19. | 我ここに在りてここに無し

我ここに在りてここに無し

青きBOUGAの果て

ひとりごとのように

詩と小説を書き綴ります。

何か心に響くものがあれば

それだけで。



 肝心なことなど、他人は決して聞いてもくれないし、それは諦めたほうがいい。彰は、妻との夫婦生活において強く感じていた。互いに演じる生活に疲れていたことだけは確かだった。それだけの理由でと言われるかもしれないが、そんな夫婦も多いはずだ。それが夫婦だと言われればそうなのだろう。しかし、言葉を交わす度に心の書き間は広がり、互いに何も期待しなくなる。不思議だと思うだろうが事実だった。

 今の夫婦の生活環境を促したのは、彰の仕事も少なからず影響しているだろう。

小説を書いていると、自分の心が丸裸になる。どうあがいても心の奥深く入りこんでしまう時がある。一文字一文字に心をえぐられる。誰がどう思うかなど考える余裕もなく、彰が今まで書き綴ってきた小説すべてが彼の心に向けた武器となる。彼の心に突き刺さり、自らの心の深層に沈み逃げ場の無い世界へと入り込む。そして、もがく。そんな毎日で妻の言葉にどれだけ耳を傾け、心を割いただろう。悔やんでも遅いことは分かっている。

 こんな仕事をしている彰は、仕事以外とても無駄なことに没頭してしまう。彼は友と趣味はいい加減に限ると思っている。人や社会の役に立つようなものは友や趣味として考えていない。もしも、博識のある友や高尚なものを抱えたなら身がもたない。そんないい加減な男が恋などして、どうなるというのだ。

 タマに笑われているようだった。

 しかし、彰は過去に一度だけ心も身体も深く浸る恋をしたことがある。それは彼のデスクの上に置かれた額紫陽花だけが知っている。誰も触れることのない彰の恋。今、彼はその時と同じ感情を抱き始めていた。なぜと問われても、答えることなど出来ないだろう。

 池上葵という女性に過去の恋を重ね合わせているのだろうか?彰は何度も心に問いかけていた。しかし、それは違う。もう、二度と恋などするはずはないと思っていた彰。妻との関係から逃避する為でもなく、ただ心が素直に響いている。これでは、誠司と同じじゃないかとも考えた。しかし、この芯火を抑える自信はない。どうすれば、この心の火を消すことができるのか。今、その術は思い浮かばない。

 彰は、二階の書斎へ戻り椅子に座り額紫陽花を見た。少し蕾が膨らみ始めていた。深くため息をつき立ち上がり、窓を開け夜空を見上げた。今夜の月は上弦の月。ハンターズ・ムーンには程遠い。彰は良かったと思った。明るく照らされたなら、このまま心の火が勢いを増すように感じていたからだ。

 タマも書斎に入って来た。主人の雰囲気を感じたのか、タマはそばから離れようとしなかった。足元にまとわりつきシッポを絡めていた。

 タバコの煙が窓の外へ流れ闇に紛れ消えていく。それを見て、彰は思った。

 仕事に没等するしかないだろうと。やがて消えるのは分かっている。今はただ書き綴るしかないと。どうせ消えていくもの。結局は自分の生き様を貫くしかない。ありのまま、けして開き直りでもない。ただ、もしも、彼女に心が傾くなら自然の流れに素直に従おうと思った。社会的規範に背を向ける男だが、道徳的に道を外すほど崩れた男でもない。しかし、人間だれしも心に隙間がある。その隙間に多くの題材を見つけ書き綴る彰にとって、そこは最も自由な空間であることだけは確かであり、葵はその隙間を埋めるには溢れるほどの存在になりつつある。

 窓際のくすんだ壁に寄りかかり、タバコを燻らす彰。夜風が彼の心を静かに揺らしていた。

 彰は、徐に机に向かいキーボードを叩き始めた。

 人の心の隙間に入り込むもの。それは、他人が力ずくで入り込むものではない。自らが引き入れるもの。ほろ苦い過去を引きずりながら、再会でもしたかのような女性。

 今、心が傾きつつある女性は彰よりかなり若い。彰の心が、この状況でもぶれないのなら、心の火は彰の理性を消し去るだろう。それは彼も覚悟している。

 心の熱を覚ます薬があるだろうか?恋の媚薬ならありそうだが。。。熱さましくらいでは下がりそうもない彰だった。

 葵の潤んだ瞳と手の温もりが、小波のように彰の心を揺らし続ける夜だった。



つづく