、極めて平穏に過ぎていた。
土曜日の昼過ぎ、彰は近くの書店を訪れた。顔なじみの書店だが、相変わらず無愛想な店主が店の奥の椅子に座っている。白髪で黒ぶちの厚い眼鏡を掛けた店主は、立ち読みをしている客をとがめることもなくひたすら趣味の本を読んでいる。
彰は、時折この店の奥まった棚にある古本を買いあさりに来る。埃を被った本をまとめ買いし、買ったからといって直ぐに読み始めることもしない。買い集めた書籍は、いつも書斎にある本棚の前に山済みとなる。もはや本棚の収納スペースは無く当然のごとく溢れ出た書籍類は床へ積み重なっていく。
従って、歩行スペースも狭まり掃除をするにも、歩く隙間を縫うようにモップで拭き取る程度。両脇にはいつ崩れるかも分からない書籍の山。その谷間スレスレを彰は通り抜ける。
猫のタマも隙間を器用に通り抜ける。こんな環境では、彰の頭の中身も埃を被っているに違いないと思うだろうが仕事は至って捗る環境なのだ。
最近、特に古事記と日本書紀に関する資料を集めているようだが、それが題材として反映されるかは別のこと。彼が特に興味を抱いているのは「古事記」である。その物語は一貫し非常に豊かさがある。しかし、「日本書紀」は完全な漢文でしかも神話以外は編年体で粛々と書かれているため興味がやや薄れる。それに、「日本書紀」は異説や異伝も記載しているため公文書的な扱いになり、彰がどちらに興味を抱くかは、言わずもがな「古事記」となる。
そんな彼の思考は、現代と古代を引き寄せ自然な結びつきを持たせるところにある。人は、そこに意外性を感じ新鮮な印象を持つ。しかし、それは意外性ではなく客観的根拠を伴って関係付けられることがある。
まぁ、歴史家にとって此れほど迷惑な輩はいないが、彰の中では洒落も多少入っているから余計悪い。ともあれ、社会に迷惑を掛けるほどの嘘も書けずに今日までだらだらと仕事をしている。
しかし、この家の住人の快適な生活環境を破壊されかねないタマにとって、彰の思考は迷惑かもしれなかった。なにせこの書籍の穴倉生活。
恋の「こ」の字など、あり得ぬはずだとタマは確信しているかのように本の谷間でごろ寝している。タマの行動にはパターンがあり、主人である彰が仕事に行き詰ると決まって知らん振りを決め込む。それは妻と同じ態度だった。仕事が一段落すると足元に絡みつき、何がしかオネダリをする。
タマの方が、彰より数段賢い生活の過ごし方をしている。それに比べ主人である彰はお世辞にも賢いとは言いがたい。縦も横も、前も後も、斜めに進むことはせず直進あるのみ。
融通が利かないのは天下一品。なのに書き上げる内容は自由奔放で縛りなど一切感じられない世界観がある。もしかすると、日常生活と反比例するのかもしれないと彰は思っている。
日々の生活で鬱積した精神的抑圧を一気に発散させ宇宙よりも広がりを持たせていく。そこに醍醐味があるのかもしれないと彰は感じている。
夕方、少し早めに女将の店へと向かった。今夜は少し冷えていたが夕食にありつくためには多少の冷えも仕方が無い。雨が降り始めた。商店街を通る人の足取りも早くなり始めた。彰は傘を持たずに出てきたため、途中の昔ながらの駄菓子屋の店先に駆け込んだ。おばあちゃんが声を掛けてくれた。
「おやおや、雨だね。忘れ物の傘だけど持っていくかい?」
「えっ、いいんですか?忘れ物なら取りにくるんじゃ?」
「いいんだよ。もう5年もほったらかしだから。さあ、どうぞ」
皺くちゃの手から差し出された黒い傘。持ち手の部分が黒皮で、いかにも紳士が使っていたであろう柄の錆びた古い傘だった。彰は、軋む音をさせながら傘を開いた。
「じゃ、遠慮なく♪ありがとうございます」
「いいから」
一例をし、店を出た。その時だった。肩をポンッと軽く叩かれた。振り返るとそこに先日大暴れした?いや、大トラのギャル。。。千恵美が立っていた。
「よっ、中年♪今夜も女将さんの店に行くの?こないだはごめんね♪今日は休みなんだ。私も夕飯食べに行くから一緒に行こうよ♪」
と彰の左腕に千恵美は自分の右腕を絡めてきた。
「おいおい、腕組みはよせよ。勘違いされる」
「何が?何で?親子だって?あっ、それとも彼女だって?ふふっ、中年も照れるのか?アハハ♪可愛いじゃん♪」
「からかっているのか。いいから離れてくれよ」
「無理だよ。傘持ってないんだぞ!か弱い女の子を放り出すのか!中年!」
「おい、大きな声を出すな。みんな見ているだろう。わかったわかったから」
「ラッキー♪ご飯もおごりだよ。。。ヘッヘー♪」
まるで自分の娘だ、こりゃ。。。なんとも無邪気な千恵美だった。彰は親子ほど歳の離れた娘と傘を一つに女将の店に向かって歩いた。
こんなにも無邪気に屈託無く振舞う千恵美を見て、彰はなぜか羨ましく感じた。
こんなにも素直に人と接し触れ合うことができる。とても新鮮な感覚を覚えた。
彰の夕暮れは、夜の宴を待たずに賑やかになっている。
つづく