コロナの数字をもはや追わなくなり、ワクチンはもうちょいか、な世の中だが、
みなさま1日お疲れ様です。
今回は選択的ということ。
選択的という言葉は多様性とも置き換えられるが、その選択的に強い反発がある。
LGBTQにしても、選択的夫婦別姓にしても。
どっかの国では反LGBTQ法ができたとか、日本でも選択的夫婦別姓について一度考えましょうみたいな法案が通らなかったり。
個人的に思うのは、どちらかじゃないと絶対に駄目というのが気になる。選択的なら自身は変わらないし、自分のテリトリー、例えば家族なんかの範囲ではコントロールできるのではないか?と感じる。
それでも駄目というのは、その国を、その社会を真に考えて憂いているのか?それとも、単に気に食わねぇからなのか?
別にLGBTQが許容されたからと行って、向かってくる歩行者がみんな同性同士でちちくりあうわけではない。
しかし、許容しないと決めてしまえば、一定のマイノリティの人が延々苦しむわけである。
もちろん、過度に政治的なLGBTQ活動もなくはないが、マイノリティの権利に目を向けるのは悪いことではない。
選択的夫婦別姓についても、それが実現したら、日本で離婚が頻発して、家庭が崩壊して、社会が崩壊して、となると思っているのだろうか?
同姓でもぶっ壊れる家族はぶっ壊れるし、別姓でも壊れない家族もある。
こういう問題を考える時には、立場をひっくり返したり、置き換えたりすると良い。
例えば、選択的夫婦別姓なら、10年間結婚する人達は女性の苗字に統一とか。
LGBTQで言えば、アメフトは戦争の戦略が基だからスポーツニュースで取り上げない、フィギュアスケートは美を表現するものだから、男子は禁止とか←ひっくり返しというより、立場の置き換え。
相手の立場になることで色々わかる。LGBTQとか選択的夫婦別姓だからなかなかとらえづらい。
コーラ排斥コーヒー排斥ボクシング排斥みたく例えると少しわかりやすい。
個人的には何でもええやんけ、となる。自分と考えが違っても自分の小さなテリトリーを侵されなければそれは有りな気がする。
多分こういうのに強烈に反対する人は信念がとても強い人か、テリトリー意識が強い人なのだろうなぁ、と感じる。それはそれで素晴らしいことだけど、素晴らしいは1つじゃない。自分のわからない素晴らしいも世の中にはあるんだろうなぁ、という話である。
それを我を通してねじ伏せる、というのは微妙だ。別にそんなんどうでもええやんけ?という感じである。厳密に言うと、どうでも良いというより、そんなんより気にするべきことたくさんあるべ?という感じである。