
月山富田城跡
島根県安来市
令和6年(2024年)5月9日㈭ 撮影
月山富田城跡、富田城跡、標高183.9mの月山を登り、中腹の山中御殿平(さんちゅうごてんなり)に着きました。
*この記事の続きです。

山頂に見える石垣、本丸を目指します。

ルートは2つ
「相坂階段コース」570m
「軍用道コース」610m
少しでも短いほうがよい、ラクをしたいので「相坂階段コース」を選択

相坂階段コース、「七曲がり」を登り始めました。振り返って見る山中御殿平

坂道は急だが整備されていて歩きやすい

*七曲り
山中御殿平から山頂部へ続く道。かなり急峻で、現在は石畳で舗装されている。途中に堀尾河内守・掃部父子を供養する親子観音、山吹井戸がある。

坂道の途中、親子観音


説明板によると
親子観音
親子観音は来待石製の宝篋印塔で、同じく来待石製の石廟に納められている。石廟の壁面全体には陽刻により四十九本の塔婆が表現され、それぞれに「空風火水地」の文字と四十九院名などが彫られている。宝篋印塔には、基礎部側面に「慶長十三年」,「十二日五日」と彫られており、伝承では、堀尾家お家騒動の首謀者とされ、 幽閉されたとされる、堀尾河内守とその子掃部(一説では勘解由) 両名の墓であるとされてきた。 しかし近年の調査により、宝篋印塔の基礎部に「桂岩院殿祥雲世瑞大居士神儀」(□ 内の文字は風化により読むことができない)と戒名が記されていることが確認された。 この戒名は、堀尾家の菩提寺である妙心寺春光院(京都府京都市所蔵の過去帳に記載されており、没年月日もこの宝篋印塔のものと一致しているが、俗名の記載はない。 さらにに堀尾義晴から忠晴まで仕えた家臣である、堀尾但馬が記しだとされる『堀尾古記』には,慶長十三年(一六〇八)の条に、 堀尾勘解由果てル、極月(十二月)五日京ニテ」との記述がみられることから、この戒名は勘解由のものと考えられる、よってこの墓石も勘解由のものである可能性が高いと考えられる。

本丸まで520m




七曲がり、曲がりくねる坂道




山吹井戸


ようやく山頂の石垣が近づいてきました。

袖ヶ平に到着、このような坂道を登りました。

袖ヶ平(そでがなり)
「七曲り」を登りきったところにあり、西方を監視する櫓があったと伝わる。石垣が残る。

袖ヶ平、石垣脇の階段を登ると三ノ丸





三ノ丸へ

三の丸
袖ヶ平の石垣を隔てた一段上に位置する。また、発掘調査の結果、破城の際に崩された石垣が発見されている。


三ノ丸の先、二ノ丸へ

二の丸
三の丸に続き、遠くに中海、さらに日本海を望むことができる。双児井戸跡が残る。また、発掘調査の結果、建物跡や柱穴の跡、備前焼の瓶等も発見され、破城の際に崩された石垣も発見されている。

二ノ丸から見た中海、日本海
逆光でした。



二ノ丸の先は本丸ですが、直に行ける道はなく





再び袖が平に戻り、石垣脇を歩き本丸へ




石垣脇、右の道は本丸へ向かう道



本丸が見えてきました。

坂を登り本丸へ

本丸から見た二ノ丸

本丸
月山最高所(吐月峰)に位置し、別称は"甲の丸"とも言われる。二の丸とは深さ7~8mの堀切で仕切られる。ここに所在する勝日高守神社は城の守護神社で、築城以前から所在したと伝えられる。





勝日高守神社




勝目高守神社の御朱印

勝目高守神社の御朱印は麓の安来市立 歴史資料館にて頂きました。300円






「先が見通せる」開運撮影スポットの案内

境内の木には穴、こちらが開運撮影スポット


本丸から引き返し、山を下ります。


帰路も七曲がり「相坂階段コース」


山中御殿平に降りてきました。

山中御殿平

狭間堀跡

塩谷口




大土塁



菅谷口



雑用井戸



太鼓壇、山中幸盛の銅像の横を通り過ぎ

坂を降りて


安来市 歴史資料館 と飯梨川が見えてきました。

麓に戻って来ました。


安来市 歴史資料館 の裏手に展示
史跡富田城跡全体地形模型





飯梨川

