延岡城跡

宮崎県延岡市 城山公園

令和6年(2024年)4月18日㈭


雨上がりの朝、延岡市内を歩くと延岡城跡の城山が見えてきました。標高53.5m
城山公園の麓は整備されています。

*延岡城

宮崎県延岡市本小路にあった城。もとは縣城(あがたじょう)といい、別名に亀井城(かめいじょう)という。

 慶長8年(1603年) に高橋元種によって築かれた平山城である。築城当初は縣城と呼ばれたが、後に延岡城へ改称されている。縣藩、後の延岡藩の政庁、臼杵郡地域の拠点とされた。 
明暦期の有馬氏による改築を経て、明治維新までの江戸期をつうじて、縣藩(三浦明敬支配期以降は延岡藩)の政庁となった。 しかし、高橋元種は1613年に罪人を匿ったとして改易され、その後は有馬氏・三浦氏・牧野氏と続き、内藤氏支配で幕末を迎えた。明暦1年(1655年)の有馬康純修築時に建設された天守代用の三階櫓は、1683年に焼失して以後再建されなかった。 1870年(明治3年旧暦10月)に薬園として活用することを新政府へ出願して聴許され、廃城となった。西ノ丸は内藤氏の私有地となるが、1881年(明治14年)に延岡市へ寄贈され、「内藤記念館」として利用されたが太平洋戦争時の1945年(昭和20年)の空襲によって焼失した。
 延岡城には、ある石をはずすと一気に全壊し、一度に千人の敵兵を殺すことができるという石垣があり、「千人殺し」と呼ばれている。 天主台跡に鐘付き堂があり、現在も1日に6回、市民に時刻を告げている。 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(195番)に選定された。

wikipediaより引用
舗装された道なので雨上がりでも歩きやすい。



麓にある北櫓跡、石垣が残っています。











舗装された坂道の先には

石垣と北大手門が見えてきました。

北大手門の脇には内藤家墓所







内藤家墓所の門



北大手門を潜りました。奥に見えるのは内藤家墓所の門

北大手門は平成5年(1993年)の復元

高さ19m、「千人殺しの石垣」が見えてきました。







二ノ丸広場から見た「千人殺しの石垣」


続日本100名城スタンプは二ノ丸広場管理事務所入口前に設置


押しました。



「千人殺しの石垣」の上、本丸跡へ向かいます。

二ノ丸跡







左下に見えるのは二ノ丸広場管理事務所





二階門(櫓門)跡





本丸跡に来ました。

本丸跡に建つ「殉国慰霊碑」

内藤 政挙(ないとう まさたか)

内藤 政挙(1852−1927)

日向国延岡藩の第8代(最後)の藩主。延岡藩内藤家宗家13代。 明治2年(1869年)6月の版籍奉還で延岡藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免官された。
明治43年(1910年)1月には延岡電気所を設立した。電力事業は築港とあわせ、今日の旭化成につながる日本窒素の工場誘致の呼び水となり、今日の延岡市の経済的基礎を築くこととなった。地域経済を活性化させた偉業を顕彰する銅像が、後年、延岡城に建てられている。 







本丸跡からの眺め



天守台跡への坂道





天守台跡が見えてきました。







天守台跡に建つ鐘付き堂

現在も1日に6回、市民に時刻を告げています。

初代の鐘は明暦2年(1656)、当時の延岡藩主であった有馬康純が今山八幡宮に寄進した梵鐘。明治10年(1877)の西南戦争において、薩軍が砲や弾丸の材料として徴発するのを今山の谷間に隠すことで逃した後、焼かれた城山(延岡城跡)の大太鼓に代わって明治11年(1878)に今山から城山に移されたと伝えられる。それ以後、昭和38年(1963)まで時報鐘として使用された。
現在の鐘は、市民からの浄財によって作られた2代目の鐘。













天守台跡から

坂を下ります。



三階櫓跡、埋蔵文化財発掘調査中







見上げると天守台跡と鐘付き堂



吹上坂





三ノ丸跡



石御門あと



仲田又次郎 胸像


仲田又次郎 (1893~1970)

延岡市の初代、9代市長。延岡町議を経て、1933年に市長に就任。第二次大戦後、再び市長に就任。






井戸堀跡