月山富田城跡 島根県安来市

令和6年(2024年)5月9日㈭ 撮影


安来駅から


イエローバス 広瀬~米子線


に乗り月山入口に来ました。


安来駅1005発 広瀬ターミナル行きは月山入口1034着 運賃200円
バス停のすぐ近くには

安来市立 歴史資料館

月山富田城跡の麓に立つ。月山富田城のジオラマ模型や富田城の遺構、富田城の城主だった尼子・毛利・吉川・堀尾4氏の遺物などを展示。

開館時間 9:30~17:00 

定休日 火曜日(祝日の場合、翌日)年末年始 ※100名城スタンプは、休館日には玄関前に設置。 

入館料 大人210円 
月山富田城のジオラマ

安来市立 歴史資料館 に設置されている日本100名城スタンプを押しました。



富田城の御城印と

山中鹿介の武将印を購入

富田城跡、標高183.9mの月山への入口



*月山富田城(がっさんとだじょう)

島根県安来市広瀬町富田にあった城。月山(標高183.9m)に営まれる。
出雲源氏・富田氏の世居した城で、出雲国守護代の居城が塩冶より富田に移ってからは、守護代が在城した。1396年から1566年(戦国時代)には大名尼子氏の本拠地となり以後尼子氏とともに山陰の要衝の地となる。尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い、尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げた。その孫・尼子晴久の代には山陰・山陽八ヶ国守護の大大名となり、天然の地形を利用した難攻不落の要塞城といわれ「天空の城」とも呼ばれた。その後、城を巡っても度々攻防戦が行われたが最終的に尼子氏は毛利氏によって滅ぼされ、城も毛利領となった。 1600年(慶長5年)以降、堀尾氏が城主となるが、1611年(慶長16年)に堀尾忠晴が松江城へ移ると月山富田城も廃城となった。それまでは、山陰の首城たる地位を失わなかった。

1934年(昭和9年)、国の史跡に指定された。
平成に入り、樹木の伐採、石垣の修理など史跡公園としての整備が進められる。 
2006年(平成18年)、日本100名城(65番)に選定された。
2015年~2022年:第一期・第二期にわたって伐採・修復などの城跡全体の整備が行われた。

日本五大山城の一つとされることもある。

wikipediaより入口






月山の麓にある尼子興久の墓

案内板には

尼子興久墓

興久は経久の三男である。原手郡七百貫の領地がもらわれなかった為に、天文元年八月父にそむき、敗れて妻の父備後畠山城主山内大和守直通にたよったが、天文三年自殺した。年三十八歳


と予備知識がないと理解にしくい説明?以下はwikipediaより引用しました。


*尼子 興久【塩冶 興久】(1497〜1534)

戦国時代の武将。尼子氏の家臣。尼子経久の3男。出雲源氏の嫡流である塩冶氏の養子となる。
 享禄3年(1530年)、興久は父・経久に対して反乱を起こすも敗れて備後へ逃れた。天文3年(1534年)に自害。
小さな墓石

整備されて歩きやすい道









振り返ると月山の麓を流れる飯梨川







太鼓壇(たいこだん) 

千畳平に続く南側の郭で、時と戦を知らせる大太鼓が置かれていたと伝わる。現在、太鼓壇公園となり山中幸盛の銅像と尼子氏の碑が建っている。

太鼓壇公園から見た飯梨川、左手前の建物は安来市立 歴史資料館

太鼓壇

広瀬町名誉町民 桜内幸雄先生顕彰碑





太鼓壇に建つ山中鹿介像

再びwikipediaより引用、長くなりますが山中鹿介の生涯は興味深い……


*山中 幸盛(1545?−1578)

戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将。尼子氏の家臣。通称は鹿介(しかのすけ)。巷間では山中鹿介の名でよく知られる。尼子三傑の1人。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名。

通説によれば、天文14年(1545年)に出雲国富田庄(現在の島根県安来市(旧能義郡広瀬町))に生まれたとされる。山中家は尼子氏の家老であり。幼少の頃より尼子氏に仕え、8歳のとき敵を討ち、10歳の頃から弓馬や軍法に執心し、13歳のとき敵の首を捕って手柄を立てた。16歳のとき、主君・尼子義久の伯耆尾高城攻めに随行し、因伯(因幡国と伯耆国。現在の鳥取県)に鳴り響く豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取った。

