
名護屋城跡
佐賀県唐津市
令和6年(2024年)11月20日㈬ 撮影
名護屋城本丸跡に来ました。
※この記事の続きです。
※名護屋城
佐賀県唐津市、東松浦郡玄海町にあった城。太閤豊臣秀吉が文禄の役を始める前に築かせた。現在、国の特別史跡に指定されている。平成18年(2006年)には日本100名城に選定された。
名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣副城があった。天正19年(1591年)、豊臣秀吉は大陸への侵攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。 名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城である。五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた。 城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄した。 慶長3年(1598年) 、秀吉の死亡後、大陸侵攻が中止されたために城は廃城となったと考えられており、建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わる。石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている。
wikipediaより引用


「名護屋城址」と刻まれた石碑

奥に見えるのは玄界灘の馬渡島(まだらしま)

天守台


五層七階(地上六階、地下一階)の天守が建っていました。江戸時代に破却


天守台の下は遊撃丸

左から馬渡島、松島、加部島




