韮山城跡 静岡県伊豆の国市

令和7年(2025年)11月7日㈮ 撮影

伊豆箱根鉄道駿豆線の韮山駅から歩いて韮山城跡へ向かいます。
韮山中学校の前を通り過ぎ

※韮山城 

伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山)にあった、室町時代後期から安土桃山時代にかけての城(平山城)。城跡は国の史跡に指定されている(指定名称は「韮山城跡 附付城跡」)。

15世紀末に伊勢盛時(北条早雲)の関東経略の拠点として整備され、後北条氏の関東支配後も伊豆支配の拠点としてその持ち城であったが、天正18年(1590年)には豊臣秀吉による小田原征伐において激しい攻防戦を経験している。龍城の異称を持つ。

 築城年ははっきりしないが、『北条五代記』によると文明年間(1469年 - 1486年)に初代堀越公方足利政知の家臣、外山豊前守が城を造ったのが始まりとされている。また城内の熊野神社が勧進された年代から、1500年(明応9年)頃までには完成していたとする見解がある。 初めはあまり大規模なものではなく、延徳5年(1491年)に2代堀越公方足利茶々丸を攻め滅ぼした伊勢盛時(北条早雲)によって、後北条氏の領有となり、同年から早雲によって後北条氏の本拠地として本格的に造営された。早雲はここを拠点に伊豆の各拠点の支配を進め、後に相模に領土を広げた後も小田原城に移ることなく、没するまでここを居城とした。 その後も小田原城を中心に関東を支配する後北条氏の重要拠点の一つとなった。
 天正18年(1590年)の小田原征伐では、豊臣秀吉の大幅な攻勢を受け、韮山城にも織田信雄の軍勢が迫ったため北条氏規は籠城して戦い、北条方は総勢約3千6百、豊臣方は総勢約5万と伝えられる大きな戦力差のなかで約100日間も持ちこたえたが、北条方諸城の落城を受けついに開城した。 その後、関東に入った徳川家康の家臣の内藤信成の居城としていたが 慶長6年(1601年)に転封され廃城となった。 現在の韮山城は、その敷地のほとんどがかつての韮山代官江川太郎左衛門の子孫である江川家の持ち物となっている。 

城の構造 は典型的な平山城であり、丘陵に沿って縦に曲輪が連なっている。現在でも曲輪や土塁の跡などが残されており、散策路が整備されている。武家屋敷や政庁の位置は不明。

wikipediaより引用
崖の脇の道を通り

切り通し?



板には「堀切」の文字

堀切を抜けると池が見えてきました。

城池親水公園、韮山城の堀の跡を利用して作られた公園。 

案内版に沿って池ぞいの道を歩き







韮山城跡の案内版

城跡への坂道

現在、韮山城跡は本城(龍城山)のみ公開、標高は50mほど。




坂を登るとグラウンドとネット

グラウンドの先には鳥居





熊野神社





小さな社殿



熊野神社の先にも坂









「二の丸」




二の丸からの眺め



二の丸から先、本丸へ

本丸



本丸からの眺め









山を下りて、江川邸へ向かいます。