永禄5年(1562年8月2日)、毛利氏は尼子氏を滅ぼすため出雲国へ進軍する。毛利元就に率いられた毛利軍は出雲へ入国すると、尼子方の有力国人らを次々と服従させた。
幸盛は永禄5年(1862年)の「白鹿城の戦い」。永禄7年(1564年)、「弓浜合戦」に参戦するも、尼子軍はで敗れ、尼子氏の居城・月山富田城は孤立化していく。

永禄8年4月(1565年5月)、毛利軍は月山富田城へ攻撃を開始する。 4月17日(5月16日)、毛利軍は月山富田城へ総攻撃を行う。(第二次月山富田城の戦い)。幸盛は塩谷口(しおたにぐち)で吉川元春らの軍と戦い、これを撃退した。 4月28日(5月27日)、毛利軍は城を落とすことができず敗れ、月山富田城から約25km離れた荒隈城まで撤退した。 9月、毛利軍は再び月山富田城を攻めた。この戦いで幸盛は品川将員を一騎討ちで討ち取った(山中幸盛・品川将員の一騎討ち)。また同月、幸盛は、白潟(現在の島根県松江市)に滞在していた小河内幸綱ら率いる毛利軍を夜討ちし、多数の兵を討ち取った。
永禄9年5月24日(1566年6月11日)、毛利軍は三たび月山富田城へ総攻撃を行う。しかし、城を落とすことが出来なかった。 11月21日(1567年1月1日)、城内の兵糧が欠乏し将兵の逃亡者も相次いだため、これ以上戦うことが出来ないと判断した尼子義久は、毛利軍に降伏を申し出る。そして11月28日(1月8日)、義久は城を明け渡し、ここに戦国大名尼子氏は一時的に滅びることとなる。義久ら尼子3兄兄弟]は、一部の従者と共に円明寺へ連行され幽閉されることとなった。幸盛は随従を願い出たが許されず、出雲大社で主君と別れた。その後、幸盛は尼子家を再興するため尽力することとなる


