
秋田城跡
秋田県秋田市
令和6年(2024年)7月10日㈬ 撮影
秋田中央交通の路線バスに乗り秋田城歴史博物館前で下車、雨が降っています。
停留所の上に見える橋は史跡公園連絡橋




階段を登ると


秋田城跡歴史資料館が見えてきました

右に向かうと秋田城跡歴史資料館、左に向かい史跡公園連絡橋を渡ると秋田城跡歴史公園(高清水公園)


秋田市立秋田城跡歴史資料館
史跡秋田城跡の発掘調査により出土した遺物を展示する資料館。2016年(平成28年)に開館。
開館時間:午前9時から午後4時30分まで
休館日:年末年始(12月29日から1月3日まで
観覧料:一般310円

秋田城跡歴史資料館に設置されている
続日本100名城スタンプ 秋田城
を押しました。

秋田城跡歴史資料館を出ました。まだ雨は降っています。
史跡公園連絡橋を渡り秋田城跡歴史公園(高清水公園)
へ
*秋田城(あきたじょう/あきたのき)
出羽国秋田(現在の秋田県秋田市)にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されており、かつての城域の一部は現在高清水公園となっている。また、秋田県護国神社も秋田城の城址に遷座したものである。
秋田城の創建は、733年(天平5年)に出羽柵が庄内地方から秋田村高清水岡に移転したことにさかのぼり、その後天平宝字年間に秋田城に改称されたものと考えられている。秋田城は奈良時代の創建から10世紀中頃までの平安時代にかけて城柵としての機能を維持したと考えられており、その間幾度か改廃が取り沙汰されたことがあったものの、出羽国北部の行政・軍事・外交・文化の中心地としての役割を担った。また、秋田城の発掘調査結果からは渤海との交流をうかがわせる複数の事実が指摘されており、文献史料による確たる証拠はないものの、奈良時代を通じてたびたび出羽国に来着した渤海使の受け入れが秋田城においてなされた可能性が高いと考えられている。秋田城は朝廷によって設置された城柵の中でも最北に位置するものであり、律令国家による統治の拠点として、また津軽・渡島の蝦夷との交流や渤海との外交の拠点として、重要な位置にあった。 11世紀頃に廃城。
2017年(平成29年)、続日本100名城(107番)に選定された。

こんな怖い注意書きが!
クマさんに出会わなければよいのですが……

秋田城跡歴史資料館と秋田城跡は、市道(通称・旧国道)で分断されていたが、城跡を一体的に散策できるよう、2020年(令和2年)に歩行者用連絡橋の建設を開始。2022年完成。


秋田城跡歴史公園(高清水公園)に入りました。政庁跡が見えます。

政庁跡
北東建物跡と築地堀

北東建物跡


政庁西門と築地堀

政庁西門

政庁西門を潜ると政庁跡の復元想定図が設置






城内東大路を歩きます。
雨の降る平日午後、誰もいません。


外郭東門が見えてきました。

外郭東門と外郭築地

外郭東門および附設の築地塀(延長45m)、幅12mの東大路が1998年(平成10年)に復元されており、創建期の姿を現在に伝えている。

外郭東門を潜ると雨宿りしている人が…




古代沼


秋田城跡鵜ノ木地区

古代水洗トイレ

秋田城跡で発見されたトイレ遺構は、掘立柱建物とトイレ施設が一体となった造りになっている。その構造から、庇(ひさし)側の入口から入ると、待合室的な空間があり、その先に3部屋の個室をもったトイレ建造物と考えられている。個室の床下の便槽に溜まった汚物は木樋を通して沼に排水する水洗式だったと考えられる。その際、沼の汚染を少なくするため沈殿槽を設け、汚れの少ない上澄みだけを流すように工夫したものと思われる。なお、水洗に関しては、個室内に用意された桶の水を使用後に流す構造であったが、あるいは床下に木樋の暗渠があり、上方に位置する井戸などの生活排水によって随時流す高野山的なシステム(高野山形水洗式(こうやさんがたすいせんしき)トイレ)であったとも考えられている。いずれにしても、大変優れた構造のトイレということができる。 寄生虫卵分析の結果からは、生野菜を食べて感染する回虫・鞭虫、アユを媒介とする横川吸虫、コイ・フナに寄生する肝吸虫が見つかった。しかし、東日本のトイレ遺構で多く見つかるサケ・マスを不完全調理で食べた場合に感染する日本海裂頭条虫(サナダムシ)卵は発見されなかった。これは、藤原京や平城京のトイレ分析の結果と等しいことから、「都から秋田城に派遣された役人は、地元特産のサケ・マスの食文化の味に馴染めず、都の食物を持参、あるいは送らせたのではないか」と考えられた。しかし、トイレ遺構の検出が外郭外側の通称「鵜ノ木地区」から見つかったことから、無鉤条虫・有鉤条虫卵があらためて注目され、後述の筑紫館と同じような迎賓館的施設(渤海使を饗応した施設)ではなかったかという説も有力になっている。なお、籌木の作りはたいへん入念なものが多い。







再び外郭東門へ

雨宿りしていた人の姿は見当たらず


築地堀





秋田県護国神社へ

秋田県護国神社
秋田県下の戦没者および伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀る。
明治2年(1869年)、秋田藩主佐竹義堯が戊辰戦争に殉じた官軍戦没者425柱を高清水丘に祀ったのが起源である。明治26年(1893年)に焼失するが、明治32年(1899年)、秋田市千秋公園(久保田城址)に再建され、秋田県出身の軍人・軍属を合祀して秋田招魂社と称した。昭和14年(1939年)、内務大臣指定護国神社として秋田県護国神社に改称し、翌年、旧秋田城址である現在地に遷座した。
第二次大戦後の一時期、「軍国主義施設」として廃止されるのを防ぐ目的で、鎮座地名に因んで高清水宮と称し、伊弉諾尊・伊弉冉尊を合祀してこちらが主祭神ということにした。 戦後は県に関係した軍人、軍属の霊を合祀している。現在、ほとんどの戦没者の合祀が完了し、祭神の数は38,000余柱となる






護国神社裏参道停留所から秋田中央交通バスに乗車