
令和6年(2024年)12月18日㈬
「令和6年12月中旬の旅」1日目は大阪府南河内郡千早赤阪村にある千早城址に来ました。
※この記事の続きです。
※千早城
大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早にあった城。国の史跡に指定されている。元弘2年/正慶元年(1332年)築城。
鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成・築城の城である。四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇ったといわれる連郭式山城である。金剛山城。楠木七城の一つ。
大和国五条と河内国大ケ塚・富田林を結ぶ最短ルートとして、昔から交通、軍事の要衝であった千早街道から登りつめた金剛山より西にある一支脈の先端に築かれた山城で、楠木氏の詰め城である。城は、周囲が約4kmで千早川の渓谷を利用し、北には北谷、南東には妙見谷、東は風呂谷があって、四方の殆どを深い谷に囲まれ、城の背後のみが金剛山の山頂に連絡する要害の地である。金剛山の山頂は標高1125m、城の最高所の標高は673m、比高は175mとなっている。北条軍を引き受け、楠木正成が奇策を用いた攻城戦の舞台となった。
1建武の新政以後、南朝方の楠木氏の居城となり城主は楠木正行、楠木正儀そして楠木正勝と続いていた。しかし、南北朝時代末年となる1392年(明徳3年)正月楠木正勝の時に北朝方の畠山基国に攻められ千早城は落城し、61年に及ぶ歴史に幕を閉じた。
1934年(昭和9年)、国の史跡に指定された。 2006年(平成18年)、日本100名城(55番)に選定された。

千早城址に鎮座する千早神社

石段を登ると

社務所がありました。千早城三の丸跡とのこと

社務所の近くに建つ
史跡 千早城址
の石碑

さらに石段を登ると


千早神社の社殿が見えてきました。このあたりは、二の丸とのこと


狛犬の近くには
「標高634米」と「本丸跡」
の表示
本丸跡は社殿の裏手、立入禁止

社殿



再び石段を下りて

参道を進み


四の丸跡
※四の丸は長さ約100m、幅30mの平坦地で城内で一番広い場所となっているが、公園化のため破壊されているようである。

先ほど登った坂道、裏参道を下り

登りより下りが怖い


裏参道を下りました。

左は金剛山へ向かう林道、右は千早神社へ向かう裏参道

林道を下りて

日本100名城スタンプが設置されている
「山の豆腐 まつまさ」
が見えてきました。

南海バスの金剛登山口停留所へ向かいます。


停留所近くにも千早神社へ向かう石段、どうやら表参道のようです。



ちょっとだけ石段を登りました。



このあたりで引き返します。


南海バス411系統 小深線
金剛登山口1450発 河内長野駅行き
南海バスは交通系ICカード全国相互利用サービスを導入、suicaにて乗車します。車内は金剛山登山帰りの中高年のグループ客でほぼ満席。
※南海バス河内長野営業所 小深線
千早赤阪村方面への路線で、金剛山への行楽路線の性格も持つため、平日は1時間毎と少ないが、土休日は約30分間隔に増便される。 金剛山へは富田林駅から金剛バスの千早線(こちらは「千早ロープウェイ前」)で向かうこともできたが、2023年12月20日をもって同社が事業を廃止したため、4市町村コミバスで引き継がれることになり、富田林駅からは南海バス千早線(泉北営業所担当)と千早赤阪村営バス(自家用有償旅客運送)を途中の千早赤阪村立中学校前で乗り継ぐ形に変更されている。なお金剛山ロープウェイは現在廃止されているが、終点の「金剛山ロープウェイ前」停留所からロープウェイ乗り場(ロープウェイ千早駅)へは約10分歩く必要があった。 河内長野駅前では下記の小3番のりばから発車。
411系統:河内長野駅前 - 日東町東口 - 観心寺 - 小深 - 千早大橋 - 金剛登山口 - 金剛山ロープウェイ前 小吹台団地線
wikipediaより引用

終点の河内長野駅前1524着
運賃500円

