
令和7年(2025年)1月16日㈭
「令和7年1月中旬の旅」2日目は大分から上り日豊本線に乗車。
4632M 大分958発 中津行き
に乗り1034着の暘谷で下車。
※この記事の続きです。

暘谷駅(ようこくえき)
大分県速見郡日出町字佐尾にある、JR九州)日豊本線の駅である。
相対式ホーム2面2線の設備を有する地上駅。簡易委託駅であり、きっぷうりばが設置されている。南北自由通路を併設した駅舎には、日出町内にあるハーモニーランドに因んで、サンリオのキャラクターがデザインされている。
駅前は日出町の中心地で金融機関も概ね揃う。なお、ハーモニーランドは当駅から北東へ4.5 kmほどの位置にある。
wikipediaより引用

サンリオのキャラクターがデザインされた駅舎は上りホーム(北口)に面しています。

暘谷駅北口前の複合商業施設 BiVi日出 の前にはデザインマンホール

サンリオのキャラクター、ハローキティーのデザインマンホール



暘谷駅南北自由通路にもハローキティーのデザイン


下りホーム改札

暘谷駅南口に出ました。


暘谷駅南口から0.5km
日出町役場へ

日出町 マンホールカード を頂きました。ハローキティーのデザイン
配布場所 平日(開庁日) 日出町役場 旧館2階 上下水道課 休日(閉庁日) 日出町役場 旧館1階 時間外受付窓口
配布日時 8時30分~17時

日出町役場から0.2km先
日出町観光案内所 二の丸館へ

二の丸館は日出城址に建つ観光交流拠点、観光案内所、軽食喫茶店、物産・土産販売コーナーを設置。

※日出城(ひじじょう)
大分県速見郡日出町にあった城。江戸時代を通して、木下氏が居城した。明治初期の府藩県三治制下において日出藩の藩庁が置かれた。
現在残る日出城は、1601年から1602年(慶長7年)8月に日出藩の初代藩主木下延俊が、義兄であった細川忠興の支援を受けて築城した。細川忠興が縄張りを行い、木下氏家臣の穴太理右衛門(「穴太衆」参照)が野良積みの技法で石垣を構築した。 別名「暘谷城」と呼ばれる。3代藩主の木下俊長が、中国の古書『書経』あるいは『淮南子』から引用して名づけたと伝えられている。 1874年(明治7年)の廃城令において廃城処分となり建物は競売にかけられた。本丸に開校した暘谷学舎(現在の日出小学校の前身)の建物に利用された望海櫓と鬼門櫓(後述)を除いて建物は破却や移転によって撤去された。そののち、1921年(大正10年)日出尋常小学校の校舎建替えに伴い望海櫓は取壊し、鬼門櫓は中村家へ引き取られ移築された。 その内、二の丸に所在する徳永家に移築されていた裏門櫓(鐘櫓)が2000年(平成12年)に解体保存され、2010年(平成22年)に二の丸に移築復元された。 2013年(平成25年)には鬼門櫓が二の丸の町立萬里図書館(当時。現、日出町歴史資料館及び日出町帆足萬里記念館)の敷地内に移築復元された。
,,wikipediaより引用

左の建物は、二の丸館敷地内に移築現存された裏門櫓(鐘櫓)

二の丸館にて購入、日出城の御城印 300円
販売時間:9時~17時30分 定休日:年末年始を除き無休

日出城址に建つ
瀧廉太郎像
瀧廉太郎像は前日にも訪れた岡城跡にも設置されていました。

瀧廉太郎は、明治12年(1879)、東京市芝区佐久間町(現在の東京都港区)に生まれたが、瀧廉太郎の父をはじめ、その祖先は日出町に生まれている。
瀧廉太郎は自ら日出町出身であることを称し、日出町もまた廉太郎を日出町出身者として待遇していた。
日出町二の丸、日出城址前に瀧廉太郎の銅像がある。これは、朝倉文夫氏製作のもので、歌人の田吹繁子女史より寄贈された。朝倉文夫記念館、大分市遊歩公園、竹田市岡城跡、旧東京音楽学校奏楽堂にあるものと同型で、全国にこれら5体しか存在しない。
昭和56年(1981)に日出町中央公民館に瀧廉太郎像が建立され、平成22年4月に日出城址前に移設された。

日出城址を巡ります。




日出城址は「日本100名城」および「続日本100名城」
に選定されていないのが惜しい、と思うような遺構が残っています。



別府湾に面した天守台跡