第一次尼子再興運動

尼子氏滅亡後、幸盛は牢人となる。その後、永禄9年 - 同11年の間(1566年 - 1568年)の幸盛の足取りは定かでない。幸盛は立原久綱ら尼子諸牢人とともに、京都の東福寺で僧をしていた尼子誠久の遺児・勝久を還俗させると、各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機会をうかがった。 永禄12年4月(1569年5月)、毛利元就が大友氏を攻撃するため北九州へ軍を派遣すると、挙兵の機会をうかがっていた幸盛は、出雲国へ侵攻を開始する。  6月23日(8月6日)、幸盛らは丹後国もしくは但馬国から数百艘の船に乗って海を渡り島根半島に上陸すると、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する。幸盛らがここで再興の檄を飛ばすと、国内に潜伏していた旧臣らが続々と集結し、5日の内に3,000余りの軍勢になったという。そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は、多賀元龍が籠もる新山城(真山城)を攻略すると、続いて宍道湖北岸に位置する末次(島根県松江市末次町。現在の松江城の建設地。)に城を築いてここを拠点(末次城)とし、山陰地方の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大していった(尼子再興軍の雲州侵攻)。 7月中旬、幸盛は、かつての尼子氏の居城・月山富田城の攻略に取りかかる(尼子再興軍による月山富田城の戦い)。この戦いは、力攻めによる攻略とはならなかったものの、城に籠もる毛利軍の兵糧は欠乏しつつあり、また、城内より投降者がでるなど尼子方が優勢であった。 しかし、石見国で活動していた尼子再興軍が、毛利軍に攻められ危険な状態となると、幸盛は、城攻めを一旦中止して救援に向う。 石見に駆けつけた幸盛は、毛利軍を原手郡( 現在の島根県出雲市斐川地域の平野部あたり )で撃破すると(原手合戦)、その後、出雲国内において16の城を攻略し、その勢力を6,000余りにまで拡大させた。
また、元就が尼子再興軍を討伐するため、九州より帰陣させた米原綱寛、三刀屋久扶などの出雲国の有力国人を相次いで味方につけると、出雲国の一円を支配するまでになった[。 さらに、伯耆国においても多くの主要な城を攻略、伯耆国全土にも勢力を拡大、因幡・備後・備中・美作においても勢力を拡張していった。
10月15日(11月23日)、相次ぐ領内の反乱により支配体制の危機を感じた毛利元就は、反乱軍の鎮圧を優先させるため、九州から軍を撤収した。
永禄13年1月(1570年2月)、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍を率い出陣する。毛利軍は北上して出雲国へ入国すると、尼子方の諸城を次々と攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。 一方の尼子再興軍は、先の原手郡の戦いや隠岐為清の反乱(美保関の合戦)などによって時間をとられ、出雲国の拠点である月山富田城を攻略することができないでいた。そのため尼子再興軍は、毛利軍の進軍を防ぐため布部(現在の島根県安来市広瀬町布部)に陣を張り決戦に備える。 2月14日(3月20日)、尼子再興軍は、布部で毛利軍と戦い敗北する(布部山の戦い)。幸盛は、味方が敗走するなかで最後まで殿として残り、軍の崩壊を防いだ後に居城の末次城へ帰還している。戦いに勝利した毛利軍は、翌2月15日に月山富田城に入城し、尼子再興軍の包囲から城を解放する。一方の尼子再興軍は、この戦いに敗れたことにより、以後衰亡していくこととなる。 6月、布部の敗戦により出雲における尼子再興軍の勢力は、新山城と高瀬城の2城となるまで追いつめられていた。
9月5日(10月4日)、安芸国で元就が重病に陥り、吉川元春を残して毛利輝元・小早川隆景らの軍が国許へ帰還すると状況が一変する。山陰地方の毛利軍が手薄になったことにより、幸盛ら尼子再興軍は再びその勢力を盛り返した。
 元亀元年10月6日(1570年11月3日)、出雲国における毛利軍劣勢の知らせを受けた元就は、毛利軍を援護するとともに、日本海側の制海権を奪還するため、直属の水軍部隊・児玉就英を派遣する。この援軍によって、その後の戦いは次第に毛利軍が優勢となり、10月下旬頃には十神山城が、12月には満願寺城が落城するなど、尼子再興軍の勢力は次第に縮小していった。 そして、元亀2年8月20日(1571年9月8日)頃には、最後の拠点であった新山城が落城。籠城していた尼子勝久は、落城前に脱出して隠岐へ逃れている。 同じ頃、末吉城に籠もり戦っていた幸盛も敗れ、吉川元春に捕らえられた。捕らえられた幸盛は尾高城へ幽閉されることとなったが、宍戸隆家と口羽通良の助命嘆願により周防国佐波郡徳地と伯耆国汗入郡大山に各1000貫の所領を与える約束がなされた。しかし幸盛はこれを受け入れず、その後に隙をついて脱出している。こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。

