
令和7年(2025年)1月16日㈭
「令和7年1月中旬の旅」2日目は大分県速見郡日出町にの日出城址に来ました。
城跡から見た別府湾
※この記事の続きです。

防波堤沿いに海を見て

振り返ると天守台跡の石垣。
※日出城(ひじじょう)
大分県速見郡日出町にあった城。江戸時代を通して、木下氏が居城した。明治初期の府藩県三治制下において日出藩の藩庁が置かれた。
現在残る日出城は、1601年から1602年(慶長7年)8月に日出藩の初代藩主木下延俊が、義兄であった細川忠興の支援を受けて築城した。細川忠興が縄張りを行い、木下氏家臣の穴太理右衛門(「穴太衆」参照)が野良積みの技法で石垣を構築した。 別名「暘谷城」と呼ばれる。3代藩主の木下俊長が、中国の古書『書経』あるいは『淮南子』から引用して名づけたと伝えられている。 1874年(明治7年)の廃城令において廃城処分となり建物は競売にかけられた。本丸に開校した暘谷学舎(現在の日出小学校の前身)の建物に利用された望海櫓と鬼門櫓を除いて建物は破却や移転によって撤去された。そののち、1921年(大正10年)日出尋常小学校の校舎建替えに伴い望海櫓は取壊し、鬼門櫓は中村家へ引き取られ移築された。 その内、二の丸に所在する徳永家に移築されていた裏門櫓(鐘櫓)が2000年(平成12年)に解体保存され、2010年(平成22年)に二の丸に移築復元された。 2013年(平成25年)には鬼門櫓が二の丸の町立萬里図書館(当時。現、日出町歴史資料館及び日出町帆足萬里記念館)の敷地内に移築復元された。
,,wikipediaより引用








日出城址に面した海岸は城下海岸




人柱祠

人柱祠
人柱伝説となった老武士の木棺の出土地に建てられた祠。1960年(昭和35年)に日出城付近での海岸遊歩道の工事中、城の裏鬼門に当たる最南端部の石垣の下から人骨が入った木棺や武具の一部が発見され、調査の結果、1601年(慶長6年)からの築城の際に立てられた人柱ではないかと推定された。

海岸沿いを歩き


坂道を登ると空堀、左上に見えるのは鬼門櫓

北東隅櫓(鬼門櫓)
二重櫓。4間四方(柱間)。日出町歴史資料館及び日出町帆足萬里記念館(移築時は、町立萬里図書館)敷地内に移築現存。日出町の有形文化財に指定されている。不吉とされる鬼門の方角を避けるため、角が欠けた五角形の形をしており、全国でも類を見ない構造である。現在の移築された場所は元は月見櫓(北西隅櫓)が建っていた場所付近であり、元の位置(鬼門)ではない。



北東隅櫓(鬼門櫓)
日出町歴史資料館及び日出町帆足萬里記念館に移築された北東隅櫓(鬼門櫓)



日出町歴史資料館及び日出町帆足萬里記念館

鬼門櫓の見学は無料、中に入ります。

一階






二階へ上がります、








鬼門櫓を出ました。





次にむかうのは致道館、鬼門櫓から徒歩数分

致道館(ちどうかん)
大分県下で唯一現存する藩校の建物。
安政5(1858)年、日出藩主15代木下俊程(きのしたとしのり)の命により日出城二ノ丸に創立された日出藩の藩校。明治維新後の日出藩の廃藩とともに致道館は閉校となった後、暘谷女学校、杵築区裁判所日出出張所、日出町役場、帆足記念図書館等に転用された。
昭和26年(1951年)に講堂(主屋)と正門が現在地に移築された。

こちらも見学は無料

中に入ります。




別府湾が見えます。





二階















再び暘谷駅へ