第二次尼子再興運動 

尾高城から脱出した幸盛は、海を渡って隠岐国へ逃れると、元亀3年3月 - 4月(1572年2月 - 3月)頃には再び海を渡って本土へ戻り、但馬国に潜伏する。再び尼子家再興の機会をうかがっていた。[
元亀4年(1573年)初頭、幸盛は但馬国から因幡国へ攻め込み、桐山城を攻略して拠点とすると、様々な軍事活動を開始する。幸盛は、因幡国を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を計画していたと思われる。 このとき、因幡国の実質的な領主は、毛利方の国人・武田高信であった。高信は、去る永禄6年(1563年)に当時の因幡国主・山名豊数と争って勝利を収めると、毛利氏と連携をとりつつ因幡の地で勢力拡大をしてきた人物である。 幸盛ら尼子再興軍は、豊数の弟で山名氏再起を目指す山名豊国を味方につけると、因幡国の各地で転戦し勝利を収め、勢力を拡大する。そして、天正元年8月1日(1573年8月28日)、甑山城(こしきやまじょう)の戦いで武田軍に決定的な勝利を得ると(鳥取のたのも崩れ)、高信の居城・鳥取城攻めを本格化させる。 尼子再興軍は、約1,000の兵で武田軍5,000が籠もる鳥取城へ攻め寄ると、その後も攻勢を続け、同年9月下旬に鳥取城を攻略した(尼子再興軍による鳥取城の戦い)。 城に籠もっていた武田家臣らは、尼子再興軍に人質を差し出し降伏した。 鳥取城には山名豊国が入り、尼子再興軍は、私部城に本拠を構え居城とした。 幸盛はその後、10日の間に15城を攻略するなどして勢力を3,000余りに拡大し、東因幡一円の支配に成功した。 ところが11月上旬、山名豊国が毛利方に寝返ると尼子再興軍は、わずか1ヶ月余りで毛利氏に鳥取城を奪い返されてしまった。鳥取城を奪われ勢力が不安定となった幸盛は、その後、因幡各地でさまざまな軍事活動・調略を行い、因幡平定に向けて尽力することとなる。 因幡国内で毛利軍と交戦する一方、美作三浦氏や備前国の浦上氏、豊前国の大友氏などの反毛利勢力と連携を図るとともに、密かに織田信長配下の柴田勝家と連絡を取って体制の立て直しを図っていった。
これら戦いの中で幸盛は、天正2年11月(1574年12月)、美作三浦氏の居城・高田城で宇喜多直家軍を撃退し功績を挙げたとして、大友宗麟から火薬の原料となる塩硝1壷をもらい受けるなどしている。 天正3年5月(1575年7月)、但馬国の山名祐豊が毛利氏と「芸但和睦」と呼ばれる和平交渉を成立させる。 かつて毛利氏と敵対し、尼子再興軍を支援していた祐豊であったが、この頃は織田信長に但馬の支配権や生野銀山に対する権益を脅かされつつあり、毛利氏と手を組むことは重要であった。 但馬山名氏の支援を受けられなくなった幸盛は、天正3年6月14 - 15日(7月21 - 22日)に因幡国の若桜鬼ヶ城を攻略し、拠点をここに移す。元の居城・私部城には亀井茲矩が入ったとされる。 この若桜鬼ヶ城は、因幡国から但馬・播磨へ向かう山間交通路の結節点に位置しており、敵対する山名氏の本拠である但馬を避けつつ、播磨から京都へ向かうルートを確保するという目的があったと思われる。 6月、吉川元春と小早川隆景は、約47,000の兵を率いて因幡国へ軍を進め、尼子再興軍への総攻撃を開始する。 元春ら毛利軍は、尼子再興軍の諸城を次々と攻略するとともに、8月29日(10月2日)には幸盛が籠もる若桜鬼ヶ城へ攻撃を開始する。尼子再興軍は、毛利軍の攻撃を防ぎ撃退することに成功するも、10月上旬頃には私部城が落城し、因幡における尼子再興軍の拠点はこの若桜鬼ヶ城の1城を残すのみとなるのである。しかしながら、その後の尼子再興軍の奮戦や、山陽方面で織田氏と毛利氏との間の緊張が高まったことなどにより、10月21日(11月23日)、毛利軍は若桜鬼ヶ城の周辺に多数の付城を築いて因幡から撤退する。 ところが、反毛利勢力の三村氏の滅亡、浦上氏の衰退、また支援を受けていた美作三浦氏が毛利氏に降伏したことなどもあり、尼子再興軍は因幡国において完全に孤立化する。 さらに、元春ら毛利軍主力の撤退後も因幡の毛利勢から圧力を受け続けたこともあって、天正4年(1576年)5月頃、尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し因幡国から撤退する。こうして、2回目の尼子再興運動も失敗に終わった。

第三次尼子再興運動 - 幸盛の死 

 因幡国より撤退した幸盛は、織田信長を頼り京へ上る。 京で信長に面会した幸盛はその後、織田軍の下で尼子家再興を目指すことになる。 
天正4年(1576年)、幸盛ら尼子再興軍は明智光秀の軍に加わり、但馬八木城攻めや丹波籾井城攻めに参加する。11月、明智軍が籾井城を攻めて敗れると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍の殿となり、追撃する波多野・赤井軍を迎え撃って切り崩し、軍の崩壊を防いだことで光秀より褒美を賜っている。その他、丹波攻めの際には2度の比類ない働きをした。 天正5年(1577年)、幸盛は、信長の嫡子・織田信忠に従い、片岡城攻めや松永久秀が篭城する信貴山城攻めに参加する(信貴山城の戦い)[126][35]。幸盛はこのとき、片岡城攻めでは1番乗り、信貴山城攻めでは2番乗りの功績を上げた。また、この戦いで幸盛は、久秀配下の将・河合将監を一騎討ちで討ち取っている。 
10月、信長の命令を受けた羽柴秀吉が播磨へ進軍を開始すると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍を離れ、秀吉軍の下で戦うこととなる。
12月(1578年1月)、秀吉が、播磨西部の毛利方の拠点である上月城を攻略すると、幸盛は、主君・尼子勝久と共にその城に入る。尼子再興軍は、この城を拠点として最後の尼子家再興を図って行く。 上月城は小城であったが、備前・美作・播磨の国境に位置し、この地域を治める上で重要な拠点であった。城番となった幸盛は、この区域の守備を行うと共に、織田氏と美作江見氏との仲介を行うなど、美作国人の懐柔・調略を行ってい]。 天正6年2月1日(1578年3月9日)、宇喜多軍の将・真壁次郎四郎が約3,000の兵で上月城を攻める。この戦いは、幸盛が約800の兵を率いて宇喜多軍を夜討ちし、次郎四郎を討ち取って尼子再興軍が勝利している。 
2月中旬(3月下旬)、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方する。 織田氏と交戦状態にあった毛利氏は、これを好機と捉え、4月、吉川元春・小早川隆景ら率いる3万以上の兵をもって播磨に進軍する。そして4月18日(5月24日)、尼子再興軍が籠もる上月城を包囲する。 5月4日(6月9日)、毛利軍による上月城包囲の知らせを受けた秀吉は、荒木村重らと共に1万の軍を率いて上月城の救援に向かい、高倉山に布陣する。しかし、秀吉軍は、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられたことや[、6月21日(7月25日 )の高倉山合戦で毛利軍に敗れたこともあって、6月26日(7月30日)に陣を引き払い書写山まで撤退する。その結果、上月城は孤立無援となり、兵糧が底を突き、また城を離れる者も後を絶たなくなったため、7月5日(8月8日 )、尼子再興軍は毛利軍に降伏する(上月城の戦い)。 降伏の条件として、尼子勝久及び弟の助四郎は切腹、幸盛と立原久綱は生け捕られ人質となる。その他、毛利氏に敵対した多くの者は処刑され、それ以外の者は許され解放された。 人質となった幸盛は、備中松山城に在陣する毛利輝元の下へと連行されることとなる。しかし、途上の備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏家臣の福間元明により謀殺された。享年34または39。

衰亡した主家に忠誠を尽くして戦い続け、その有り様が後人の琴線に触れ、講談などによる潤色の素地となった。特に江戸時代には忠義の武将としての側面が描かれ、悲運の英雄としての「山中鹿之助」が創られていく。これが世に広く知られ、武士道を精神的な支柱とした明治以降の国民教育の題材として、月に七難八苦を祈った話が教科書に採用された。

月太鼓壇公園に建つ山中鹿介幸盛の銅像は1978年、幸盛没後400年を記念して建立された。 




太鼓壇から見た月山山頂の石垣




奥書院平(おくしょいんなり) 

大手道と搦手道の間、太鼓壇と山中御殿平の間に位置する。奥書院があったと伝えられ、現在は戦没者慰霊碑が建っている
戦没者慰霊塔






花ノ壇(宗松寺平(そうじょうじなり))

 大手道と搦手道の間、山中御殿平の正面、一段下に位置する。かつて、多くの花が植えられていたことからこの名がついたといわれる。発掘調査をもとに主屋と侍所が復元されている
手前が侍所(管理棟)、奥が主屋(休憩施設)





主屋

主屋内部

花ノ壇から山中御殿平を見ます。
















山中御殿平(さんちゅうごてんなり) 

御殿が所在したところで、麓の里御殿に対して山中御殿と呼ばれたものと考えられている。上下2段に分かれており、南側上段に城主の館、北側下段に付属の館があったと伝わる。発掘調査によって建物の基礎とみられる石列が確認されたが、時代は特定されていない。 

























本丸へ向かいます。急な坂道